第四十五話 星が落ちた日、星が登る日
竜がゆっくり、息を吸った。
大きな体の全体が、少しだけ膨らんで、少しだけ縮んだ。呼吸ひとつにも時間がかかるみたいだった。——でも、急がない。その時間そのものが、話の一部だった。
琥珀のような、奥に何かが沈んでいる目が、遠くを見た。
『——この星は、遥かな歴史を持っておる』
声は耳じゃなくて、体の真ん中を通った。
『最初は、光と闇だけの場所だった』
「……」
『水が生まれた。山が隆起した。風が通り始めた。——そうしてこの星は少しずつ、形を得ていった』
俺は黙って聞いていた。
膝の上で、ダンダンが耳をぴたんと俺の手に寄せて、じっとしていた。肩のアスタの光が、いつもより静かに、穏やかに揺れていた。胸の中のセレスも、息をひそめるみたいにしていた。
横で、エルツが伏せたまま、金色の目を閉じていた。聞き慣れた物語を、もう一度確かめるような姿勢だった。
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『命が生まれる前、この星はただ呼吸していた』
「呼吸ですか」
『うむ。——星そのものの呼吸、とでも言おうか』
竜がゆっくり続けた。
『その呼吸の中から少しずつ、命の形が浮かび上がってきた。最初は小さな、名も持たぬものたちだった』
「魚とか、虫とか?」
『——いや、その前にもっと小さなものがあった。目に見えぬほどの、命の芽だ』
もっと小さいもの。それはどんなものだろう。小さな羽虫より、更に小さい命は見たことがないかも。
『それが長い月日をかけて、形を変えていった。水の中のものは陸に上がり。地を這うものは空を飛ぶものに変わっていった』
「……どれくらいの?」
「うむ。——我らが今想像できる月日では、ない。もっと、ずっと長い年月だ』
俺は少し黙った。
——想像できない長さの時間が、目の前にいる存在の中に流れている。
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『まだ、命がさほど多くなかった頃のことだ』
竜がゆっくり続けた。
『星は己の内から、一つの意思を外に生み落とした。地と天の境を、守らせるためにな』
俺は少し、息を止めた。
竜が、静かに目を細めた。
『——それが我の、始まりだ』
「……え」
『うむ。我はこの星が、最も初めに産み落とした意思だ』
俺は何も言えなかった。言葉が追いつかなかった。
膝の上のダンダンが、耳をぴたんとさせたまま動かなかった。肩のアスタの光が、じっとしていた。胸の中のセレスも、静かに聞いていた。
エルツは、伏せたまま目を閉じている。——知っていたのかもしれない。師のことを。
『それから、また更に長い月日が流れた』
竜が続けた。
『命はさらに増え形を変え、一つの意思では見守りきれぬほどに満ちていった』
「……」
『そこで星は己の意思を、今度はいくつにも分けた。——それぞれが、小さな場所を見守る役目を負った』
「……それは?」
『うむ。神と呼ばれる存在の、始まりだ』
「神様?」
『うむ。汝の知る神も、そのうちの一人だ』
俺は少しだけ、目を大きくした。
——神様って、そんな昔から。
胸の中で、神様の気配は離れたところにあった。でも完全には消えていない。見守るような距離。聞いているのかもしれない。
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『その頃の話だ』
竜が続けた。声が、少しだけ柔らかくなった。
『宙から、客人が降りてくるようになった』
肩で、アスタの光がふわっと強くなった。
竜の視線が、アスタに少しだけ向いた。
『光の塊のような、存在たち。星の意思と、言葉ではない歌を交わすようなものたちだった』
「宙から……」
『うむ。——この星よりもっと遠い、星々の巡る場所から来ていた』
アスタの光がもう一度、揺れた。何か、思い出しかけているような。……でも、はっきりはしない。揺らいで、静まって、また揺らいだ。
竜が、アスタに目を向けた。
『——そうか。汝、フリッツから「アスタ」という名をもらったか』
アスタの光が、ふわりと揺れた。
『失われた古代語で、それは「星」を意味する』
「え……」
俺は思わず声を出した。——アスタ、という名前に、そんな意味があったなんて。
『うむ。——良き名だ』
竜の声が、少しだけ柔らかくなった。
『アスタよ。——その名は、登るときに必要となる。ゆめ、忘れぬようにな』
アスタの光が、強くなった。それから、静かに落ち着いた。何かを、深く受け取ったような光り方だった。
『星が落ちる日もあれば、星が登る日もある』
ふいに、アスタと初めて出会った時に流れた光景を思い出した。燃えるような体、とんでもない速度で移動する周囲……。登る時も、またあれほどの景色になるのだろうか。
