最終話 ただいま
村への道を歩いていた。エルツが少し後ろをゆっくりついてきた。レオンは横を歩いていた。ダンダンは肩、アスタは頭の上、セレスは胸の中。
道は、覚えていた。
子供の頃、父さんと一緒に隣村へ行く時に通った道。エルストへ初めて出かけた朝、ドキドキしながら歩いた道。足が、勝手に進んでくれた。
風に乗った匂いが、深くなる。
森の匂い。苔の匂い。湿った土の匂い。それから、人の暮らしの匂い。薪が燃える匂いも、混ざっていた。
「あれが、お前の村か」
レオンが、ぽつりと言った。
俺は頷いた。
遠くに見えていた家の屋根が少しずつ、近くなっていた。
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村の入り口に着いた。
大きな木があった。子供の頃毎日、この木の下を通って遊びに行っていた。変わっていなかった。
木の下で、俺は少し立ち止まった。
「ただいま」
風が、葉を揺らした。
レオンが俺の横で、静かに待っていた。何も言わなかった。
俺は息を吸って、また歩き出した。
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少し進むと、低い石垣が見えてきた。
畑の周りを囲っている、腰くらいの高さの石垣。北の山からの吹き下ろしを防ぐための風除け。魔物除けじゃない。うちの村にはそういうものは、要らない。
石垣の途切れた場所が、村への通り道になっていた。
俺は、そこを跨いだ。
——跨いだ瞬間、空気が変わった気がした。
風が、少しだけ柔らかくなった。匂いがもう一段、濃くなった。森と畑と家の匂いが混ざった、村の匂い。
肩のダンダンが、鼻をひくつかせた。
『ここ。おうち、の、においー!』
「うん。村に、入ったよ」
『ぱちぱち!』
ダンダンが嬉しそうに耳を立てた。
エルツも石垣の脇を、ゆっくり跨いだ。大きい体なのに、足音が驚くほど静かだった。
レオンが後ろから、ちょっと笑った。
「お前の村、本当に柵がねえな」
「うん」
「街に住んでると、柵のないとこってなんか変な感じがする」
「そうなんだ」
「いや、悪い意味じゃねえよ。むしろ、いい感じだ」
レオンも石垣を跨いで、村の中に入ってきた。
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村の中に入った。
いつもの景色だった。家が何軒か。畑。井戸。鶏。変わっていない。本当に、変わっていない。
誰かが、こっちを見ているのに気づいた。
近くの家の窓からおばさんが顔を出して、目を丸くしていた。
「あれ、フリッツ?」
「あ、こんにちは」
「フリッツじゃないか! おかえりなさい!」
おばさんが家から出てきた。
「あんた、背が伸びたねえ! 見違えたよ!」
「えへへ」
「あれ、後ろの大きいの何だい?」
「俺の仲間です」
「仲間ぁ?」
おばさんはエルツを見上げて、しばらく口を開けていた。
「……怖くないの?」
「大丈夫です。優しいです」
「そうかい、相変わらずだねぇ……。お父さんとお母さんに、早く顔見せておいで」
「はい」
おばさんは手を振りながら、家に戻っていった。
レオンが横で、ちょっと笑っていた。
「お前の村って、こういう感じなんだな」
「うん」
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俺の家は、村の奥の方にあった。
森との境目の近く、一本道の突き当たり。屋根が低くて、煙突から細い煙が上がっていた。
朝ごはんを作ってる。絶対母さんだ。俺は足を、少し速めた。
家の前に、人影があった。
やっぱり母さんだった。
井戸で、桶に水を汲んでいた。
俺を見てぴたりと、手が止まった。
母さんはしばらく、何も言わなかった。手も、動かなかった。ただ目だけが、俺をじっと見ていた。
「母さん」
俺が呼ぶと、母さんはふっと息を吐いた。
桶を、地面にゆっくり置いた。
「お帰り」
「……ただいま!」
それ以上母さんは、何も言わなかった。ただ俺のところまで歩いてきて、頭を撫でた。
送り出してくれた時と同じ手だった。
「背、伸びたね」
「うん」
「ご飯、食べる?」
「うん!」
それだけだった。
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家の中から、父さんが出てきた。
俺を見ても、驚かなかった。少し、目を細めただけだった。
「おかえり」
「ただいま」
「腹、減ってるか」
「うん」
