第四十四話 落ちた先で、会いました
聖地に入った、と感じたのは、斜面を登り切った瞬間だった。
視界が開けて、雲を突き抜けた台地が広がっていた。朝霧が縁を流れている。風は冷たいのに、重くなかった。呼吸するたびに、胸の奥が透けていくような感じがする。
エルツから降りた。足裏に、短い草と苔の感触。
ダンダンがいつもみたいに跳ねなかった。肩から降りて、地面に鼻先をつけて、『……つち、あったかい』と小さく言っただけだった。
アスタも静かに浮いていた。光の尾がいつもより短い。何かに遠慮しているような光り方だった。
胸の中で、セレスが一度揺れた。
『ここだ』
「うん」
『わらわの、一番古い記憶の匂いがする』
セレスの声も、静かだった。
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俺はしばらく立ったまま、あたりを見ていた。
短い草。岩。苔のかたまり。低い灌木が風に揺れていた。鳥の声も虫の声もしない。魔物の気配もない。自分の呼吸と風の音だけが聞こえた。
隣で、エルツが低く言った。
『……どうだ、フリッツ』
「うん」
『圧されるか』
「少しだけ。……でも嫌じゃない」
『それは良いことだ』
エルツが耳を軽く動かした。金色の目が、少しだけ遠くを見た。
『……竜と話したことがあると言ったな。……あの頃、我は調子に乗っていた頃でな』
「え、エルツが?」
『うむ。その頃、己をそこそこ強いと思っていた時期があった』
「想像つかないな」
『我の角が、初めて光り始めた頃のことだ。——その時、あの方に会った』
「竜に?」
『うむ。——一瞬で、実力の差を分からされた。戦ったわけではない。ただそこにおわすだけで、我の自惚れは粉々になった』
「……」
『以来、あの方を師と呼んでおる』
「そうだったんだ」
『あまり、他人に話すことではないのだがな』
エルツが少しだけ、ばつが悪そうに鼻を鳴らした。金色の目が俺を見た。
『汝にだけ、先に伝えておく』
「うん」
エルツの秘密が聞けたみたいで、なんだか嬉しい気持ちになった。
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神様の声が、俺の中に流れ込んできた。
『着いたね』
「はい」
『ここまでは私が見守ってきたけど、この先は竜の領域だから。——私は少し離れるね』
「神様、入れないんですか?」
『入れないわけじゃないよ。でも、——あの子の間だから』
「はい」
『あの子のところまでは、自分で行ってみて』
「どこにいるんですか?」
『んー……それは、行けば分かるよ』
「え」
『あの子、自分で探してほしいみたいだから』
神様の声が、少しだけ笑った。
『性格、出るでしょ』
「……出ますね」
『じゃあ、いってらっしゃい』
神様の気配が遠ざかった。完全には消えない、見守る距離。
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「じゃあ、探そう」
俺は、エルツを振り返った。
「エルツ、気配は分かる?」
エルツが角の先ゆっくりと動かした。色々な方向に向けて、最後に、少し困ったような顔をした。
『……難しい』
「分からない?」
『気配はある。——だが、上からも下からも感じる』
「両方から?」
『台地の中心の高台から地下の奥深くまでに気配がある、と言うのが正しい。我には判別がつかぬ』
俺は少し考えた。
上と下。——竜はどっちにいるんだろう。
胸の中で、セレスがゆっくり揺れた。
『この地は、上と下の区別が曖昧なのだ』
「曖昧?」
『空と地が繋がっているような場所だ。どちらが上でも、下でもある』
「うーん」
アスタが、ふわりと明るくなった。何か言いたそうに見えた。
『アスタは上から来たのだから、上の方が馴染みはあると』
セレスが訳してくれた。
『だが、地の下の気配も懐かしいとも言っておる』
「懐かしい?」
『落ちた時のことを、少し思い出しかけておるのやもしれぬ』
アスタの光が、わずかに揺れた。
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どちらに、というのは決まらなかった。
上に行くには、台地の中心の高台まで歩く必要がある。地下に行くには、入り口を探さないといけない。
——とりあえず、歩いてみるか。
そう思った。歩けば何か分かるかもしれない。俺は台地の上をゆっくり歩き出した。エルツたちも後ろからついてきた。
歩きながら、足元を見ていた。岩。短い草。苔。苔の色が、場所によって違う。濃いところがある。水気の多いところ。
