第十話 鉱石みたいな匂い
山を降りるのは、登るより早かった。
理由は単純で、隣を歩いている銀灰色の獣の足が速い。俺が三歩歩く間にこいつは一歩で、しかもその一歩が俺の五歩分くらいある。
「ちょっと待って。置いていかないで」
『……我の歩幅に合わぬか』
「合わない。俺の足は短い」
『ならば背に乗るがよい』
「えっ」
『我は駿馬ではないが、汝を運ぶ程度は造作もない』
造作もないと言われても、牛より大きい銀灰色の獣の背中に乗るというのは、心の準備がいる。
——いや。ムックの頭に指を乗せるのに七年かかったわけじゃない。最初から乗せてくれた。これも同じだ。
横腹に手をかけた。毛は硬いが、掴むところはある。よじ登った。背中は広い。座れる。思ったより安定している。
『しっかりつかまれ』
歩き出した。揺れる。馬車より揺れない。歩幅が大きい分、一歩一歩が滑らかだ。高い。景色が違う。木の枝が顔の横を通り過ぎる。
蝙蝠の洞窟の前を通った。
『……あかい、み、の、ひと! おおきい、の、のってる! のってる!』
蝙蝠の声が跳ねている。跳ねすぎて裏返っている。
---
トレントの空間を抜け、Dランク帯を通過し、北部の入り口まで来た。登りで一日かかった道を、半日で降りてきた。
北門が見えた。門番が見えた。門番がこっちを見て……固まった。
——まあ、そうなるだろう。
「あの。通してもらっていいですか」
門番は俺を見て、銀灰色の獣を見て、俺を見て、獣を見て、もう一度俺を見た。
「……坊主、なんだそれは」
「仲間です」
「仲間」
「はい」
「……従魔登録は」
「してないです」
「し、してないなら街に入れられん。規則だ」
そうか。従魔登録。テイマーが魔物を街に入れるための制度だ。でも俺はテイマーじゃないし、こいつを従えてもいない。
背中から降りて、こいつの顔を見上げた。
「どうする?」
『我は人の街には入らぬ。人の営みの中に我が身を置くことは、天の理に反する』
天の理。神の眷属としての矜持だろう。フリッツに従属するつもりがないのは最初からわかっていたし、俺もそれを望んでいない。なんとなく——こいつを「登録」して管理下に置くというのは、嫌だった。
「じゃあ、この辺りで待っていてもらえる場所を探すよ」
『任せよう』
---
門番に事情を話して、先に一人で街に入った。ギルドに走って直行した。
受付の人が俺を見た。
「フリッツ。遠征から……何日ぶり?」
「四日です。あの、相談があるんですけど」
息を整えながら、受付の人を見上げた。
「何かしら」
「北門の外に、大きい魔物がいます。俺の仲間です」
受付の人も固まった。
「……大きい魔物」
「角が一本あって、銀灰色で、牛より大きいです」
受付の人の顔が変わった。ゆったりとした動作で書類を置いて、奥のグスタフを呼んだ。受付の人から耳打ちされて、変な顔をした。いつもより変な顔だった。
「……お前、単角獣を連れてきたのか」
「連れてきたというか、一緒に来ました」
「一緒に来た」
「はい」
「それはどんな見た目なんだ。もっと細かく教えてくれ」
「ええと……」
俺は毛が硬くて、目が金色で、馬みたいだけど馬より神々しい感じで、鉄っぽいにおいがして……。
みたいな取り留めない言い方になりながら伝えた。
グスタフが受付の人と目を見合わせて、頷きあったかと思うと受付の人が書庫に走った。分厚い本を一冊持ってきて、カウンターに広げた。古い本だ。ページが黄色い。
「単角獣——エーデルホルン。この地域での最後の観測記録は……三百二十年前」
「……そんなに珍しいんですか」
「珍しいどころじゃないわ。この種は数百年に一度しか目撃されない。ギルドの本部に報告が必要なレベルよ」
