第四十八話 別荘地の朝
朝の光が、窓から差し込んでいた。
起きて、すぐに気づいた。この家は、音がとても少ない。
木の軋む音がしない。隣の部屋から物音が響いてこない。街の喧騒も、ここまでは届かない。広い家は、静かだった。
俺はベッドから起き上がって、少しだけ背伸びをした。
このベッドも、慣れない。大きすぎる。柔らかすぎる。俺の体には、大きさが余っていた。
窓を開ける。
冷たい、澄んだ空気が入ってきた。今朝は晴れているらしい。
庭の方から、エルツの鼻息が聞こえた。庭の大きさは、エルツが動き回っても十分な広さがあった。——そういう家だった。
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帳面を取り出した。
ページを開くと、少しだけ滲んだインクの跡が、まだそこに残っていた。
——聖地のこと。
あれから、二週間ほどが経っていた。
全部、書き切れてはいない。書いては思い出して、また書き足すを繰り返していた。この朝も昨日書き忘れていたことを一つ書き足した。
「竜の呼吸は最期、一際長かった」
それから少しだけ手を止めて、また閉じた。
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机の上に、ギルドカードが置いてあった。
俺は少しだけそれを手に取った。
冷たい感触。今までのカードよりも少しだけ厚くて重かった。
表面は光の当たり方で、色が変わった。
——青紫。緑。金。淡い、複雑な輝き。
ミスティック鉱石、と受付の人が言っていた気がする。
——S級のカードだけに使われる、特別な素材だと。
光にかざすと、色が静かに動いた。
竜の体の色に少し似ている。
深い銀色で、光で青にも緑にも見える。古い金属のような、色の移ろい。
俺は、しばらく眺めていた。
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カードの表面に文字が入っていた。
ランク:S
名前:フリッツ・アルトハウス
スキル:対話術(+++)
称号:神の代行者
祝福:無毒化、回復力強化、防御力強化、魔力操縦、対話の中継
友魔(対話種族接触記録):エーデルホルン(エルツ)/モスリン(ダンダン)/セレスティエ(分霊)/宙の精霊
「S」の文字は、まだ慣れなかった。というか、今でも見慣れない。
称号の一行もまだ、慣れなかった。この一行がカードに表示された時のことを思い出すと、少しおかしくなった。
友魔の中に、竜はまだ入っていなかった。
付け加えるかどうかは、まだ決めていなかった。決められていなかった、と言う方が正しい。書きたくないとも違うし、書きたいとも違う。……ただ、迷っていた。
俺はカードを机に戻して、窓の方を見た。
庭で、エルツが日光浴をしていた。ダンダンがエルツの背中に登ろうとして、何度か滑っていた。『ぱちぱち!』と嬉しそうに鳴いていた。
アスタが、その上で柔らかく光っていた。セレスは胸の中で静かにしていた。
——いつもの朝だった。
静かな、いつもの朝。
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この家に来たのは、一週間ほど前だった。
その前はパスハイムのギルド本部の、奥の部屋に泊まっていた。騒ぎが、あまりに大きかったから。
振り返るとぼんやり、順番に思い出せた。
聖地からエルツに乗って、二日かけてパスハイムに戻った。
門に着いた。門番が俺を見て、軽く頷いた。エルツの姿にはもう慣れたらしかった。
「おかえりなさい、フリッツ殿」
「ただいまです」
俺はそのままギルドに向かった。報告をしなければと、思っていた。
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ギルドに入って、マスターの部屋に通してもらった。
マスターはいつものように書類を広げていた。俺を見て、ペンを止めた。
「……おう、戻ったか」
マスターの声が少しだけ、止まった。俺の顔を見ていた。
「フリッツ君」
「はい」
「——泣いたかのか」
俺は少し黙った。たぶん、顔に残っていたんだと思う。聖地で泣いて、帰り道でも何度か泣いて、袖で拭いたけど、跡は消えていなかったんだろう。
「……はい」
「……そうか」
マスターが書類を脇に寄せた。ペンも置いた。
「話せるか」
「はい。——少し長い話になります」
「急がなくていい。——座れ」
俺は座った。マスターが水を一杯出してくれた。
俺はそれを一口飲んで、それから話し始めた。
竜が眠ったこと。
聖地の場所。
亡骸がそこにあること。
蓄えがまだ、あること。
——俺が、それを託されたこと。
話が進むにつれて、マスターの顔色が変わっていった。
手が途中で少し震えていた。机の上のペンが一度、落ちた。
「……ちょっと、待ってくれ」
マスターが言った。
「少しだけ時間をくれ。——これは、大きすぎる」
「……はい」
マスターが立ち上がって、窓を開けた。しばらく外を見ていた。それから振り返って、俺を見た。
