番外編 モブ冒険者目線 噂のSランク冒険者
噂を聞いたのは南の港街の酒場だった。
不殺のS級冒険者がいるらしい。
俺はジョッキを傾けながら、隣の席の男の話を半分聞いていた。酒場の噂なんて九割が法螺だ。残りの一割も酒が入って膨らんでいる。まともに取り合う方が馬鹿を見る。
だが「不殺」と「S級」の組み合わせには、さすがに耳が引っかかった。
「どういう意味だ、不殺って」
「そのままの意味だよ。魔物を殺さない冒険者だ」
「Sランクなのに?」
「Sランクなのにだ」
男は酔ってはいたが目は据わっていた。法螺を吹いている目じゃなかった。
「パスハイムのギルドで見た奴が言ってた。竜の遺産を託されたって話だ。それも、エーデルホルンに乗ってるって噂だ」
「はあ、……。そりゃ、本当なのか?」
「Sランクの昇格はその功績なんだと。例外づくしで、何でも神の遣いとかいう称号もあるって」
俺は黙ってジョッキを置いた。なんなんだそれは。
言葉の一つ一つが引っかかって飲み込めなかった。
「そいつの名前は?」
「フリッツ・アルトハウス。東の辺境のギルドに登録してるそうだ」
「そいつ、今どこにいる」
「西に向かったって話だ。ザルーラのあたりを回ってるらしい」
ザルーラ。西の交易都市だ。砂漠に近い乾燥地帯にある。多民族が行き交う大きな街で、ギルドの規模もそれなりにある。
遠いが行けない距離じゃない。
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俺はBランクの冒険者だ。
十六でギルドに登録して早十年。Eから始めてDをCをBと上がってきた。その間に何匹の魔物を斬ったかもう数えていない。何度死にかけたかも覚えていない。
Bランクに上がった時、師匠に言われた。「ここから先は別の世界だ」と。Aランク以上は実力だけじゃない。運と、タイミングと、何か得体のしれないものが要る。そう聞いていた。
俺はまだBだ。Aには手が届いていない。
それに冒険者のピークは短い。十年やってりゃベテランの域になる。例えそれが二十代の若造扱いされたとしても。
だからS級という言葉の重さは分かっているつもりだった。片手で数えるほどしかいない。人類最高峰の冒険者。単独で災害級の魔物と渡り合える存在。
そいつが不殺。
魔物を殺さずにSランクになった。
意味が分からなかった。
俺が斬ってきた魔物の数。流してきた血の量。それが全部ひっくり返されるような気がした。
だからとにかく、会ってみたいと思った。
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ザルーラまでは馬で八日かかった。
街は乾いていた。空気が薄くて風に砂が混じっていた。建物は白い石造りで、日差しを弾くように壁が厚く作られている。市場は広大で、東西南北からあらゆるものが運び込まれていた。香辛料の匂いと獣脂の匂いと人の汗の匂いが全部混ざって、港街とはまるで違う空気だった。
ギルドに立ち寄った。ザルーラのギルドは市場の奥にあって、冒険者の出入りが多かった。受付が三人いた。
「フリッツ・アルトハウスという冒険者がこの街に来ているか」
受付の男が訝しげに俺を見た。
「どちらさまですか」
「通りすがりのBランクだ。特に用があるわけじゃない。会えるなら顔を見てみたいと思っただけだ」
受付の男にギルドカードを渡す。男はじろじろとそれを見て、身元不明の不審者ではないという風に判断したらしかった。
「アルトハウス氏は現在ザルーラに滞在中です。本日は西門から出られると聞いています」
「西門?」
「街の外の乾燥地帯に魔物の群れが出ていまして。調査に向かわれるそうです」
調査。討伐じゃなくて調査。
不殺の冒険者らしい仕事だと思った。
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西門に向かってみる。