グスタフが腕を組んだ。
「で、そいつが今、北門の外にいるのか」
「います。ただ、従魔登録はしてなくて。街に入れないし、本人も入りたくないと言ってます」
「本人」
「はい、本人です」
グスタフがまた変な顔をした。もう何回目かわからない。
---
結局、北門のすぐ外にある使われていない厩舎を借りることになった。
昔は街道を往来する馬を繋いでいた場所で、その横に小さな山小屋もある。北部方面の冒険者が減って、どちらも何年も使われていなかった。屋根はあるが壁は半分崩れている。掃除が必要だ。
ギルドに使用許可を申請して、受付の人が「前例がないから上に確認する」と言ったが、グスタフが「まず見に行く」と言い出した。
北門を出た。
あいつが厩舎の前の草地に立っていた。夕方の光を受けて、銀灰色の体毛が光っている。角が白く、空に向かって伸びている。
グスタフが立ち止まった。
しばらく何も言わなかった。
「……でかいな」
「でかいです」
「本当にエーデルホルンか」
「たぶん。本人に聞いたわけじゃないですけど」
「聞けるのか。お前なら」
「聞けます。ねえ、お前ってエーデルホルンっていう種族名なの?」
『うむ。いかにも、人の里に降りてきたのは久方ぶりだ』
「エーデルホルンだそうです。久しぶりに、人の里に来たって」
グスタフはしばらく銀灰色の獣を見上げていた。
それから、何回か唸りながら天を仰いでから、俺のほうを向いた。
「厩舎、使え。俺からギルドに言っておく」
---
厩舎を掃除した。
蜘蛛の巣を払って、古い藁を出して、床を掃いた。山小屋のほうも窓を開けて風を通した。
あいつは厩舎の中に入ると少し窮屈そうだったが、横になれる広さはあった。角が天井に当たりそうだが、首を少し下げれば大丈夫だ。
「狭くないか?」
『山の洞窟よりは温かい。十分だ』
「よかった」
山小屋のほうに荷物を置いた。ここが俺の前線拠点になる。やかん亭の部屋はまだ借りてあるが、しばらくはここで過ごすことが増えそうだ。
日が暮れてきた。厩舎の入り口に座って、干し魚をかじった。隣にこいつが横たわっている。大きい。横になっていても、頭の位置が俺より高い。
「そういえば、名前」
『名は天とのつながりの中にある。今はまだ告げられぬ』
「本名じゃなくて。呼び名。ずっと『ねえ』とか『お前』じゃ不便だろ」
『好きに呼ぶがよい』
鼻先を近づけた。匂いを嗅いだ。鉄と、土と、名前のない何か。ずっと追いかけてきた匂い。
「……なんだか、鉱石みたいな匂いがする」
『鉱石』
「うん。鉄と土が混じったやつ。村の裏山の、岩を割ったときの匂いに似てる。……エルツでいいか」
『……エルツ』
「鉱石って意味。短いし、呼びやすい」
『……エルツで構わぬ』
構わぬ、と言いつつ、金色の目が少しだけ細まる。嫌ではなさそうだけど気に入ってもないかもしれない。
「じゃあ、エルツ。よろしく」
『よろしく頼む。フリッツ』
---
翌朝、エルツの背中に乗ってDランク帯の依頼に出た。
速い。とにかく速い。
昨日の山道で実感していたが、依頼の採取地まで半日かかっていた道のりが、二刻で着いた。
エルツの背中で帳面にメモを取ろうとしたが、揺れて字が波打った。走っているときは諦めたほうがいい。
採取地に着いたら、Dランク帯の魔物たちの反応がこれまでと全く違った。
モスリンが三匹、岩陰から出てきた。俺の靴の匂いを嗅いで——それからエルツを見上げて——固まった。
『……もす、におい。あの、ひと。でも……おおきい……おおきいの……いる……こわ……こわく……ない? こわくない。もす、におい、するから。だいじょうぶ? だいじょうぶ……?』