「——よくやったな」
「……」
「よく、帰ってきたな」
俺は頷いた。頷くしか、できなかった。
その日、俺はギルド奥の部屋に通された。
それから数日間、色々な人が来た。
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本部から長い距離をかけて、人が来た。
鑑定士。調査官。歴史学者。解体の専門家。地脈の研究者。知らない顔が、次々と増えた。
俺は繰り返し、同じ話をした。苦では無かった。竜と何を話したか。どんな約束をしたか。財の場所、亡骸の場所。
アイテムバッグから竜の蓄えを出して、机に並べた。金属の塊、鉱石、布にくるまれたもの、古い書物。
——書物が特に、大きな騒ぎを起こした。
歴史学者が震える手でページを開いて、しばらく動かなかった。それから、静かに泣き出した。
「これは失われたはずの、神代の記録だ」
そう言っていた。
俺はただ、頷いた。
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亡骸の件は、調査団が組まれた。
十数人が聖地へ向かった。俺が場所を伝えて(穴に落ちたことも含めて)、ギルドの調査官が案内役になった。俺は同行しなかった。行かなくていい、と皆が言った。解体は専門の者に任せると。
俺はギルドの奥の部屋で、報告を待っていた。
……たぶん行かない方がいいだろうと、自分でも思った。
竜は最期、俺の前で眠るように逝った。その時の姿を覚えていたかった。解体されていく姿を、俺は見たくなかった。
数日後、マスターが報告に来た。
「無事に運び出された。専門家が丁寧にやってくれた」
「……はい」
「竜の素材は多くの人の手に渡ることになる。竜との約束通りだ」
「本当に、ありがとうございます」
エルツは俺の隣で静かにしていた。師の亡骸が運ばれたことを、俺を通して聞いていた。
『——余すことなく使われるのだな』
「うん」
それで良かったと、思った。
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ギルドが俺にSランク昇格を言い渡したのは、その騒ぎが少し落ち着いた頃だった。
いつものマスターの部屋じゃなくて、本部の格式の高い部屋に呼ばれた。知らない人が何人も座っていた。本部の上の方の人たちらしかった。
紙の上で、いろいろなことが決まっていた。
竜との対話の記録。調査団が確認した聖地の様子。託された財と亡骸の扱い。フリッツ・アルトハウスの、これまでの実績。
——結論はSランク昇格、だった。
Sランクは、この国でも十人もいない。長く生きた大冒険者たちばかり、と聞いたことがあった。俺は、十四歳になったところだった。
カードが、渡された。
いつもと違う、特別な素材。ミスティック鉱石。
「——これは、ギルド史上の快挙だ」
本部の人が言った。
「君の功績は、歴史に残る」
「……これからも、がんばります」
俺は、月並みなことしか言えなかった。
歴史と言われても、よく分からなかった。俺のやったことは、ただ話を聞いただけだ。けれど、竜から託されたことが俺にしかできないことだと言うのは、受け止められた。
その時、本部の上の方の人のひとりが眼鏡を上げて、カードをじっと見ていた。
「……あの、フリッツ殿」
「はい」
「このカードに見たことのない表示が、ございます」
「えっ」
「ここに、『称号:神の代行者』と」
俺は、自分のカードを見直した。
名前の下、ランクの下に確かにあった。
——称号:神の代行者。
……いつの間に。
神様の声が、俺の中に小さく聞こえた。
『あ、それね、私です。サプライズのつもりで』
あの、いつもの砕けた神様の声だった。
「……神様」
『ふふ、ごめんね。聖地で君が引き受けてくれた時に、付けておいたの』
「言ってください、そういうことは」
『驚かせたかったんだもん』
本部の人たちが俺のひとり言を見て、首を傾げていた。
「フリッツ殿、どなたとお話を?」
「あ、その。——神様、と」
「……神様」
「はい」
広い部屋が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。
俺は、少し困った。——信じてもらえないんだろうな、と思った。
神様の声が、また聞こえた。
『じゃあ、信じてもらおうか』
「え?」
『中継してくれる? みんなに聞こえるように』
「……やるんですか」
『うん。私が話す。フリッツは目を閉じて、口を開けてるだけでいいよ』
俺は本部の人たちの方を見た。
「あの、神様が皆さんに直接話したいそうなんですが。俺の口を借りて声を出すことができるらしくて。ええと、……対話術で皆さんを繋いでもいいですか」
部屋すこしどよめいて、それから静まった。本部の人たちが顔を見合わせた。
マスターが小さく頷いた。
「——やってくれ」
「はい」
俺はゆっくりと目を閉じた。
神様の声が俺の中を通った。
『——この場に集いし者たちに告げる』
声が、変わっていた。