ザルーラの西門は大きかった。交易路の要衝だから荷馬車が何台も通れるだけの幅がある。門の上には見張り台があって弓兵が立っていた。乾燥地帯の魔物は時々街道を荒らすから警備が厚い。
門の前に人だかりができていた。
荷馬車を引く商人が足を止めて見ていた。門番も持ち場を離れて見ていた。ギルドの職員らしい男が書類を手にしていた。見張り台の弓兵も見下ろしていた。
何を見ているのか気になり、俺は人だかりの後ろに回って覗き込んだ。
——でかい。
門の前に一頭の獣がいた。
銀灰色の体毛。額に一本の角。金色の目。体高は馬よりも二回りは大きく四肢は太く重厚だった。乾いた風の中で体毛が微かに揺れていた。
単角獣。単角獣だ。エーデルホルン。Sランク相当の上位魔物だ。噂の通りだった。
こいつが街中にいて誰も逃げていない。それ自体が異常だった。ザルーラは魔物の襲撃に慣れた街だ。普通ならSランクの魔物が門前にいれば警鐘が鳴る。だが誰も慌てていなかった。のんびりと見物している。
その背の上に一人座っていた。
白いローブを纏っている。ただの布じゃない。裾と袖に薄い藍色の文様が入っていた。細い線で花とも蔦とも取れる模様が描かれている。おそらくは、妖精や精霊への祈りを模ったもの。そういう意匠に似ていた。胸元にはローブを留める金具がひとつ。小さな留め具だったが、日差しの下で深い色の光を放っていた。鱗のような質感だった。見たことのない素材だ。
それを着ている人間は若かった。少年と言っていい年齢だった。顔立ちは穏やかでどこにでもいそう……というのが正直な印象だ。威圧感がない。殺気もない。体格もそこまで大きくない。正直に言えば拍子抜けだった。
あれがSランクなのか。
肩の上に何か小さなものが乗っていた。茶色いふわふわした生き物。耳をぱたぱたさせている。……モスリンだ。あんなものを肩に乗せている冒険者を初めて見た。
それからその頭の上に淡い光が浮かんでいた。小さな星のような光がゆっくり明滅している。光の粒子が尾を引いて乾いた風に乗って流れていた。何だあれは。見たことがない。
もう一人、少年の隣に立っている人物へ目を向ける。
剣士だ。少年よりいくつか年上に見える。腰に剣を差して軽装だが隙のない身のこなしをしていた。こいつは冒険者だ。それもかなりやる。立ち方で分かる。重心の位置が違う。
顔に見覚えがあった。正確には顔じゃない。噂に覚えがあった。Bランクに上がったばかりの若い剣士で、かなりの実力だと聞いている。名前は確かレオン・ハルトマン。最近名が知られ始めている男だ。
護衛だろう、と思った。非戦闘Sランクの護衛を務めるBランクの剣士。そう見えた。
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俺が見ていると、ギルドの職員が少年に書類を渡していた。
「乾燥地帯のボア系の群れです。街道を塞いでいまして」
「数はどれほどですか?」
「十前後だと思います。商隊が迂回を強いられています」
「分かりました。見てきます」
少年の声は落ち着いていた。のんびりと散歩へ行くような声をしていた。戦いに行く人間の声ではなかった。
ギルドの職員が少年に頭を下げた。それから剣士の方にも頭を下げた。二人に対する態度が同じくらい丁寧だった。
少年が門の前の人だかりに気づいた。少し首を傾げて、それから軽く手を上げた。
「すみません。すぐ出ますので」
商人が道を開けた。門番が敬礼した。
その時だった。
少年が急に単角獣の背から降りた。
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門の脇の地面に何かがいた。
小さな蜥蜴だった。乾燥地帯に多い砂蜥蜴の魔物。低ランクの、本当に弱い魔物。日差しの当たる石の上でじっとしていた。だが片方の前脚が変な方向に曲がっていた。怪我をしている。
少年がそこにしゃがんだ。
何をしているのか見えなかったので俺は少し近づいた。距離を詰めると声が聞こえた。
「足、痛い?」
誰に話しかけている?砂蜥蜴に、か……?