『長い月日をかけて、ゆっくりと巡るものだ。——焦る必要は、ない』
竜が頷くように、首をわずかに動かした。
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『森が深くなった頃、もう一つ生まれたものがあった』
竜が続けた。
『——木に根を張る、ものたちだ』
胸の中で、セレスが震えた。
『——妖精の、始まりだ』
「セレスの……」
『うむ。——汝の中のそれの母の母の、さらに母。——そのくらいの昔だ』
セレスが、胸の中で一度、深く揺れた。
『彼女らは宙からの客人と、歌を交わした。森の奥で夜通し、声を繋げていた時代があった』
竜が、ゆっくりと瞬いた。
『——その歌を交わせるものたちが、やがて女王と呼ばれるようになった』
肩のアスタの光が、揺れた。
胸の中で、セレスも揺れた。
——二つの揺れが、重なった。
アスタの光と、セレスの震えが、同じ波のように、繋がっているのが分かった。二人は、お互いの祖先が、遠い昔、一緒に歌を交わしていたことを、感じ取っている。
セレスが、小さく囁いた。
『……わらわは、女王。わらわの遠い、母たちが』
「うん」
『アスタの遠い、祖先と』
「うん」
『夜の森で、歌を歌っておった』
アスタの光が、セレスの声に呼応するように、優しく揺れた。
二人の間に、柔らかいものが通っていた。
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『人間が現れたのは、もっと後だ』
竜が続けた。
『最初は小さく、弱かった。——だが、言葉を持っていた』
「言葉?」
『うむ。言葉を持つということは、星の意思からすれば特別なことだった』
俺はいまいちわからなかった。首を傾げたら、竜が穏やかに続けた。
『言葉は、繋げる。言葉は、分ける。言葉は、運ぶ。——星の意思は、人間の言葉に興味を持った』
俺は少しだけ、自分の手を見た。ダンダンが手のひらで、ぐーっと小さく伸びをした。それから、またじっと丸まった。
——言葉を持つ、ということ。
俺にとっては当たり前のものだ。でも、星の歴史から見ると、それは新しいものだった。
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『神代、と呼ばれる時代がある』
竜が言った。
『星の意思と、神と竜と妖精と宙の客人と人間と魔物と。全てが、近しくあった時代だ』
「全てが……近しい」
『うむ。人間も、魔物の声を聞くことができた。神の気配も、森の中に感じていた。——それが当たり前の、時代だった』
「……みんな、話してた」
『そうだ。——そういう時代があった。そしてそれは今も、完全には失われてはおらぬ』
俺は少し黙った。
俺のやっていることは、その時代の名残なのかもしれない、と、ふと思った。昔は当たり前だったことが、細くなりながら、今も続いている。
『その時代は、長く続いてきた』
竜が言った。懐かしむような、愛おしいような。
『だが……』
竜の声が、少しだけ重くなった。
『人間が増えるにつれて、言葉は人間同士のものになっていった。魔物の声を聞く者は減っていった。神の気配を感じる者も、減っていった』
言葉は人間同士のもの。俺の胸に重くのしかかる。
『星の意思を感じる者も、減っていった』
「……」
『それでも神代は、まだ終わってはおらぬ。——人も魔物も、同じ星の上で息をしておる』
俺は、黙って頷いた。
『神の力が及ぶ場所は、少しずつ狭くなってきておる。——それでも繋がりは、細く残っておる』
「うん」
『——だがその神代も、いま終わろうとしている』
静けさが、空間を満たした。
エルツが、目を閉じたまま、わずかに耳を動かした。肩のアスタの光が、ゆっくり揺れていた。セレスは胸の中で静かにしていた。ダンダンは手のひらで、もう一度、伸びをした。
竜の目が、遠くから俺に戻ってきた。
——俺は何も、言えなかった。
でも、聞いていた。ちゃんと聞いていた。それだけは、確かだった。
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竜が、少し息を吐いた。
『……少し、休もうか』
「はい」
俺は頷いた。
『話は、まだある。——だが、急がぬ』
「ゆっくりで、いいです」
竜がゆっくり、目を閉じた。
大きな体がわずかに沈んだ。休むという動作が、とてもゆっくりだった。
俺も、膝の上のダンダンに手を添えたまま、少しだけ体を動かした。背中が石の壁に軽く触れた。冷たい、けれど嫌じゃない冷たさのままだった。
天井の穴から、空の光がゆるやかに降りていた。
空気が、静かに流れていた。どこかで、風が呼吸していた。