ダンダンが肩の上で、鼻をひくひくさせていた。
『フリッツ、ここ、かおり、ふるい』
「古い?」
『うん、ふるいの、におい』
俺は苔の上にしゃがんだ。手を地面に当ててみた。指先が、かすかにぴりぴりした。水源の宝玉のそばで感じたのと似ている。地脈が近いところの感覚だ。
「…………こっちかも?」
『うむ』
エルツも頷いた。
「こっちに、入り口あるかな」
俺は立ち上がって、苔の濃い方へ歩き出した。
——その、次の一歩だった。
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足の裏の感触が、ふわっと消えた。
「あ」
と俺は言ったと思う。
それから、落ちた。
『フリッツ!』
『フリッツ、おちたー!』
上から、エルツとダンダンの声が聞こえた。
落下はそんなに長くなかった。三メートルくらい。体が地面にぶつかる直前、背中に柔らかい力が働いて、俺はぽすんと着地した。
防御力強化の祝福なのかな。ちゃんと効いた。
埃が、ふわっと舞い上がった。俺は立ち上がって、服の土を払う。
見上げると、丸い穴が空から覗いていた。穴の縁から、エルツの大きな顔が覗き込んでいる。
『……無事か、フリッツ』
「無事。ちょっと、びっくりしたけど」
『そうか』
エルツが、少し息を吐いた。安心したようにも、呆れたようにも聞こえた。
『足元を見て歩け』
「うん、ごめん」
『まったく』
上から、ダンダンの顔も覗いた。
『フリッツ、ぶじ! ぱちぱち!』
「ダンダン、ありがとう」
アスタが、光の尾を引いて、穴の中に降りてきた。俺の肩に軽く乗った。
胸の中で、セレスが軽く息をついた。
『そなた、見事に落ちたな』
「……すみません」
『よい。——ここは、落ちるべき場所であったかもしれぬ』
「え?」
『わらわの勘だが。ここから道が始まる気がする』
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俺は周りを見渡した。
石造りの古い通路。黒っぽい石を積んである。ただの石ではなく、角が丸くなっていた。自然の洞窟じゃない。誰かが、昔に作った場所。
空気は澄んでいた。どこかから新鮮な空気が流れ込んでくるらしい。湿り気はあるけど淀んではいない。
上から、エルツの声が聞こえた。
『フリッツ、我は降りられぬ。別の入り口を探す』
「うん」
俺は穴の上を見上げた。エルツの顔の横に、ダンダンがちょこんと覗いている。
「ダンダンは?」
ダンダンが穴から身を乗り出した。
『ダンダン、いく! ちいさい、から、おちれる!』
そう言って、ダンダンはぽいっと飛び込んできた。ふわふわの体がくるくる回りながら落ちてきて、俺の手のひらに収まった。耳をぴこっと立てて、得意そうにしている。
『ぶじ!』
「上手いね」
アスタは俺の肩に、セレスは胸の中にいる。
エルツが、上から念を押した。
『フリッツ、勝手に奥まで行くな』
「少しだけ、進んでみる」
『少しだけだぞ』
「うん」
『すぐに合流する』
「気をつけて」
エルツの顔が穴から消えた。足音が勢いよく遠ざかっていった。
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俺は通路を見た。
四つの方向に分かれていたけど、三つは岩やツタで塞がれていて、通れるのは一本だけだった。下に向かって、ゆるやかに降りていく道。
——選択肢が一つなら、迷わなくていい。
俺は歩き出した。ダンダンを手のひらに乗せたまま、ゆっくりと。
通路は下へ続いていた。壁が、少しずつ変わっていった。積み上げた石から、削り出したような一枚岩に。模様も装飾もない。ただ、古い。
空気が深くなっていく。静けさが、深くなっていく。
百歩、二百歩、歩いただろうか。——気配が、前から近づいてきた。上じゃない。前から。
ダンダンが、手の中で耳をぴったり俺の手に押し付けた。
『フリッツ』
「うん」
『おっきい、いる。でも、わるい、におい、しない』
「危なくない?」
『うん。——ただ、おっきい』
ダンダンの語彙では、それくらいしか伝わらなかった。でも、大きい何かがいること、敵意はないらしいこと、それだけは分かった。
胸の中で、セレスが囁いた。
『——そこに、おわす』
俺は足を止めた。
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通路の先が、広い空間に開けていた。
円形で、天井が高かった。天井のど真ん中に丸い穴が空いていて、そこから光が降りていた。空の光。——地下のはずなのに、空と繋がっている。セレスが言っていた「上下の曖昧さ」というのは、こういうことかもしれない。