少年が手を伸ばした。蜥蜴はじっとしていた。逃げなかった。普通、人間が近づけば砂蜥蜴は走って逃げる。こいつは動かなかった。
少年が蜥蜴の前脚にそっと触れた。
「折れてはないね。でも腫れてる。しばらく動かさない方がいい」
独り言ではなかった。蜥蜴に向かって話していた。蜥蜴がかすかに首を傾けた。何かに応えるように。
少年がアイテムバッグから薬草を取り出した。小さく千切って蜥蜴の脚に当てた。布で軽く巻いた。手つきは慣れていた。何度もやってきた手つきだった。
「ここだと踏まれるから、もう少し壁際に行った方がいいよ。日当たりは変わらないから」
蜥蜴がゆっくりと動いた。壁際の石の隙間に入っていった。少年がそれを見届けてから立ち上がった。
周りの人間は黙って見ていた。
門番も。商人も。ギルドの職員も。俺も。
誰も何も言わなかった。
少年はまた単角獣の背に乗った。何事もなかったかのように。肩の上のふわふわした生き物が耳をぱたぱたさせていた。
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少年が単角獣の首元を軽く撫でた。
単角獣が静かに首を動かした。少年と目を合わせた。何かが通じ合ったような短い間があった。言葉を交わしたのか。あの目の動きだけで。
それから少年が小さく何か言った。俺の位置からは聞こえなかった。
単角獣がゆっくり歩き出した。
その瞬間、頭の上の光がふわりと広がった。
星の粒子が尾を引いて少年の背後に流れた。白いローブの裾が風を受けて膨らむ。藍色の文様が日差しの中で浮かび上がった。胸元の留め具が輝きを放つ。鱗のような深い色が一瞬だけ煌めいた。エーデルホルンの銀灰色の躯体上に星屑が散って、乾いた空気の中できらきらと光っていた。
……美しかった。
戦士の美しさではなかった。力の美しさでもなかった。ただそこにあるものが自然に光っているという美しさだった。白い砂埃の舞う街道を歩いているだけのことが、妙に綺麗だった。
隣の剣士が並んで歩いていた。剣の柄に手はかけていない。周囲を警戒する目でもなかった。時折少年の方を見て何か短い言葉を交わしていた。
少年が剣士に何か言って笑った。剣士が鼻を鳴らした。耳が少し赤くなっていた。剣士も何か言い返したいる。少年がまた笑った。
俺はそこでようやく気づいた。
ああ、あれは護衛じゃない。
あの剣士はS級の護衛として雇われた傭兵ではない。対等な友人だ。
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人だかりが散っていった。門番が持ち場に戻った。
俺はしばらくその場に立っていた。
西の街道の向こうに白いローブの背中が小さくなっていく。星の尾が乾いた空の下で細く伸びていた。隣を歩く剣士の姿も小さくなっていった。
あれがSランク冒険者。
武器を持っていなかった。鎧も着ていなかった。殺気も威圧もなかった。
ただ魔物の背に乗って星の光を纏って、笑っていた。
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俺はザルーラに三日泊まった。
宿の食堂で飯を食いながら地元の冒険者の話を拾った。
「あいつが来てからこのあたりの魔物の動きが落ち着いてきてる」
隣のテーブルで話している冒険者がいた。Cランクの二人組だった。
「討伐してんのか?」
「してない。話してるんだよ」
「話す?」
「魔物と話してるんだ。街道を塞いでるボアの群れのところに行って、何か話して、群れが道を空けた。三十分くらいだったらしい」
「嘘だろ」
「嘘じゃねえよ。商隊の護衛がそばで見てた。剣を抜く場面は一回もなかったって」
俺は黙って飯を食っていた。
もう一人が言った。
「隣にいる剣士もけっこうやるらしいぞ。レオン・ハルトマン。Bランクに上がったばかりだが、すでに実力はAに近いって話だ。単独で上位魔物を相手にしたこともあるらしい」
「護衛か?」
「分からん。でもいつも一緒にいるな」
俺はスープを飲み干した。
ギルドにも聞いてみた。受付の男は事務的に答えた。
「アルトハウス氏は乾燥地帯の魔物の調査で滞在中です。討伐依頼は受けておられません。調査と対話のみです」
「対話のみ」
「ええ。魔物との対話です。群れの移動理由の把握と、街道との共存策の提案。そういった業務です」
聞いたことのない業務だった。そんな仕事がギルドに存在するのか。
「ハルトマン氏の方は別途クエストを受けておられます。街道沿いの害獣の処理と護衛任務です。こちらは通常の冒険者業務ですね」
なるほど。剣士の方はまともな冒険者をやっている。S級の方が魔物と話して、Bランクの方が普通に戦っている。不思議な組み合わせだった。
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ザルーラを発って三日後、南へ向かう街道で魔物に遭った。
ゴブリンの群れだった。五匹。街道を塞ぐように広がって通行する商人を威嚇していた。