砕けた口調が、消えていた。低くて深くて、……重みのある声だった。俺の喉から出ているはずなのに、俺の声じゃなかった。
部屋の空気がぴりっと張った。
『フリッツ・アルトハウスは聖地の竜の遺志を継ぎ、神の代行者となった。称号は私が授けた』
誰も動かなかった。
『この者は神代の終わりにおいて世界を巡り、繋がりの薄れた地と命に声を届ける役目を負う』
短い間があった。
『以後、よしなに頼む』
声がふっと、抜けた。
俺は、ゆっくり目を開けた。喉が少し、ひりひりした。
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部屋は、静まり返っていた。
眼鏡の本部の人がペンを持ったまま、固まっていた。
別の本部の人が、椅子から少しだけ立ち上がりかけて、座り直した。
ギルドマスターが両手で、顔を覆っていた。
「……あの、ギルドマスター?」
俺が呼びかけると、マスターが指の隙間から俺を見た。
「フリッツ君」
「はい」
「君はどうしてその都度、私を心臓を止める方向に追い込むんだ」
「……すみません」
マスターが、深いため息をついた。
他の本部の人たちはまだ、何も言えずにいた。
神様が楽しそうに笑った。
『ふふ、上手くいったね』
「神様、楽しんでません?」
『ちょっとだけ』
俺は心の中で、ため息をついた。
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それと口座のことも、告げられた。
ギルドが竜の財の一部を換金した。身元の明らかな団体のみに譲渡したという。それから、聖地調査への協力費。S級昇格の一時金。色々なものを合わせて、ギルドの口座に振り込まれた。
金貨、と聞こえた。
「——数百枚、ですか」
俺は、聞き返した。
「そうだ。——正確には、四百枚と少し」
「そう、なんですね」
本部の人が、静かに言った。
俺は、頷いた。頷くしか、なかった。
金貨というものを、俺は実物で見たことがなかった。軽金貨は、パスハイムの報酬でもらったことがあった。でも、金貨は別のものだった。——一枚で家が何軒か買えると、誰かが言っていた気がした。
それが、四百枚。
想像が、追いつかなかった。
「……あの。使い方、教えてもらえますか」
俺は言った。
本部の人が少し、目を細めた。
「——必要な時に必要な分を、引き出せばいい。普段の生活には、銀貨か軽金貨で足りる」
「はい」
「残りはそのまま、預けておけばよい。——利子もつく」
「はい」
「少なくとも当面、金に困ることはない」
「……はい」
そういうことだった。
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それから別荘地を手配されたと、言われた。
パスハイムの中心に近い、元貴族の区画だった。昔は王都から来る貴族が、滞在用に使っていた別荘地。今は、空いていた。
「街の中に君の定宿を置いておきたい」と、マスターが言った。
「色々な人が、君に会いに来るだろう。ギルド本部だと、人目が多すぎる。ここなら、静かに過ごせる」
「はい」
「エルツが庭に入れる広さもある」
案内された家は、静かだった。石造りで広い庭があって、窓が大きかった。一人で住むには、あまりにも広かった。
「……これ、俺が使っていいんですか?」
俺は、マスターに聞いた。
マスターが少しだけ、笑った。
「使え。——君の功績にはこれでも、足りていない」
「……」
「遠慮するな」
「……はい」
そう言われて俺は、頷いた。
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そして、一週間が経った。
今、俺は静かな朝の中にいた。
庭のエルツは、ずっと機嫌が良かった。広い場所で好きなだけ歩けるのが、嬉しいらしかった。ダンダンもアスタもセレスも、新しい家に少しずつ慣れてきていた。
俺だけがまだ、落ち着かなかった。
家は、静かすぎた。音が、少なすぎた。
夜、目が覚める時がある。村の夜の音を、思い出した。
風が、家の木を揺らす音。遠くで、何かの小動物が歩く音。切り株の常連たちの、かすかな気配。ムックの寝息。
……そういう音が、ここにはなかった。帳面を開いて、最初の頃のページを眺める。
帰りたいと、ふと思った。
その気持ちは少しずつ、大きくなっていた。
竜のことは、口では言えない。ギルドに報告した内容以外は、村で話すつもりはない。話しても誰も信じないだろうし、負担になる。
でもただ、会いに行きたかった。
父さんと母さん。ムック。切り株の常連たち。森の匂い。家の匂い。全部また、確かめたかった。
俺は帳面を、閉じた。
ギルドカードをもう一度、手に取る。光が、静かに動いた。
村に、帰ろう。
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その日の午後、俺はパスハイムのギルドに向かった。
受付の人がカードを見て、少し頷いた。S級のカードに、まだ皆が慣れていない。俺自身も慣れていないから、お互い様だった。
