第十一話 隅々まで使え
エルツとの生活は三日目で型ができた。
朝、山小屋で起きる。厩舎を覗くと、エルツはもう起きている。たぶん俺より先に起きている。夜明け前に台地の方角を向いて、じっと立っていることがある。天の声を聞こうとしているのかもしれない。聞かないことにしている。
朝飯を食べる。硬いビスケットと水。
エルツに乗ってDランク帯に出る。採取して、帰る。
夕方、厩舎の前で帳面を書く。エルツが横で寝ている。
悪くない日常だ。
ただ、一つ問題があった。
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四日目の朝、いつものようにビスケットをかじっていたら、エルツが首を伸ばしてきた。鼻先が俺の手元に来た。匂いを嗅いでいる。
『……汝、毎朝それを食しておるのか』
「うん。ビスケット。保存が効くから」
『昼は』
「干し魚」
『夜は』
「干し魚とビスケット。あ、けどやかん亭でシチューを食べる」
エルツがしばらく黙った。金色の目が俺を見ている。何かを考えている顔だ。
『……汝は。我が背に乗り、山を駆け、魔物と対話し、素材を採り、日暮れまで働いておきながら。干し魚とビスケットで体を保てると思うておるのか』
「……保ててるけど」
『保てておらぬ。汝の体温が、三日前より下がっている。我の背にいればわかる』
体温が下がっている。そう言われると、朝の冷え込みが少しきつくなった気はする。でもそれは季節のせいだと思っていた。
『人の子は脆い。我とは違う。肉を食え。温かいものを食え。干し魚では足りぬ』
「肉って言われても。俺、狩りもあんまりしないから」
エルツが立ち上がった。厩舎から出て、北の方角を向いた。
『待っておれ』
「え、どこ——」
いなくなった。
速い。あの巨体で、音もなく森に消えた。
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一刻ほどして、エルツが戻ってきた。
口に何かをくわえている。大きい。灰色の毛皮。四本足がだらんと垂れている。
鹿だ。普通の鹿。魔物ではない。
エルツが厩舎の前に鹿を置いた。もう息がない。
『山で獲った。食え』
「……お前が狩ったの?」
『我はもともと山で生きておった。獲物を獲ることくらいはできる。狩りをせぬのは汝の村の流儀であろうが、我は山の獣だ』
——そうだった。エルツは神の眷属であって、俺の村の一員ではない。対等な関係だ。エルツにはエルツの生き方がある。
「……ありがとう。でも、俺、解体の仕方を知らない」
『知らぬのか』
「村では狩りをあまりしなかったから。鶏は飼ってたし、たまに寿命で死んだ魔物の肉をもらうことはあったけど、自分で獲物を捌いたことがない。肉を食べるのも祭りのときくらいで」
エルツが俺を見た。呆れているのか、感心しているのか、判別がつかない。たぶん呆れている。
『ならば街に持っていけ。人の街には獣を捌く者がおるであろう。対価を払えば肉にしてくれる。皮も骨も角も、隅々まで使え。命を獲ったならば、無駄にするな。それが礼儀だ』
隅々まで使え。
ムックは「おいしくない」と言うだけだったが、エルツは食の心得まで説教してくる。格の違いを感じる。
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鹿を背負って——重い——北門をくぐった。門番が見た。
「……坊主、それどうした」
「もらった」
「誰に」
「エルツに」
「エルツって誰だ」
「門の外にいる大きいやつ」
門番の顔がまた固まった。だんだん慣れてきた。
ギルドの裏手に解体屋があることは、レオンに前に聞いていた。「討伐した獲物はそこに持っていけ」と。まさか自分が使うことになるとは思わなかったが。
解体屋は無愛想なおじさんが一人でやっていた。鹿を見て、慣れた手つきで状態を確認した。
「いい鹿だな。傷が少ない。首を一撃でやられてる。いい猟師の仕事だ」
猟師ではなく神の眷属の仕事だが、言わなかった。
「解体と精肉で銅貨五枚。皮と骨は別で買い取れる。全部合わせると銅貨三十枚くらいになるな」
銅貨三十枚。ビスケットと干し魚を何日分買える額だ。しかもこっちは肉が手に入る。
「皮と骨の買い取りをお願いします。精肉と、あと、内臓は使えますか」
「内臓? ああ、薬屋に卸せるものもあるな。肝と腎は引き取れる。銅貨五枚追加だ」
隅々まで使え、とエルツが言った。肉だけじゃなく、皮も骨も内臓も。命を獲ったなら無駄にするな、と。
帳面にメモした。
鹿一頭の分解:精肉、皮(買取)、骨(買取)、肝・腎(薬屋へ)。合計銅貨三十五枚。解体費用五枚差引で三十枚。
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肉を持って厩舎に戻ろうとして、問題が一つ。調理する場所がないんだった。山小屋には竈がない。
