第五話 猪と、剣と、苦い草
五日目の朝、ギルドの掲示板の前で見覚えのある背中を見た。
剣を腰に差した若い男。乗合馬車で一緒だった。あのとき馬のことで窓から身を乗り出して、俺が棘を抜くのを何も言わずに見ていた人だ。
向こうもこっちに気づいた。
「……お前、馬車のガキか」
「お兄さんも冒険者だったんですか」
「お兄さんって歳じゃない。レオンだ。Eランク」
Eランク。俺のFランクより一つ上。先に始めている人なんだろう。剣の柄が使い込まれている。
「フリッツです。Fランク」
「知ってる。鑑定士のグスタフが言ってた。毎日素材を持ってくる変な新人がいるって」
変な新人。門番にも同じようなことを言われた気がする。
「今日はどの依頼を受けるんですか」
「東の農地のほうだ。ヴィルドボアの討伐依頼が出てる」
掲示板を見た。確かに貼ってある。
「ヴィルドボア討伐 東部農地付近 D〜Eランク推奨 報酬:銀貨二枚 ※耳の持ち帰りで確認」
銀貨二枚。銅貨に換算すると二百枚。俺の三日分の稼ぎの四倍だ。討伐は稼ぎがいい。
「ヴィルドボアって何ですか」
「猪の中型魔獣だ。牙がある。繁殖期は気が荒いが、今は繁殖期じゃない。それなのにここ数日、農地に降りてきて畑を荒らしてる」
「繁殖期じゃないのに降りてきてるんですか」
「だから依頼が出てるんだろう。普通じゃないから」
レオンは掲示板から依頼書を剥がして、受付に持っていった。
俺も掲示板を見た。東の農地方面で採取依頼が一枚。キバナコウソウの追加発注だ。同じ方角。
依頼書を持って受付に行ったら、レオンがまだカウンターにいた。
「……お前も東か」
「キバナコウソウの採取です」
「同じ道だな」
レオンは少し考える顔をして、それから言った。
「途中までなら一緒に行くか。Fランクが一人で歩いてると絡まれることもある」
「絡まれる?」
「人にだよ。冒険者にも質の悪いのはいる」
ありがたい話だったので、ついていくことにした。
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東門を抜けて、街道を外れ、農地のほうに向かう道を歩いた。
レオンは歩くのが早い。足が長いのもあるが、周囲を警戒しながら歩いているので無駄がない。俺はときどき小走りになった。
「お前、武器は?」
「小刀だけです」
「……正気か」
「討伐しないので」
「聞いたよ、それは。でもお前を討伐するやつが来たらどうする」
「逃げます」
レオンは黙った。反論する気力を失ったような顔だった。
道の脇に沢が見えてきた。前に虫系にキバナコウソウの場所を聞いた沢だ。
「俺はここで採取するので、ここからは別々に——」
「待て」
レオンが足を止めた。道の先を見ている。
農地が見えた。石垣で囲まれた畑が何枚か並んでいて、そのうちの一枚がひどいことになっていた。土が掘り返されて、苗が踏み潰されている。石垣の一角が崩れていた。
畑の奥に、何かがいる。
灰色の体。低い姿勢。地面に鼻を突っ込んで、土を掘っている。頭の横から太い牙が二本出ている。体高は俺の腰くらい。背中の毛が逆立っている。
ヴィルドボア。
「いたな」
レオンが剣の柄に手をかけた。
「ちょっと待ってください」
「何だ」
「あいつ、怒ってないです」
「……は?」
「背中の毛が逆立ってるのは怒ってるんじゃなくて、痩せてるからです。毛の下の皮が見えてる。あばらも浮いてる」
レオンが目を細めた。俺の言った通り、ヴィルドボアの体は痩せていた。健康な個体ならもっと丸い。こいつはあばらの線がわかるくらい痩せている。
「腹が減ってるんだ。だから畑を荒らしてる」
「腹が減ってるのはわかった。だからって畑を荒らしていい理由にはならないだろ」
「うーん……でも、なんで山で食べられないのか聞いてみたいんです」
「聞く? 誰に?」
「あいつに」
レオンが俺を見た。馬車のときと同じ顔だった。何を言っているのかわからない、という顔。
「……好きにしろ。ただし突っ込んできたら俺が止める」
「ありがとうございます」
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畑の端からゆっくり近づいた。風下に回る。こっちの匂いが届かないように。
十歩くらいの距離まで来て、止まった。しゃがんだ。息をゆっくりにした。
ヴィルドボアが顔を上げた。鼻がひくひく動いている。こっちを見た。目が血走っている。疲れているのだろう。
気配を読んだ。怒りではない。恐怖でもない。飢え。ただの飢え。それと——疲労。長い距離を歩いてきた体の疲れが、全身から滲んでいた。
『……くう。くう。ない。山、ない。くう、もの、ない。ここ、ある。くう』
声が聞こえた。ヴィルドボアの声はモスリンより少し太くて、短い。単語が押し出されるように来る。
「山に食べるものがないの?」
『ない。なくなった。おおきい、きた。とった。ぜんぶ、とった。にげた。ここ、きた』
——大きいのが来た。全部取った。
何かが山に来て、ヴィルドボアの縄張りの食料を全部奪った。だから逃げて、降りてきた。
「大きいって、何が来たの?」