「ギルドマスターに、会いたいんですけど」
「どうぞ、お通しします」
いつもの部屋に通される。ギルドマスターが「おう」と短く声をかけて、椅子に座るよう促された。
「——村に、帰りたいんです」
俺が言うと、マスターは少しの間、黙った。
それから、頷いた。
「ああ。……そうだろうな」
「いいですか?」
「もちろんだ。いつでも戻ってこい」
「はい」
マスターは少し、目を細めた。
「顔を見せに、行くだけか?」
「はい」
「そうか」
「……ただ、会いに行くだけです」
マスターは、また頷いた。
「それが、いい」
留守の間の家のことについて話して、しばらく家を空けても大丈夫にしてもらった。
帰り際、俺は思い切って言った。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「うん?」
「レオンって、今どこにいるか知りませんか。まだ会えてなくて」
マスターが少し目を細めた。
「ハルトマンか。北の街道の護衛から、ちょうど戻ってきたところだ」
「戻ってるんですか」
「ああ。数日は休みのはずだ。宿にいるだろう」
「……一緒に、村に連れていきたいんですけど」
「君から声をかけてやれ。彼は喜ぶだろう」
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ギルドを出て、俺はレオンの宿に向かった。
パスハイムの街を歩くのは少しだけ、落ち着かなかった。最近、俺の顔を知っている人がやけに増えていた。道を歩くと、誰かが振り返る。噂が広まっているというのは、こういうことらしかった。
早足で歩いた。
レオンの宿に着いて、扉を叩いた。
「はい」
いつもの、少し無愛想な声。
「レオン、俺」
扉が勢いよく開いた。
「——お前」
レオンが俺を見た。
しばらく何も言わなかった。俺の顔を見ていた。そんなレオンを見ていたら、俺の中で色々なものが込み上げてくる。
「……入れよ」
レオンが扉を大きく開けて迎え入れてくれた。
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部屋に入った。レオンが椅子を引いて、俺を座らせた。水を一杯出してくれた。……俺が聖地の旅から帰ってきた時の、ギルドマスターと同じことをした。
「……顔、ひどいぞ」
「うん」
「ちょっと痩せたか?」
「……たぶん」
「飯、食ってんのか」
「食べてる。あ、……レオンの乾物セット、助かった」
「……そうか」
レオンが腕を組んで、俺をじっと見ていた。聞きたいことが山ほどある顔だった。——でも聞かなかった。
「……話せる範囲でいい」
「うん」
「今じゃなくていい」
「……少しだけ」
俺は少しだけ話した。竜のこと。聖地のこと。託されたこと。まだ、詳しくは話せなかった。でもあったことは、ちゃんと伝えた。
レオンは黙って聞いていた。
話が終わってもしばらく、何も言わなかった。
それから腕を組んで、少しだけ息を吐いた。
「……お前、すごい経験したな」
「うん」
「無事で、良かった」
レオンの声はいつもより少しだけ低かった。
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「あのさ」
俺は言った。
「うん?」
「村に、帰ろうと思ってる」
「ああ、そうか」
「一人で行くつもりだったんだけど」
レオンが、俺を見た。
「……レオンも一緒に、来てくれないかな」
レオンは少しだけ、黙った。
「——なんで、俺?」
「友達、だから?」
「……」
レオンが軽く、鼻を鳴らした。耳が少しだけ、赤くなっていた。
「……俺も、行っていいのか」
「うん」
「……そうか」
レオンがちょっと、下を向いた。それから顔を上げて、腕を組みなおした。
「——仕方ねえな。付き合ってやる」
「ありがとう」
「別に」
レオンの顔は、ちょっと嬉しそうだった。
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俺は、レオンの宿を出た。
空が少し、夕方の色に変わっていた。オレンジと青と、紫が混ざった色。綺麗な色だな、とぼんやり眺める。
俺は別荘地に戻りながら、考えていた。
明日、準備をしよう。それで、明後日出発。
村までの道のりは、ちょっと長い。エルストを経由して、さらに隣村、そして村。帰り道はいつもより、来た時よりも感じるかもしれない。
でもそれで、良かった。
急ぐ旅じゃないから。
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別荘地に着いた。
庭で、エルツが寝転んでいた。ダンダンがエルツの耳の上で、得意そうにしていた。アスタがその上で光っていた。
俺は、エルツに近づいた。
「エルツ、村に帰る。——ついてきてくれる?」
エルツが、金色の目を開けた。
『——うむ』
エルツが少しだけ、目を細めた。
『行こう。汝が、戻りたい場所へ』
「うん」
帰ろう。
ただいまって、言いに。




