第四十三話 聖地への道
朝、パスハイムの西門。
レオンが俺を見送りに来ていた。門の前で腕を組んで、少し眠そうな顔をしていた。
「気をつけろよ」
「うん」
「帰ってきたら、パスハイムで合流な」
「うん」
エルツに乗った。肩にダンダン、周りにアスタ、胸の中にセレスティエの分霊。
「じゃあ、行ってくる」
「おう」
「レオン、体壊さないでね」
「お前が言うな」
手を振ったらレオンも返してくれた。門をくぐる直前、もう一度振り返った。レオンが、軽く手を挙げてくれた。
エルツが、街道に出た。
それからは振り返らず、前を向いた。
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昨日の夜、出発前にギルドに寄った。
マスターが「最後に、カードの表示を確認しとけ」と言ったからだ。本部担当の眼鏡の人も一緒にいた。
「フリッツ殿」
「はい」
「Aランクの正式な登録と、関連する項目の更新が完了しました」
眼鏡の人が俺のカードを魔道具の台に乗せた。金色のカードが、淡く光った。空中に表示が浮かび上がった。
表示が変わっていた。
ランク:A
名前:フリッツ・アルトハウス
スキル:対話術(+++)
祝福:無毒化、回復力強化、防御力強化、魔力操縦、対話の中継
対話種族接触記録:エーデルホルン(エルツ)/モスリン(ダンダン)/セレスティエ(分霊)/宙の精霊
「……なんか、増えてますね」
「新しい項目です。フリッツ殿のために、本部が設けた区分です」
「俺のために」
「これまでの分類では、収まりきらなかったので」
眼鏡の人が、淡々と言った。
「今後、新しい種族と接触された場合、この項目に追記されます」
「はい」
「他のAランク冒険者のカードには、この項目は、ありません」
「……」
マスターが、横から口を挟んだ。
「つまりお前専用の欄だ。気にせず、埋めてこい」
「はい。楽しみです」
「……そういう反応するのは、お前だけだ」
マスターが、ため息混じりに笑った。
俺は、もう一度、カードの表示を見た。
エーデルホルン(エルツ)。モスリン(ダンダン)。セレスティエ(分霊)。宙の精霊。
——友魔。
ハルツさんが教えてくれた、古い言葉。六十年前にはまだ使われていた、魔物と対等に付き合う者たちの呼び方。
カードには「対話種族接触記録」と書いてある。
でも、俺にとっては、これは友魔の名前だった。
嬉しかった。ちゃんと、ここに並んでいる。
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パスハイムの街が、背後に小さくなっていく。
街道は西へ緩やかに登っていた。最初は畑、次に雑木林、そして低い丘。エルツはいつもの足取りで軽く走っていた。荷物はギルドから借りているアイテムバッグに入っている。Bランクから引き続き使わせてもらっている貸与品だ。
ダンダンが、肩でご機嫌な様子で小さく揺れていた。
『フリッツ、そと、あかるい!』
「うん。天気いいね」
『かぜ、すずしい!』
「そうだね」
アスタはエルツのすぐ上をふわふわと漂うように飛んでいた。街の中では人目につかないように俺の肩に留まっていたけれど、街道に出てからは伸び伸びしているように見えた。光の尾が時々、エルツの耳元をかすめていた。エルツがそのたびに耳をぴくりと動かした。
胸の中で、セレスがゆっくりと揺れる。
『空の下を行くのは、よいものだな』
「森の中だと、空は見えない?」
『木々の隙間からしか見えぬ。——こうして広い空の下にいるのは、わらわには珍しいことだ』
「そっか」
『街は人が多くて落ち着かぬが、こういう道は好きだ』
俺は、少し笑った。
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昼過ぎ、街道が山の麓に差し掛かった。エルツの足が、少しだけ緩やかになった。登り坂が始まる。
「エルツ」
『うむ』
「聖地って、どんなところ?」
