第四十七話 聖地を、後に
竜は、静かに目を閉じていた。
大きな体が、ゆっくり上下していた。息の間隔が少しずつ広がっていった。最初は、気のせいかもしれないと思った。
でも、違った。
息と息の間が、少しずつ伸びていった。
俺はじっと見ていた。膝の上のダンダンも静かだった。肩のアスタの光もじっとしていた。胸の中のセレスも動かなかった。
隣で、エルツが伏せたまま金色の目を開けた。——師の方を、じっと見ていた。
竜が一度、深く息を吸って。
それから、ゆっくりと、吐いた。
——一際、長い息だった。
その息が、消えていった。
次の息が、来なかった。
-----
俺は、しばらく、動けなかった。
待った。——もしかしたら、また来るんじゃないかと思った。
でも、来なかった。
大きな体が、さっきまでの上下をやめていた。動いていなかった。静かに、そこにあった。
——逝った、のだと、分かった。
胸の中で、セレスがゆっくりと揺れた。震えでも、泣くのでもなく、ただ揺れた。
肩でアスタの光が一度強くなって、それから柔らかく落ち着いた。
ダンダンが、手の中で小さくプゥと鳴いた。言葉にならない声だった。
エルツが伏せたまま目を閉じた。角の先がほんの一瞬、光った。紫の光が空間を静かに走って、消えた。——師に向けての、何か、だった。
-----
神様の声が、俺の中に、静かに流れ込んできた。
『……フリッツ』
「はい」
『ありがとう』
神様の声は、少し、震えていた。
『あの子の最後に隣にいてくれて、ありがとう』
「……」
『君がいてくれて、よかった』
「……はい」
俺は、それしか、言えなかった。
神様の気配は、いつもより近かった。でも、急いで何かを言おうとはしなかった。静かに見守る距離で、そこにいた。
-----
その時だった。
エルツの中で、何かが、通った。
伏せたままのエルツの体が、少しだけ光った。角の先だけじゃない。体全体が、ほんの一瞬、淡く光った。
俺は、見ていた。
エルツが、ゆっくりと、顔を上げた。金色の目が、俺を見た。
『……フリッツ』
「うん」
『——我の名が、戻ってきた』
「……名前」
『うむ。師が抱えておられた星の意思が、眷属たちに少しずつ分けられていく。——その一部が、我にも戻ってきた』
「……うん」
『繋がりが、戻ったのだ。——我の本当の名も共に、我の中に降りてきた』
俺は、少し、息を止めた。
エルツの目が、いつもより深かった。——長い間、失っていたものを、取り戻した目だった。
「……教えて、くれる?」
エルツが、少し黙った。
それから、ゆっくり言った。
『——その名は、口にしてはならぬ名だ。声に出せば、力が散る』
「……そうなんだ」
『しかし汝には、預ける』
「うん」
エルツが俺をじっと見た。
——そして、名前が、俺の中に入ってきた。
声じゃなかった。言葉でもなかった。
——ただ響きが胸の真ん中に、静かに置かれた。
それが、エルツの本当の名前だった。誰にも言わない。口にも出さない。でも、俺の中に、ずっとある。
『——預かった、な』
「うん。預かった」
俺は頷いた。
エルツが少し安心したように、目を細めた。
-----
俺は、竜を見た。
動かない、大きな体。
琥珀の目は、もう閉じていた。
——涙が、出た。
ぽろりと、一粒、膝に落ちた。次の一粒も、落ちた。
——止まらなかった。
声は出なかった。泣きじゃくるのでもなかった。ただ、静かにこぼれていった。
ダンダンが手の中で、俺の手のひらに頬を押し付けてきた。
アスタが、肩で、柔らかく光った。
セレスが、胸の中で、優しく揺れた。
エルツが、俺のすぐ横に、静かに寄り添った。角が、俺の髪に軽く触れた。
——誰も、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
-----
どれくらいの時間、そうしていただろう。
天井の穴から、光がゆっくりと動いていた。——時間は、ちゃんと流れていた。
膝の上のダンダンがぐーっと伸びをして、俺の手のひらで丸くなった。