パニックと安心が交互に来ている。苔の匂いの信用状と、エーデルホルンの圧倒的な存在感が、モスリンの中でぶつかり合っている。
「大丈夫だよ。この子は友達」
エルツが首を下げて、モスリンの高さまで顔を近づけた。
『小さき者よ。案ずるな。我は汝に害をなさぬ』
モスリンが固まった。たぶん声の格が違いすぎて処理できないんだと思う。
しばらくして、一匹が鼻先をエルツの前足に押し付けた。恐る恐る。
『……あったかい。おおきい、けど。あったかい』
エルツの金色の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
---
採取を終えてエルストに戻る途中、エルツが不意に足を止めた。
「どうした?」
『……天の声が聞こえる。微かだが……何か言っている』
「何て?」
エルツが耳を立てた。角が僅かに光った気がした。
『…………聞き取れぬ。断片だ。「……もふ……」「……その子……」「……触り……」——意味をなさぬ』
「……もふ?」
『もふ、と聞こえた』
「…………」
天の声が「もふ」。
神がいるとして、その神が最初に伝えてきた言葉が「もふ」。
何かの間違いだと思いたいが、エルツの耳は確かだろう。
「……えっと、それ、大事なことなのかな」
『天の言葉に無意味なものはない——はずだ。はずなのだが。我にも解せぬ』
エルツが困惑している。神の眷属が困惑している。数百年を生きた存在が「もふ」に困惑している。
帳面に書いた。
エルツ経由で天の声の断片。内容:もふ、その子、触り。意味不明。要経過観察。
——たぶん、これは経過を観察したところでわからない気がする。
---
厩舎に戻ったら、グスタフが来ていた。手に小さな布袋を持っている。
「グスタフさん。何してるんですか」
「見に来た。……あと、毛が落ちてたから拾わせてもらった」
グスタフが俺を見て、エルツを見て、俺を見た。
「……一応、本人に聞いてくれるか」
「エルツ。毛、もらっていいって?」
『構わぬ。落ちた毛に執着はない』
「いいってさ」
グスタフは布袋を大事そうに抱えた。鑑定士の顔になっている。
「エーデルホルンの体毛のサンプル。三百二十年ぶりのだ。これだけで論文が書ける」
「論文を書くんですか」
「俺が書くわけじゃない。鑑定士だからな。だが価値はわかる」
グスタフはそれだけ言って、街に帰っていった。帰り際に一度だけ振り返って、エルツを見た。
変な顔ではなかった。初めて見る顔だった。たぶん、感動しているんだと思う。
---
夜。山小屋で帳面を広げた。
今日のメモは長い。エルツの歩幅、背中の乗り心地、モスリンの反応、天の声の断片、グスタフの訪問。
ページをめくって、最初のほうを見た。蝙蝠の洞窟の記録。トレントの一文三十分かかった記録。アカツキタケの絵(四角い)。蝙蝠の絵(鳥に見える)。
帳面はだいぶ厚くなった。字は相変わらず下手だが、最初のページより少しだけ読みやすくなっている気がする。気のせいかもしれない。
新しいページに「エルツ(エーデルホルン)」と書いた。
種族名と愛称を並べて、その下にこいつの特徴を箇条書きにしていった。銀灰色の体毛。白い角。金色の目。古風な話し方。鉱石の匂い。お礼を言う時は、鼻先を押し付ける。
最後に一行足した。
「天の声を聞くことがある。まだ内容は不明。もふ。」
帳面を閉じて、横になった。厩舎の向こうでエルツの呼吸が聞こえる。大きくて、ゆっくりで、安定している。
外から風が入ってくる。鉄と土と、名前のない何かの匂い。
もう名前のない匂いじゃない。エルツの匂いだ。