やかん亭のおじさんに頼んで、厨房を使わせてもらった。銅貨一枚で火を使っていいと言われた。
肉を焼いた。塩だけ振って、火に当てた。料理の腕は母さんの足元にも及ばないが、焼くだけなら失敗しようがない。
焼けた肉を山小屋に持ち帰って、食べた。
——美味い。
干し魚とビスケットの日々を経た後の、焼きたての鹿肉。脂が甘い。噛むと肉汁が出る。塩だけなのにこんなに美味いのか。
厩舎からエルツが首を伸ばしてきた。
『どうだ』
「美味い。すごく美味い」
『であろう。干し魚などという枯れた食い物で体を壊されては、我が困る。汝が倒れたら、我は誰と話せばよいのだ』
「……心配してくれてたの?」
『…………心配ではない。合理的な判断だ』
合理的な判断。ムックなら『フリッツ、げんき、ないと、さみしい』と言うところを、エルツは「合理的な判断」と言う。
でも意味は同じだと思う。
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翌朝、エルツの体毛を手入れした。
きっかけは背中に乗っているときに気づいたことだった。銀灰色の毛は硬いが、根元に近い部分に草や小枝が絡まっている。台地にいた頃から手入れされていないのだろう。角の根元にも泥がこびりついている。
「ちょっとじっとしてて」
『何をする』
「毛に枝が絡まってる。取っていい?」
『……好きにせよ』
小刀の背で毛を梳いた。草の屑を取り、絡まった小枝を外した。根元のほうは指で丁寧にほぐした。毛が硬いから手が痛いが、やっているうちにコツがわかってきた。毛の流れに沿って梳くと引っかからない。
角の根元の泥は、水で湿らせた布で拭いた。白い角の表面に走っている模様が、泥を取ると綺麗に見えた。文字のようにも、年輪のようにも見える。
『…………』
エルツが黙っている。目を閉じている。
「痛い?」
『……いや。痛くはない。ただ……久しく、このようなことをされたことがなかった』
「台地にいた頃は?」
『一人であった。誰に手入れをされることもなかった。……数百年、一人であった』
数百年。ムックが七年で、俺がいちばん長い付き合いだと思っていた。こいつは数百年、一人で山にいた。
何も言わずに、毛を梳き続けた。
帳面にメモした。「エルツの手入れ:毛は硬いが根元は柔らかい。流れに沿って梳く。角の根元は泥がたまりやすい。水拭きで取れる。手入れ中は目を閉じる。気持ちいいらしい(本人は認めない)」。
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その日の夕方、グスタフが来た。今度は薬屋のおばさんも一緒だった。
「鹿の肝を持ってきた子がいるって聞いてね。あんたかい」
「はい。エルツが獲ってきたので」
「エルツ?」
「門の外にいる大きいやつです」
薬屋のおばさんが厩舎を覗いて、固まった。門番と同じ顔だ。
「……あんた、あれと暮らしてるのかい」
「暮らしてるというか、隣にいるだけです」
グスタフは今日も毛を拾いに来ていた。布袋が前回より大きくなっている。
「あんた、あの子の毛を梳いてやってるのかい」
「朝やりました」
「梳いた毛、捨ててないだろうね」
「……捨てましたけど」
薬屋のおばさんとグスタフが同時に俺を見た。同じ顔をしていた。「もったいない」という顔だ。
「エーデルホルンの体毛だよ。梳いて落ちた毛でも買い手はつく」
「……そうなんですか」
エルツが厩舎から声を出した。
『落ちた毛に執着はないと申したであろう。好きにすればよい。ただし——使うのならば隅々まで使え』
隅々まで使え。二回目だ。
帳面にメモした。
エルツの梳き毛:捨てない。グスタフか薬屋に渡す。同化になる買い手がつく。
エルツの教え:隅々まで使え。
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夜。山小屋で焼いた鹿肉を食べながら帳面を見返した。
この数日で帳面の内容が変わってきている。採取のメモだけじゃなく、エルツとの生活の記録が増えている。食事のこと、手入れのこと、エルツの言葉。
村では狩りをしなかった。魔物と共存して、必要以上に命を獲らなかった。でもそれは「命を軽く見ている」のとは違う。たまに寿命で死んだ魔物の肉を村でいただくとき、爺ちゃんはいつも「残すな」と言っていた。
エルツの「隅々まで使え」は、爺ちゃんの「残すな」と同じことだと思う。
それは、俺がやってきたことと矛盾しない。
エルツの呼吸が聞こえる。大きくて、ゆっくりで、安定している。
——最近は、あの天の声の断片は聞こえないらしい。「もふ」は一度きりだった。地脈が安定していないのかもしれない、とエルツは言っていた。
まあ、「もふ」が天の声の全容でないことを祈る。