俺は、袖で、顔を拭いた。
息を、吐いた。
——まだ、立ち上がれなかった。
立ち上がる、という動作が遠かった。何かをしようとする気持ちが、まだ戻ってこなかった。
でも座ったまま、ひとつ思いついた。
——書こう、と思った。
忘れる前に。まだここにちゃんと、ある間に。
-----
俺は、荷物から、帳面を取り出した。
いつもの、薄い、表紙の擦れた帳面。隣村で買った、白紙の冊子。——もう半分以上使っていた。
新しいページを開いた。
ペンを持った。
——手が、少し、震えた。
何から、書こうか。
考えた。考えた。——決まらなかった。
だから一番頭に残っているものを、書いた。
「竜」
字が、下手だった。でも、いつものことだった。
その下に、もう一行、書いた。
「いた」
——いた。
それだけで胸が、少し軽くなった。
書けば、ちゃんと残る。ここにいた、ということが残る。
俺は、続けた。
「大きかった」
「銀色に見えた」
「光で青にも緑にも、見えた」
「目は琥珀みたいな、色」
「——奥に何かが沈んでいる、みたいな色」
俺は、顔を見ていた時のことを、思い出していた。思い出しながら、書いた。
字は、相変わらず、下手だった。
でも、下手なまま、書いた。
-----
書きながら俺は、少しずつ思い出していた。
話してくれたこと。
星の始まり。命の芽。水が生まれた日。山が隆起した時。風が通り始めた時間。
——それを、竜は、覚えていた。
覚えているということが、すごいと改めて思った。俺が一生かけても想像できない長さの時間を、竜はただ見てきた。
それを、俺に、話してくれた。
——聞いた。ちゃんと、聞いた。
俺は、また、書いた。
「星は、呼吸していた」
「命は、少しずつ生まれた」
「一つの意思が、外に出た。——それが竜の、始まり」
書きながら、竜の声がもう一度、体の真ん中を通った気がした。
——実際には、もう聞こえない。でも、覚えていた。
-----
ページが、ひとつ、終わった。
新しいページを開いた。
次に、書こうと思ったのは、アスタのことだった。
「アスタ」
「古代語で、星」
「登る時に、要る」
——アスタよ。その名は、登るときに必要となる。ゆめ、忘れぬようにな。
竜が、そう言ってくれた。
俺は、肩のアスタを見た。光が柔らかく揺れた。——分かっている、という光り方だった。
次は、セレスのこと。
「妖精の始まり」
「セレスの遠い祖先。母の母の、さらに母」
「宙の客人と、歌を交わしていた」
胸の中で、セレスが、小さく囁いた。
『……ありがとう、記してくれて』
「うん」
『——忘れぬように、な』
「忘れない」
俺は、頷いた。
-----
次は、神代のこと。
「神代」
「みんなが、近しかった時代」
「人間も、魔物の声を聞いていた」
「——今もまだ、続いている」
「でも繋がりは、細くなってきている」
書きながら、俺は、気づいた。
——俺のやってきたことが、その細い繋がりの一部だった、ということに。
特別なことじゃなかった。ただ、続いていたこと。俺も、その一本の糸の中に、いた。
-----
次は、託されたこと。
ここで字が、少し滲んだ。
「神の代行者として、世界を見て回る」
「旅を、続ける」
「全てを背負わなくて、いい」
「——俺のやり方で、いい」
滲んだインクが、ページに残った。
——でも、そのままにした。
竜がそう言ってくれたという証拠みたいで、そのままにしたかった。
-----
最後に、もう一つ、書いた。
「余すことなく使え」
——これは、竜がそう言ってくれた言葉だった。
そしてエルツが俺によく言っていた「隅々まで使え」は、ここから来ていたんだ。
俺は横のエルツを見た。
エルツは伏せたまま、目を閉じていた。でも、耳が少し動いた。——聞いている、という動きだった。
「師から受け継いだ、言葉」
俺は、書いた。
字がまた、少し滲んだ。
-----
どれくらい書いただろう。
帳面が新しいページで、またひとつ埋まった。
俺は、ペンを置いた。
帳面を閉じた。