父さんも、それだけだった。
俺は二人の温度に、少し笑いそうになった。変わっていない。本当に、変わっていない。
レオンが俺の横で、ちょっと姿勢を正していた。
「あ、こいつレオン。俺の友達」
「初めまして。レオン・ハルトマンです」
レオンが、頭を下げた。
父さんがレオンを見て、頷いた。
「うちの子が、世話になってるな」
「いえ、こちらこそ」
「入ってくれ。朝飯を食べよう」
「はい」
父さんは振り向いて、家の中へ戻っていった。
母さんはエルツを見て、目を細めた。
「あんた、おっきいねえ」
母さんも、魔物に向かって声をかけることが多々ある。伝わってると思ってないような、独り言に近いような感じ。
『うむ。失礼する』
エルツが頭を下げた。母さんはふふっ、と笑った。
「庭を使いな。家の裏に、空いてるところがある。好きに過ごして」
『感謝する』
はたから聞いてると会話が成立してて、面白かった。
それから母さんは、俺の肩のダンダンを見た。
「あれ。ムック?」
「あ、違くて」
「そうね、違うわねえ」
母さんは、しばらくダンダンを見ていた。それから、納得したような顔をした。
「ああ、ムックの子どもだね」
「うん」
「後から、ついてきたんだね」
「うん。村を出る時に、追いかけてきて」
「そう」
母さんがダンダンに、にっこりした。
「ようこそ、おうちへ」
『うん、ありがとー!』
ダンダンが嬉しそうに、耳をぱたぱたさせた。
肩のアスタが、ふわりと光った。
「あら、可愛い光だね」
「アスタっていうんだ。宙の精霊、みたいなもの」
「へぇ、そうかい。よろしくね、アスタ」
アスタの光が、応えるように揺れた。
母さんは何にも、驚かなかった。
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家の中で、朝ごはんを食べた。
パンと、卵と、保存してあった豆のスープ。子供の頃から食べていた、母さんの味だった。
俺は黙って、食べた。
母さんも父さんも、何も聞かなかった。レオンが食べる手を止めて何度か、二人を見ていた。
たぶんもっと色々、聞かれると思っていたんだろう。
でも二人は、聞かなかった。ただ俺がスープを飲み終えるのを、見ていた。
父さんが、ぽつりと言った。
「美味いか」
「うん」
「そうか」
それだけで父さんは、また自分のパンを齧った。
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食後、俺は二人に話そうと思っていたことを話した。
ギルドのこと。エルツと出会えたこと。S級になったこと。旅はこれからも続けること。金貨がたくさん、口座に入ったこと。パスハイムに別荘地を借りていること。
「もし、二人がよかったら」
俺は思い切って言った。
「新しい家、建てられるよ。村でも、別の場所でも」
父さんが、母さんを見た。母さんも、父さんを見た。
二人はしばらく、顔を見合わせていた。
それから母さんが、にっこり笑った。
「フリッツ」
「うん」
「たくさんの魔物とは、話せた?」
俺は一瞬、止まった。それから頭がふっと、軽くなった。
そうか。母さんが聞きたかったのは、それか。
俺は満面の笑みで、頷いた。
「うん!」
「そうかい」
母さんは嬉しそうに、また笑った。
父さんもちょっと、頷いていた。
「それなら、いい」
「うん」
「家は、今のままでいい。前からここで、暮らしてきたしな。気持ちだけもらっておく」
「うん」
「でも、お前の話は聞きたい。切り株のところでゆっくり、聞かせてくれ」
俺は、大きく頷いた。
切り株。この村で、行きたかった場所。
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家を出て俺たちは、切り株に向かった。
父さんと母さんも、一緒に来てくれた。レオンも、エルツも、ダンダンも、アスタも、セレスも、みんな一緒だった。
森の中の、いつもの道を歩いた。
苔の感触。落ち葉の音。木漏れ日の動き方。
森の魔物たちが少しずつ、ついてきた。甲虫系のリッケルが「フリッツ、かえってきた」「かえってきた!」と短い声を上げる。その声が、森の中に伝わっていったらしかった。
レオンが後ろを、ちらっと見た。
「……お前、本当にフリッツだな」
「うん?」
「いや、なんでもねえ」
レオンが、ちょっと笑った。
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切り株は、いつもの場所にあった。