空間の中央に、それは、いた。
ひたすらに大きかった。
想像していた何倍も、大きかった。目の前の体の一部だけで、エルツより大きい。視界に収まりきらない。
体の色は深い銀色に見えた。でも光が変わると青にも緑にも見えた。古い金属の、色を変える塊。
折りたたまれた翼のようなもの。角のようなもの。全体の形は、はっきりしない。横たわっているのか、丸まっているのか、区別がつかない。
そして——目。
金色じゃない。もっと深い、古い色。琥珀のような、奥に何かが沈んでいるような色。
その目が、ゆっくり開いていく。
俺を、見ていた。
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『……来たか』
声は、耳で聞いたんじゃなかった。体の真ん中を、通った。
前にエルツに稜線で一瞬触れた時の感覚に、少し似ていた。でも、もっと深かった。
俺は黙っていた。というより、言葉が追いつかなかった。動揺とは違う。ただ何を言えばいいのか、分からなかった。
ダンダンは、手の中で静かにしていた。アスタの光は、肩でわずかに揺れていた。セレスは、胸の中でじっとしていた。
俺は、一度息を吐いた。それからなるべく、深く息を吸い込む。
それから、言った。
「はい。——話を、聞きに来ました」
『うむ』
竜が、ゆっくり頷いた。ように見えた。動きは、とてもゆっくりだった。大きな体を動かすのは、きっと大変なんだろう。
『長いこと、待っていた』
「……そうなんですか?」
『夢の中で、君に触れてから。会えると思っていた』
あの夢。広い静かな場所、横たわる大きなもの、遠い呼吸。
——あれは、やはり竜だったんだ。
「……すみません、遅くなりました」
『遅くはない。ちょうど良いときに、来てくれた』
大きくて、古くて、畏れ多い存在のはずなのに、声は穏やかだった。急かす調子が、どこにもない。
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その時、通路の方から、重い足音が聞こえた。
空間の入り口に、エルツが現れた。別の入り口を、見つけたらしい。
エルツが、竜を見た。
金色の目が、大きく開いた。
そして、ゆっくり、深く頭を下げた。
『——我が師よ。お久しゅうございます』
俺は、少し驚いた。エルツのこんなかしこまった言い方を、聞いたのは初めてだった。
竜がエルツを見て、少しだけ目を細めた。笑っているようにも見えた。
『……汝、まだ幼いな』
『——まだ、ですか』
『うむ。まだ幼い』
『前にも、同じことを言われましたぞ』
『そうであったか』
『はい』
エルツが、困ったような、嬉しそうな、そういう顔をしていた。——竜と過ごしていた時のエルツが、そこにいた。
竜の視線が、少し移った。
アスタに、止まった。
竜はしばらく、アスタを見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
『……ああ。宙の子、か』
アスタの光が、強くなった。強くなって、それから、揺れた。何か、思い出しかけているような光り方だった。
『懐かしい。——久しく、見ておらぬ光だ』
胸の中で、セレスが震えた。興奮とも、畏れともつかない震え。
竜の視線が、ダンダンにも注がれた。
『……モスリンの子か。小さな、強い命よ』
『ぱちぱち!』
ダンダンが手の中で元気に鳴いた。竜は、それをゆっくり見てから、また視線を動かした。
『……セレスティエの分霊だな。ああ、久しい。安らかな森の妖精』
セレスが、胸の中で深く頭を下げるように揺れた。
『お久しゅうございます。本体は根を張る身ゆえ、分霊にて失礼いたします』
『うむ。——良い選択だ』
竜が言った。
そして、また視線が、俺に戻った。
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『さて、フリッツ。話を、聞いてくれるか』
「はい」
『長くなる』
「はい」
『——ゆっくり、行こう』
竜が、少し体勢を整えた。首をゆっくり動かした。折りたたまれた翼のようなものが、わずかに広がって、また閉じた。
俺は、その場に腰を下ろした。床は冷たかったけど、不思議と嫌じゃなかった。
エルツが俺の隣に静かに伏せた。ダンダンが俺の手のひらから、膝の上に移った。アスタは肩で柔らかく光った。セレスは胸の中で落ち着いた。
みんな、準備ができた。
竜の目が、ゆっくり俺を見つめた。
『——どこから、話そうか』
古い深い目が、少しだけ遠くを見た。
何かが、語られ始めようとしていた。