『大きい。つの。いっぽん。つよい。こわい。にげた』
——角。一本。
心臓が跳ねた。
単角獣だ。
単角獣が山に来て、ヴィルドボアの縄張りを荒らした。食料を奪ったのか、縄張りそのものを奪ったのかはわからない。でも、ヴィルドボアは逃げるしかなかった。
「……そっか」
振り返った。レオンが後ろで剣に手をかけたまま立っていた。
「話は聞けた。こいつ、山から追い出されたんです。上に大きい魔物が来て、縄張りを奪われた」
「……お前、今あの猪と話してたのか」
「はい」
レオンの顔は、困惑と半信半疑が半々だった。でも否定はしなかった。馬車のことがあるからだろう。
「それで、どうする。話がわかったとして、畑を荒らしてるのは事実だ」
「わかってます。だから追い払うんじゃなくて、別の場所に誘導したい」
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手引書で読んだことを思い出した。ヴィルドボアは雑食で、根菜類と虫を好む。沢沿いの湿った土に虫が多いことは虫系の魔物が教えてくれた。
沢の上流、農地から離れた場所に、根菜の野生種が生えている場所がある。二日目にモスリンが教えてくれた。人間が使わないから放置されている場所。
ヴィルドボアに話しかけた。
「この先の沢の上流に、根っこが食べられる草がたくさん生えてる場所がある。虫も多い。人間は来ない」
『……とおい?』
「ここから少し歩く。でもここにいたら、人間が怒る。剣を持ったやつが来る」
ヴィルドボアの目がレオンの方を向いた。剣を見て、体がびくっと震えた。
『……剣。こわい。いく。いく。とおく、いく』
ヴィルドボアは畑から出た。鼻を地面に押し付けながら、沢の方角に歩いていった。ゆっくりだった。疲れているんだろう。でも、畑からは離れた。
レオンが剣から手を離した。
「……行ったぞ」
「行きましたね」
「お前、何したんだ」
「別の餌場を教えて、こっちにいると危ないって伝えた」
「それだけ?」
「それだけです」
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農家のおじさんが畑の向こうから走ってきた。
「あんたら冒険者かい! 猪は!」
「行きました。たぶんもう来ないと思います」
「討伐したのか?」
「いえ。別の場所に移動してもらいました」
おじさんの顔が曇った。
「移動って……また来るんじゃないのか」
「それなんですけど」
手引書を思い出した。
ヴィルドボアの項に書いてあった。ニガヨモギの匂いを嫌う。畑の境界にニガヨモギを植える、または乾燥させたものを吊るすことで進入を抑制できるはず。
「ニガヨモギって知ってますか? 畑の周りに植えるか、乾燥させて吊るしておくと、猪型の魔獣は嫌がって近づきません」
「ニガヨモギ? あの苦いやつか。そんなもんで効くのか」
「はい。あと、ニガヨモギなら俺が採れる場所を知ってるので、持ってきます」
おじさんはまだ半信半疑だったが、レオンが横から「こいつは変だけど嘘はつかない」と言った。
褒めてるのかけなしてるのかわからなかった。
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沢沿いでキバナコウソウを摘みながら、ニガヨモギも多めに採った。農家のおじさんのところに持っていって、石垣の崩れた部分と畑の入り口にニガヨモギの束を吊るした。
おじさんは「まあ、やらないよりはましか」という顔だった。
帰り道、レオンと並んで歩いた。
しばらく無言だった。
「お前さ」
「はい」
「あの猪に、山の上に大きい魔物が来たって聞いたんだよな」
「はい。角が一本あるやつだって」
「単角獣か」
「たぶん」
レオンは腕を組んで、何か考えていた。
「あいつが山に来たから、猪が追い出されて、畑が荒れた。原因は猪じゃなくて、上にいるやつだってことか」
「そういうことだと思います」
「……厄介だな」
レオンが空を見上げた。
「俺は討伐で飯を食ってる。猪を倒すのが依頼だった。お前が追い払ったから、依頼は——まあ、微妙なとこだが」
「すみません」
「謝んな。畑が無事ならいい」
街が見えてきた。東門の前でレオンが足を止めた。
「また同じ方面なら声かけろ。お前一人で歩いてると心配だ」
「ありがとうございます」
「あと、山の上の件は俺が少し調べてみる」
「……え?」
「角が一本のやつがどこにいるか、見てくる。Eランクなら北の山の入り口くらいまでは行ける」
俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。
「なんだよ、その顔」
「いや——ありがとうございます。気をつけてください」
「お前に心配されるほど落ちぶれてない」
レオンは手を振って、ギルドの方に歩いていった。
俺はしばらく東門の前に立っていた。
角が一本のあいつが、山の上にいる。ヴィルドボアを追い出すくらい大きなあいつが。
レオンが見に行ってくれる。俺のランクでは行けない場所に。
——待つのは得意だ。でも今は、待つ側じゃなくて、待たされる側だった。