前から気になっていたことだった。神様からは「高地の聖域」「竜が守っている」と聞いていた。でも、具体的な場所の様子は、まだ知らない。
エルツが、歩きながら答えた。
『高地だ。木が少なく、風が清い』
「どのくらい高い?」
『雲の上、ではない。だが、山の頂よりさらに上にある台地のようなところだ』
「……山の頂より、上」
『なだらかに広がっている。風が吹き抜ける。岩と苔と、短い草くらいしかない』
「木、ないんだ」
『数本ある。だが麓のように、森にはならぬ。根を張る土が薄い』
「空気も薄い?」
『汝にとっては、そうやもしれぬ。だが、我の背にいれば問題はない』
「エルツの背中、便利だなあ」
『我にとっての本来の居場所だ。あの高さの空気が、一番呼吸しやすい』
そう言われて、俺は、少し考えた。
「……エルツ、本当は低いところ呼吸しにくい?」
エルツが、少しの間、黙った。
『……そうとは言わぬ。まぁ、なんだ。慣れた』
「慣れた、だけなんだ」
『慣れるのは、大事なことだ。気にするな』
俺はエルツの首元に、少しだけ手を添えた。銀灰色の毛が、温かかった。
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夕方、街道を外れた林の縁で、野営の場所を決めた。
エルツが倒木の近くで足を止めて、『ここがよかろう』と言った。俺は荷物を下ろした。
「じゃあ、火を起こしてスープでも——」
手が、止まった。
アイテムバッグの中に、見覚えのない包みがいくつも入っていた。
一つ目。干し肉が、小分けにされて、紐で束ねてあった。一食分ずつ。
二つ目。硬いパンが、布に包まれて、乾燥剤と一緒に入っていた。
三つ目。木の実の袋。塩の小袋。塩は一回分ずつ、紙に包んである。
四つ目。小さな紙が、一枚、挟まっていた。
レオンの字だった。
「干し肉は水で戻せ。塩はこの小袋を一つだけ使え。パンは火に近づけすぎるな。調味料の瓶には極力触るな。以上」
俺は紙を持ったまま、しばらく黙った。
レオン。お前、いつの間にこんなの仕込んだんだ。
『どうした、フリッツよ』
「……レオンが、俺の荷物に色々詰め込んでた」
『ほう』
「一食分ずつ分けて、手順まで書いてある」
『……あの男、汝の料理をよほど信用しておらぬな』
「……うん」
セレスが、胸の中で、笑いをこらえるように揺れた。
俺はレオンの紙の通りに、干し肉を水で戻した。塩は小袋一つだけ。パンは火から少し離して温めた。調味料の瓶は、触らなかった。
まともな夕食ができた。
『……悪くないではないか』
「レオンの手順通りだから」
『うむ。あの男に感謝するがよい』
「……不本意だけど、帰ったら言う」
ダンダンが、肩から飛び降りて、地面の上でぽすんと転がった。
『ダンダン、みはり、する! ぱちぱち、する!』
「ダンダンは寝る時間じゃない?」
『ねない! みはり、する!』
アスタが、ダンダンの周りで、ふわっと光った。
『……アスタも、みはると言っておる』
セレスが、訳してくれた。
「じゃあ、お願い」
俺は少しだけ、寂しくなった。
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夜。
焚き火が、ぱちぱちと、小さく鳴っていた。
エルツは倒木の反対側に、大きな体を横たえていた。金色の目が半分閉じていた。ダンダンは俺の膝の上でもう眠りかけていた。見張りをすると言っていたけれど、三十分ももたなかった。
アスタは、少し離れた場所でふわふわと浮いていた。時々、夜空をじっと見上げていた。
俺は、焚き火の横で、膝を抱えて座っていた。
胸の中で、セレスがゆっくりと揺れた。
『……この匂いは、昔の森に似ている』
「セレスの、森?」
『いや……わらわが生まれるもっと前。森がまだ名前を持っていなかった頃の、匂いだ』
「そんな古いこと、分かるの」
『……分からぬはず、なのだが』
セレスが少し黙った。
『——不思議だ。何かを薄らと覚えている』
「……」
『……もしかして、わらわは……』
セレスの声が、途切れた。それ以上は、言わなかった。
「セレス?」