森の少し開けた場所。光がよく射す場所。俺の子供の頃からの、座る場所。
切り株の上に何かが、いた。ムックだった。
手のひらより少し大きい、茶色いふわふわした体。腹のあたりだけ、薄い黄色。子供の頃から、ほとんど変わっていない。俺の幼なじみ。
「ムック!」
俺はしゃがんで、声をかけた。ムックが、鼻先をこちらに向けた。
『フリッツ。おかえり』
「うん。ただいま」
『さみしかった』
「ごめんね」
『でも、いい。ちゃんと、かえってきた』
「うん」
俺は、手を伸ばした。
ムックが鼻先を、俺の指に押し付けてきた。ぐっ、と。
昔と同じ、ムックの癖。「ぐっ、むっ、くっ」のムック。
温かかった。子供の頃から知っている、ムックの感触だった。
その時、肩の上のダンダンがぴょこんと飛び降りた。
切り株の上に、ちょこんと座った。
ムックの前で、しばらくじっとしていた。
『おかあ』
ダンダンが、小さく言った。
『……その、こえ』
ムックがふっと、止まった。
『ダンダンだよ』
俺が、横から言った。
「俺がつけた名前。旅の途中でついてきた、ムックの子だよ」
ムックがしばらく、何も言わなかった。
『ダンダン』
ダンダンがもう一度ゆっくり、自分の名前を口にした。
『ダンダン。いい、なまえ』
『うん! ダンダン! ダンダンだよ!』
ダンダンが嬉しそうに、耳を立てた。
『おかあ、おかあ!』
ダンダンがぴょんと、ムックに寄り添った。鼻先を、ムックの体に押し付けた。ムックと同じ癖。
『おっきく、なった』
『うん! ダンダン、いっぱい、ぼうけんした!』
『そう』
『フリッツと、エルツと、アスタと、セレスと、レオンと、いっぱい!』
ダンダンが、ムックに身体を擦りつけた。ムックはゆっくり瞬きをして、ダンダンを受け止めた。
『みてみて、おかあ!ぱちぱち!』
ダンダンが、得意そうに耳を立てた。
『うん。すごい』
『ぱちぱち、できるんだよー!』
ムックは、何度も「うん」と返していた。ダンダンの言うことを全部、ちゃんと聞いていた。
俺はしばらく、二匹を眺めていた。
——母子の、再会。
ダンダンが村を飛び出してから、俺はずっと一緒にいた。時々、ダンダンがムックのことを思い出しているんじゃないかな、と思っていた。でもダンダンは、何も言わなかった。
今、目の前でこうして再会できた。早く旅立った分、たくさん甘えてるように見えた。
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その時だった。
神様の声が、急に聞こえた。
『ねえ、フリッツ』
「うん?」
『……ちょっと、いい?』
声が少し、遠慮がちだった。
「何ですか」
『あのね、君に内緒でもうひとつ付けてたものがあるの』
「……え?」
『神の代行者、付ける時にね。感覚の共有をね……』
「……感覚の、共有」
『うん。君が触ってるもの聞いてるもの、嗅いでるもの。それを、私も感じられるようにしてあるの』
「……いつから」
『聖地で、付けたから。けっこう前』
「神様」
『ごめん〜、後で言おうって思ってたんだけど機会なくて』
「もう」
『でね、お願いがあるの』
「……何ですか」
『今、手の下にいるその小さい子。ダンダンのお母さん? その子もう一回触ってみて、くれる?』
神様の声が少し、興奮していた。
「いいですけど」
『ありがとう!』
俺はもう一度、ムックに触れた。
ふわふわの毛。鼻先を押し付けてくる、ちょっと湿ってあったかい感触。
そして横で、ダンダンがムックにぴたっとくっついていた。
ダンダンも、こっちに鼻先をぐっと押し付けてきた。同じ癖。同じふわふわ。
俺は両手で、二匹を撫でた。
『うあ』
神様の声が、漏れた。
『う、うわわわわ……』
「神様?」
『うあ、ちょっと、ちょっと、うわわわわ』
「あの」
『うわ、あの、ちょっと待って、待って、待って! これ! ちょっと! 待って!』
「神様、落ち着い」
『落ち着けない!無理これは無理!』
神様の声が本気で混乱していた。
『ふわふわ、二つ』
「はい」
『鼻先のあったかいの、二つ』
「はい」
『あったかい! ふわふわ! あったかい! ふわふわ!』
「すごい興奮ですね」
『興奮するでしょこんなの!君!これ!』
多分だけど、今の神様に何をいっても止まらない気がしてきた。
『これ、いつもこれ、できるの?』
「ふわふわを両手で、ですか?」
『うん!鼻先のあったかいのも!二つも同時に!』
「まあ、村にいた頃はそうですね」
『ずるい!ずるすぎる!なんで!』
「あの、神様」
