第四十六話 旧き時代の、次の道へ
どれくらいの時間が過ぎただろう。
竜は目を閉じていた。大きな体がゆっくり上下していた。息を整えるみたいな呼吸だった。
俺も膝の上のダンダンに手を添えたまま静かにしていた。ダンダンが時々ぐーっと伸びをしては、また丸まった。エルツは伏せたまま動かなかった。肩のアスタの光も落ち着いていた。胸の中のセレスも静かに揺れるだけだった。
天井の穴から空の光がゆるやかに降りていた。
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竜がゆっくり目を開けた。琥珀のような目が俺を見る。
『——続けても良いか』
「はい」
俺は頷いた。
『ありがとう』
竜が少しだけ息を吐いた。
『次は今の話をする』
「今……」
『うむ。——遠い話の続きだ』
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『神の力が及ぶ場所は、この星の上で少しずつ減ってきておる』
竜が言った。
『昔は全ての地に神の気配があった。——今はそうでもない』
「うん」
『神は在ることはできる。だが細かなところまで手を差し伸べることが難しくなってきた』
俺は胸の中で神様の気配を探した。少し遠いところにあった。でも消えてはいなかった。
神様が諦めていたって、前に言ってたな。「君なら私が諦めていた場所に別の道を見つける」と。
『そして我が眠りにつけば、この星の見守り方はまた少し変わる』
竜が続けた。
「……眠る、って」
『うむ。——我は長く生きすぎた。そろそろ星に還る時だ』
俺は何も言えなかった。
竜は急がなかった。言葉の重さを俺が受け取る時間をちゃんと待ってくれた。
『悲しむ話ではない。——星の意思が次の形を作るための区切りだ』
「……怖くないんですか」
『怖くはない。——長い眠りの前に話を聞いてくれる者がいる。それだけで十分だ』
竜の呼吸がゆっくり動いた。
『我が眠れば、この星には新たな存在が生まれる。——役目を継ぐものが育っていく』
竜が少し間を置いた。それからゆっくりと息を吐いた。
『——だから、我の体のことを先に話しておく』
俺は少し息を止めた。
『我が眠った後、この体はただの大きな肉と骨になる』
「……」
『人の世では竜の素材は高い価値を持つのだろう』
「……たぶん」
俺には想像もつかなかった。竜の素材がどれほどのものか聞いたこともない。でも途方もないことだけは分かった。
『よければ使ってほしい』
「……そんな、大事なものを」
『血も、鱗も、角も、骨も。——余すことなく使え』
「……それで、いいんですか」
『良い。——死んだものに執着はない』
竜の目が遠くを見た。
『何より我の体が旧い時代の良きものとして、次の時代の役に立てば』
「……」
『——それは我にとっても嬉しいことだ』
俺はしばらく黙っていた。
隣でエルツが伏せたまま何も言わなかった。でも耳が少し動いていた。——師の言葉をしっかり聞いているという動きだった。
「……分かりました」
俺は言った。
「大事に使わせてもらいます」
『うむ』
竜がもう一度言った。
『余すことなく、な』
「はい」
竜が静かに目を細めた。
『——良かった』
しばらく静かだった。天井の穴から降りてくる光が少しだけ傾いていた。時間が過ぎていた。
竜がもう一度息を吸って、俺を見た。
『——次は、汝自身のことを話す』
竜の声が少し低くなった。
『汝のその印のことだ』
「……はい」
『(+++)と表されるもの』
「はい」
『それはこの星の意思のひとつだ』
思いもよらないことだった。今まで当たり前にあった表記が。
「……星の、意思」
『対話術と汝は呼んでおる。ギルドでもそう表示されておるそうだな』
「はい。ずっと、なんでこんなものが俺にあるのか分からなかった」
『それは人が名付けた名前だ。——本当はもっと古い別のものだ』
俺は自分の手を見た。小さな手のひら。特別に見えない、ただの手。
『——星の意思が次の時代のために細く残した道のひとつ。それが汝の中にある』
胸の中でセレスが揺れた。小さく震えた。
『神が旧い神になる前に、次の繋がりを残した印だ。——神自身の手では作れぬ別の系譜』
「……神様が旧い神に」
『うむ。それも長い月日をかけてゆっくり起こることだ。──今すぐという話ではない』
竜が静かに目を細めた。
『だが始まりはもう起きておる』
竜の目がまっすぐ俺を見た。
『——汝が生まれたことがそれだ』
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俺はしばらく何も言えなかった。
ダンダンが手のひらでじっとしていた。俺の動揺を感じ取っているみたいだった。
「……俺が生まれたこと」
『うむ』
竜の声は穏やかだった。
『神が次の星を諦めなかったということだ』
「俺は何も知らなかった。ただ魔物と話すのが好きなだけで」
『それでよい。——汝の中に星の意思の欠片がある。だから神は汝に可能性を見いだした。自然なことだ』
竜が少し間を置いた。
『汝が望んだわけでも汝が選ばれたわけでもない。——ただそこにあっただけだ』
その言葉は、俺にとって少し救いだった。
望んだわけじゃない。選ばれたわけでもない。ただそこにあっただけ。