『……いや。すまぬ。ここの空気が、古いものを引き出すのかもしれぬ。聖地が近いのだろう』
「……うん」
俺は、焚き火を見つめた。
遠くで梟が鳴いた。風が木の葉を揺らした。それ以外は、静かだった。
神様の声が、俺の中に、静かに流れ込んできた。
『……夜遅くにごめんね』
「神様。起きてます」
『進み具合はどう?』
「順調だと思います」
『そっか。じゃあ、明日も気をつけてね』
「はい」
神様の気配が、少し遠くなった。でも、完全には消えなかった。
順調かどうかだけ聞いて、すぐに引いてくれた。気を遣ってくれているのかもしれない。
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焚き火の横で、帳面を開いた。
聖地への旅、一日目:パスハイム西門を出て街道を西へ。
Aランク昇格後のカード表示、新しい項目:対話種族接触記録。セレスティエ(分霊)と宙の精霊も追加された。友魔って表記に変えてもらえるか今度聞いてみる。
レオンの乾物セット。干し肉、硬いパン、木の実。レオンが受付に「こいつに調味料の瓶を渡すな」と言ってたのを覚えている。
……俺はそこまで料理できないわけじゃないはず。たぶん。
セレスが「この匂いは昔の森に似ている」と言った。古い記憶の中にあるらしい。
アスタが星を見ていた。「思い出せそうな気がする」と、セレスを介して。
絵を描いた。星を見上げるアスタの絵。
光を書いたのに綿毛みたいになった。
帳面を閉じた。いつも、光の表現が一番難しい。
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二日目。
朝、少し冷えた。普段、ダンダンは俺の胸の上から顔の上に居るが、今日はエルツの毛に顔を埋めて寝ていた。ダンダンが『あったかい……』と呟いていて、笑ってしまった。
朝食は昨日の残りのパンと干し肉。レオンの紙に書いてある通りに出した。
さらに西へ、そして上へ。エルツの足元で石が砂利になり、砂利が岩になっていった。木々が少しずつ低くなっていった。
昼頃、俺は、気づいた。
「……エルツ、魔物少ないね」
ここまで一匹も、声が聞こえてこなかった。普段なら脇の藪から虫系の声が届く。林の中から鳥系の声が混じる。でも今日は、何も聞こえない。
エルツが、歩きながら、答えた。
『聖地に近づくほど、魔物はあまり寄りつかぬ。畏れているのだ』
「怖いから?」
『いや。神聖な場所には踏み込まぬ、という古い慣わしがある』
「……そうなの?」
『厳密にいえば……そういうものだと皆が、そう思っている。言葉にはせぬ』
「……暗黙の、ってやつ?」
『そうだ』
エルツの足音だけが、岩の上で、こつこつと響いていた。
不思議な静けさだった。寂しいのとは、少し違う。静けさそのものが何か、意味を持っているような感じ。
ダンダンも、さっきからあまり喋らなかった。俺の肩に、じっと掴まっていた。
セレスが、胸の中で囁いた。
『……空気が、変わり始めた』
「聖地、近い?」
『少しずつ、だ』
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午後、高地の入り口に差し掛かった。
街道はもう、とっくに街道と呼べる幅ではなくなっていた。ただ、なだらかな岩の斜面が上に向かって続いている。視界が急に開けた。
振り返ると、パスハイムの街はとうに見えなくなっていた。
こんなに、遠くまで、来た。
エルツが、ひと息ついた。
『フリッツ』
「うん」
『我が若い頃、一度来た場所はもう少し上だ』
「そうなんだ」
『聖地の外縁くらいだ。聖地の中心までは、我も行ったことがない』
「そっか」
『竜に会ったのは、その外縁でだ』
エルツが、金色の目を少しだけ遠くにやった。
『竜はあの時、岩場に横たわっていた。今思えば、休んでいたのやもしれぬ。あるいは外を眺めておったのか』
「話したりした?」
『竜は「汝は、まだ幼いな」と言った。我は生まれて、百年も経っていなかったからな』
「……エルツって、何歳なの?」