『私、知らなかった! こんなのがこんなのが、世界にあるって知らなかった!』
「神様、世界にはまだ色々あります」
『うあぁ、もう、何これ、何これ』
「神様、感覚共有は少しずつにした方が……」
『だめ!やめないで!お願い!』
「…………分かりました」
俺は両手でムックとダンダンを、撫で続けた。
ムックは目を細めて、気持ちよさそうにしていた。ダンダンは『ぱちぱち!』と耳を立てていた。
神様は俺の中でもう半分以上、言葉になっていなかった。
『うあ……うあ……あったかい……ふわふわ……ぐっ、って……ああ……』
俺は心の中で、ちょっと笑った。
『あっ、待って。フリッツ』
「はい?」
『エルツ! エルツも触って!』
「え、今ですか」
『今!今がいい!ずっと気になってたの!あんなにもふもふしてそうなのに一度も触れたことないの!』
「分かりました。エルツ、ちょっと触っていい?」
切り株の少し離れたところに伏せていたエルツが、金色の目をこちらに向けた。
『うむ。構わぬ』
俺は立ち上がって、エルツのそばに行った。
首元の銀灰色の毛に、ぽふっと両手を当てた。
硬かった。
ごわごわで、引き締まっていて、毛先が指に刺さるくらい硬かった。
『……あれ?』
神様の声が、止まった。
「あ」
『……あれ?』
「忘れてました、神様」
『え、硬っ!?』
「うん。エルツ、今ブラッシングしてないので」
『え、もふもふじゃないの!?』
「普段は、こうです」
『見た目あんなに、もふもふなのに!?』
「見た目だけです。硬いです、ちゃんと。針金みたいに」
エルツが金色の目を、少しだけ細めた。褒められているのかいないのか判別中、という顔だった。
『じゃあ、ふわふわはいつ?』
「ブラッシングした直後だけ、ふわふわになります」
『……それ、今できる?』
「今はちょっと。道具、家の中ですし」
『次は? 次は、いつ?』
「今度の機会に」
『約束だよ!』
「はい」
『絶対! 絶対、共有してね!』
「はい、約束します」
神様が悔しそうにぐぬぬと、唸っていた。
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『……ふぅ』
しばらくして、神様がようやく深呼吸した。
『……落ち着いた。たぶん、落ち着いた』
「お疲れさまです」
『ありがとう、フリッツ。本当に、ありがとう』
「いえ」
『またお願いするからね。本当は常時お願いしたいけど』
「神様の、自由ですよ。たぶん」
『うん。でも君に、ちゃんと言ってからにする』
「はい」
『ふふ、嬉しいな。いい一日だ』
神様の声が、温かくなっていた。
「神様、本当にエルツのこと気になってたんですね」
『そりゃそうでしょ! あんなにでっかくて毛むくじゃらで、見た目もふもふじゃない!』
「見た目は、そうですね」
『あぁ、楽しみができたぁ……』
神様の声がしみじみ、していた。
俺はエルツの首元から、手を離した。
エルツがふっと、息を吐いた。
『……何の話か知らぬが、満足したか』
「うん。神様にエルツの普段の毛のことを、教えてた」
『……うむ』
「次にブラッシングする時、神様も一緒に楽しみたいって」
『うむ。好きにせよ』
エルツはそれ以上、聞かなかった。
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切り株の周りにはいつのまにか、森の魔物たちが集まっていた。
『……きょう、いる……』
蔦系のシュリンガが、頭上の枝を広げて日陰を作ってくれた。足元に絡まっていた。小さな鳥が、エルツの背中に止まっていた。
父さんと母さんは少し離れたところで、俺たちを見ていた。
レオンは、切り株の近くに腰を下ろしていた。
「お前、本当にここの王様みたいだな」
「王様じゃないよ」
「いや、王様だ」
レオンが、ちょっと笑った。
「みんなお前を、待ってたんだよ」
──ただいま。
俺は、もう一度心の中で呟いた。
『フリッツ。あったかい。やわらかい。おかえり』
ムックが膝の上に載って、答えた。
『フリッツ。ぱちぱち!』
ダンダンが肩の上で得意そうに耳を立てた。
アスタが、ふわりと光った。セレスが胸の中で、優しく揺れた。エルツが金色の目で、俺を見ていた。
神様の気配がいつものところに、あった。
父さんと母さんが少し離れて、見守ってくれてる。
レオンが、横にいてくれてる。
森の魔物たちが周りに、集まっていた。
──全部、ある。
ここから始まった。ここに帰ってきた。そしてここから、また始められる。
俺は、空を見上げた。高い青い空が、広がっていた。