いつもなら何も考えずに斬っていた。Bランクの俺にとってゴブリン五匹は脅威でもない。剣を抜いて三十秒で終わる仕事だ。
俺は剣の柄に手をかけた。
手が止まった。
一匹がこちらを見ていた。
小さな目。黄色い肌。牙。醜い顔。どこから見ても魔物だ。敵だ。斬るべき対象だ。
だがその目が何かを言っているように見えた。
怒っているのか。怯えているのか。それすらも分からなかった。俺には魔物の言葉は聞こえない。聞こえたことがない。
あの少年にはこいつらの声が聞こえるのか。
こいつらが何を考えて何を怖がって何を守ろうとしているのか。あの少年には分かるのか。
ザルーラの西門で蜥蜴の脚に薬草を巻いていた手つきが頭に浮かんだ。「足、痛い?」と聞いていた声が耳に残っていた。
俺は手を止めたまま三秒ほど動かなかった。
それから剣を抜いた。
五匹を追い払った。殺さなかった。峰打ちと威嚇で追い散らした。
商人が礼を言って去っていった。俺は剣を鞘に収めた。
殺さなかった理由は分からない。いつもなら殺していた。ゴブリンは数が増えれば害になる。間引くのは冒険者の仕事だ。それは間違っていない。
でもあの朝の蜥蜴の目と、今のゴブリンの目が重なった。
俺にはどちらの声も聞こえない。何を考えているのか分からない。
それでも剣を抜く手が一瞬止まった。
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南の港街に戻ったのは十日後だった。
同じ酒場で同じ席に座った。ジョッキを傾けながら街道の報告書を書いていた。
隣に男が座った。前と同じ男だった。
「よう。ザルーラまで行ったんだって?」
「誰から聞いた」
「噂だよ。不殺のS級を見に行った冒険者がいるってな」
俺は苦笑した。噂の伝わる速さだけはどこの街も変わらない。
「で、どうだった」
「どうだった、か」
俺はジョッキを置いた。
「あれはSランクじゃねえよ」
「は?」
「いや、Sランクなんだろうが。俺の想像してたSランクとは全然違った」
男は首を傾げた。
「強くないのか?」
「分からん。戦うところは見てない。たぶん戦わないんだろう。戦う必要がないのかもしれん」
「何だそりゃ」
「魔物と話してた」
「は?」
「門の近くの砂蜥蜴の手当をしてた。脚が腫れてるやつに薬草を巻いてやって、壁際に移してやってた。それから単角獣に乗って出ていった。肩にモスリンの幼体を乗せて、頭の上に見たことのない光を浮かべて」
「はあ、光?」
「星みたいなやつだ。粒子が尾を引いて流れてた。何なのかは分からん」
男はしばらく黙っていた。
「ローブがな、妙に綺麗だった。白い生地に藍色の文様が入ってて、胸元に留め具がついてた。鱗みたいな質感の」
「へえ」
「竜の鱗だろうな。たぶん」
「そりゃ、竜を看取った男だもんな」
「ああ」
俺はジョッキを持ち上げた。
「隣にいる剣士も噂通りだった。レオン・ハルトマン。Bランクだが立ち方が違う。あれは近いうちにAに上がるだろう。名前を覚えておいた方がいい」
「護衛か」
「俺もそう思った。でもそれだけじゃねぇ」
「ほう?」
「友達だ。仕事の関係じゃない」
男が少し目を細めた。
「Sランクに友達がいるのか」
「いるんだよ。あいつには」
俺はジョッキを空けた。
「俺はあいつみたいにはなれない。魔物の言葉は聞こえないし聞こえるようにもならない。だがな」
「おう」
「街道でゴブリンに会った時、一瞬だけ剣を抜く手が止まった。殺すかどうか迷った。七年やってきて初めてだ」
「それで」
「追い払った」
「……それは良いことなのか?」
「分からん。冒険者としては間違った判断だったかもしれん。でもな」
俺は言った。
「あの少年が砂蜥蜴に話しかけてた時の顔がな。ずっと頭に残ってるんだよ。怪我した蜥蜴に、足痛い?って聞いてた。あの顔が消えねえ」
男は黙っていた。
「たぶんあいつは俺たちとは全く違うやり方で世界を見てるんだろうな。俺には見えないものが見えてるんだろう。聞こえない声が聞こえてるんだろう」
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その夜、宿に戻ってからベッドに横になった。
天井を見ていた。
十年間、剣を振ってきた。魔物を斬ってきた。血を浴びてきた。それがBランクまでの道だった。間違っているとは思わない。冒険者はそういう仕事だ。
だがあの少年は別の道を歩いていた。
殺さずに。話して。聞いて。歩いて。それだけでSランクになった。
俺にはできない。同じことは絶対にできない。
でもあの街道のゴブリンの目が頭から消えなかった。こちらを見ていたあの目。何を言いたかったのか。何を考えていたのか。
聞こえない。分からない。
分からないが、あの一瞬は剣を止めた。
それだけで何かが変わったのか何も変わっていないのか。まだ分からなかった。安直なことは続けられないということだけは、分かっているが。
ただ一つだけ確かなことがある。
あの少年を見た前と後で、俺の中の何かが芽吹いていること。
ほんの少しだけ。
それが何なのかはまだ、分からなかった。