——書き切れない、と思った。まだたくさんある。でも一気には書けない。時間をかけて、思い出すたびに書いていこう、と思った。
忘れないように。
ちゃんと、残すように。
-----
俺は、ゆっくりと、立ち上がった。
膝が少しだけ震えた。——長く座っていたせいだけじゃなかった。でも、立てた。
奥を、見た。
竜が言っていた、蓄えがある方だった。
アイテムバッグを、肩に掛け直した。
ギルドから借りている、Bランク以上向けの品。たぶん、容量は決まっている。
奥に進んだ。
-----
奥には光が、少しあった。
天井からの、空の光が、そこにも届いていた。
——想像よりずっと、多かった。
金属の塊。鉱石。古い書物。色のついた石。布にくるまれた、何か。——山ではなかった。でも、静かに整頓されて、積んであった。
竜が、長い時間をかけて、集めたものたちだった。
俺は、しばらく、見ていた。
——全部は、持っていけない。
アイテムバッグの容量を考えて、選んだ。
金属の、小さな塊。鉱石を、いくつか。古い書物を、数冊。布にくるまれたもの、ひとつ。——それで、バッグはだいたい、いっぱいになった。
残りは、そのまま置いておいた。
——後で、ギルドに報告しようと思った。竜がそう言ってくれたんだから、隠す必要はない。ただ、一人では運べない量だった。
-----
俺は奥から戻って、もう一度竜の前に立った。
動かない、大きな体。
俺は、両手を少しだけ合わせた。
——何か、祈るみたいに。でも、祈り方は知らなかった。ただ、手を合わせた。
「大事に、使わせてもらいます」
声に、出した。
返事は、なかった。——でも、届いている気がした。
「亡骸のこと、ギルドに報告します」
「——人の世でちゃんと、使われるようにします」
「余すことなくって、約束しました」
俺は、少し、息をついた。
「——ありがとう、ございました」
声が、小さく震えた。
-----
エルツが、ゆっくりと立ち上がった。
金色の目で師を、もう一度見た。
それから、俺に言った。
『——行こう』
「うん」
俺は、静かに、でもしっかりと頷いた。
-----
地下通路を、戻った。
来た時より、足取りは、重かった。——でも、進めた。
通路の途中で、一度、振り返った。
竜のいた空間は、もう見えなかった。——でも、そこにあった。
ちゃんと、あった。
俺は、また前を向いた。
-----
地上に出た。
エルツが別の入り口から出てきた通路を、今度は俺もちゃんと通った。——落とし穴じゃなくて、ちゃんとした入り口が岩の陰にあった。
台地の上に、出た。
——朝だった。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。聖地の中では、時間の感覚がずれていたのかも。天井の穴から見えていた光が、今空一面に広がっていた。
風が、吹いた。
冷たくて、でも重くない、澄んだ風だった。いつかの、入った時と同じ風。
俺は、少しだけ、目を閉じた。
-----
神様の声が俺の中に、静かに流れ込んできた。
『……聖地を、出るのかい』
「はい」
『うん』
神様の声は、穏やかだった。
『——おつかれさま』
「……はい」
『ゆっくり、街に戻ってね』
「はい」
神様の気配が、少しだけ遠ざかった。でも完全には消えなかった。いつもの距離に、戻っただけだった。
-----
俺は、エルツに乗った。
ダンダンは肩の上。アスタはいつものように浮いていた。セレスは胸の中で、静かにしていた。
台地の縁に立って、もう一度、後ろを見た。
聖地が、静かに、そこにあった。
竜の気配は、もうなかった。——でも代わりに、何か違うものが、あった。静けさに、少しだけ重みがあった。ここに誰かがいた、という余韻だった。
俺は、しばらく、見ていた。
それから、前を向いた。
『……フリッツ』
「うん」
『パスハイムに、戻るか』
「うん」
『——ゆっくり、行こう』
「うん」
エルツが、ゆっくりと、歩き出した。
俺は、帳面を胸に押し付けた
中に、竜がいた。ちゃんと、いた。
風が、背中を押した。