俺はちょっとだけ息をついた。
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『だが汝にひとつ頼みがある』
竜が言った。
「はい」
『全てを背負う必要はない。——それは最初に言っておく』
「……はい」
『旧い時代から次の時代への切り替わりは長い月日をかけてゆっくり起こる。汝の一生では見届けられぬほど長い時間だ』
「うん」
『だから汝に託したいのはもっと小さなことだ』
「……小さいこと」
『うむ。——神の代行者として世界を見て回ってほしい』
「神の、代行者」
『そう言うと、大層に聞こえるかもしれぬが。……託したいのは、旅を続けることだ。汝が今までしてきたことと、そう変わらぬ』
俺は少し目を大きくした。
——続けること。
それなら俺は元々そのつもりだった。
『神の力が及ばぬ場所がこれから増える。だが汝の対話術はそこにも届く』
竜が続けた。
『神が話せなくなった相手とも汝は話せる』
「……俺が話すことで、何か変わりますか」
『変わるかどうかは分からぬ。——だが聞いてもらえたということは残る。それだけで十分だ』
竜の目が俺を見ていた。
——ただ話を聞いて歩いていけばよい。
それは俺がずっとしてきたことだった。名前が付いていなかっただけで。
『特別なことをしようとしなくてよい。——汝のやり方でよい』
俺は少し頷いた。
——俺のやり方でいい。
それは竜からの一番大事な言葉な気がした。
『……引き受けてくれるか』
答えはもう決まっていた。
ずっと前から決まっていた気がした。
「はい」
俺は迷わず言った。
「俺のできることを、やります」
『うむ』
竜が念を押すように言った。
『全てを背負わずにな』
「はい」
『無理をせずにな』
「はい」
『——ありがとう』
竜の声が少しだけ笑ったように聞こえた。
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少しの間があった。
竜の呼吸がゆっくり落ち着いていった。俺も少しだけ肩の力を抜いた。
『——この場所のことを、少し話しておく』
竜が周りを見渡すように首を動かした。
『ここは全ての疎通をよくする神域だ。生きるものと地と天と宙と、それら全てがここでは繋がりやすい』
俺は少し周りを見回した。天井の穴から光が降りていた。風がどこかから流れ込んでいた。——地下のはずなのに空と繋がっていた。
『だがこの地に足を踏み入れる者はほとんどおらぬ。この地に入ると己が丸裸にされる。——隠しておきたいものまで見られる気がするのだ』
少しだけわかる気がする。息をするたびに胸の奥が透けていくような感覚。清々しさがあるけれど、この感覚が苦手な人もいるのだろう。
『汝はどうだ』
竜の目が俺を見ていた。
俺はしばらく考えた。
——圧されてはいる。大きい。畏れ多い。でも嫌じゃなかった。隠しておきたいものを見られるという感覚も、よく分からなかった。
「……俺はたぶん、そういうのあんまりないです」
『うむ。——そう見えた』
竜の声が少しだけ柔らかくなった。
『汝は己を隠しておらぬ。——最初からそういう者だ』
「隠すようなものが、ないだけです」
『だから我は安心して汝に託せる』
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『あともう少しだけ話しておきたい』
竜が続けた。
「はい」
『若い頃にな、色々と溜め込んだものがある』
「若い頃」
『うむ。——我にも若い頃があった。信じられぬだろうが』
「いえ、そんな」
『あちこちの地を巡っておった頃だ。土地の者たちに貢がれたり、山の奥で光る石を見つけて持ち帰ったり。——趣味のようなものだった』
竜の目が少しだけ細くなった。——懐かしそうだった。
『その頃は付き人も居てな。宝石、金属、古い書物。人の世で役に立つものもそうでないものもある。——この地の奥にまとめてある』
「……」
『好きにしてほしい。旅の身銭にしてもよい。仲間たちに分けてもよい』
「大事なものを、いいんですか」
『我にはもう要らぬ。——若い頃の思い出の品だが思い出は体の中にある。ものは使う者のところに行くのがよい』
俺は少し黙った。
——竜は遠い昔からここにいて、色々なものを見てきた。蓄えたものがどれくらいあるのか想像もつかなかった。
『全てを持っていけとは言わぬ。——汝と仲間たちが持てるだけでよい』
「はい。——ありがとうございます」
『うむ』
胸の中でセレスが揺れた。
肩でアスタの光がゆっくり強くなって、ゆっくり落ち着いた。
エルツが伏せたまま小さく息を吐いた。——師の託しを傍で聞き届けたという息だった。
ダンダンが手のひらの中でぐーっと伸びをして、また俺の手に耳を寄せた。
俺はみんなを見た。それから竜を見た。
——みんながここにいた。
俺ひとりで背負う話はひとつもない。
託されたのは竜の体と、竜の遺産と、旅をすること。
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竜がもう一度ゆっくり目を閉じる。
休む動作がさっきより少しだけ深かった。
天井の穴から光が差していた。風がどこかで呼吸していた。
静けさが空間を包んでいた。