『数えておらぬ』
「え」
『そういうことは、数えぬ』
エルツがそう言って、歩き始めた。俺はそれ以上、聞かなかった。何となく聞いても答えてくれないだろうな、と思った。
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夕方、二日目の野営地を決めた。
今度は岩の陰。風が強くなってきたから、風除けのある場所を選んだ。空気は昨日より、少し冷たかった。焚き火の薪も昨日より、たくさん集めた。
星が、近く見えた。
空気が澄んでいるせいか、昨日よりはっきりと空に瞬いていた。
アスタが岩の上で、じっと上を見上げていた。
俺は、隣に座った。
「アスタ」
アスタが、ふわりと明るくなった。
「綺麗だね、星」
アスタの光が、応えるように、揺れた。
胸の中で、セレスが囁いた。
『……そなたが星を見つめる時、もっと思い出せそうな気がするとアスタが言っておる』
「思い出す?」
『うむ。しかし、まだはっきりとは思い出せぬとも』
「……ゆっくりで、いいよ」
アスタの光が、少しだけ揺れた。肯定するような光り方だった。
俺は、アスタの隣でしばらく星を見ていた。
——あの星のどこかから、アスタは、来た。
それは、どんな感じだったんだろう。
遠くの空から光る何かが地上に落ちてきて、ワームの眠る地中に埋もれて長い眠りについて、俺とセレスの声で目を覚ました。
アスタにとって、この世界は、どう見えているんだろう。
セレスの声が、静かに囁いた。
『……今、アスタが何か思い出しかけておる』
「うん?」
『遠くの空の、暗さと明るさの揺れ。それと似ている、と』
「星の瞬き?」
『それ、やもしれぬ。——故郷の、似た景色』
アスタの光が、ゆっくりと、強くなった。
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その夜、眠る前、神様の声が俺の中に流れ込んできた。
『フリッツ』
「はい」
『明日、聖地の入り口に着くよ』
俺は少しだけ、息を呑んだ。
「ドキドキします」
『そうなの?』
「竜は、俺のこと待ってますか」
『うん。君が来るのを、知ってる』
「……どうして、知ってるんですか」
神様が、少し笑った。
『君が夢の中で一度触れたから。あれ以来、向こうも君のことを感じているよ』
「……そう、ですか。俺なんかで、本当に大丈夫なのかなって」
『怖がらなくていい。あの子は、君を迎える気満々だから』
「迎える」
『うん。長い間、一人でいたから。話し相手が来るのが、嬉しいんだと思う』
話し相手。
もともと、俺にできることはそんなに多くない。対話術だけで、ここまで来たくらいなんだから。
「……はい。ちゃんと話、聞きます」
『うん。よろしくね』
神様の気配が、穏やかに、遠ざかっていった。
眠る前、もう一度帳面を開いた。
二日目。高地に入った。木が低くなって、そのうち消えた。岩と苔と短い草。風が清い。空気が澄んでいる。
魔物の声が一切聞こえない。エルツによると、聖地に近づくほど寄りつかなくなるらしい。畏れている、と。
エルツの若い頃の話。竜に会ったことがある。「汝は、まだ幼いな」と言われた、と。エルツが百年も生きていなかった頃。
エルツの年齢を聞いたら「数えておらぬ」と言われた。……なるほど?
アスタが星を見ていた。「思い出せそう」と昨日も今夜も言っていた。故郷の景色に似てるらしい、星の瞬き。
神様が、明日聖地の入り口に着くと教えてくれた。竜が待っているらしい。
話し相手が来るのが、嬉しいらしい。
絵を描いた。星を見るアスタと、その向こうの稜線。
帳面を閉じた。今日も光は描けない。稜線はわりとそれらしくなった。
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翌朝。
俺が目を覚ました時、エルツはもう起きていた。金色の目が、俺を見ている。
『……フリッツ』
「うん」
『見るが、よい』
エルツが鼻先で、ある方向を指した。
俺は目を擦って、体を起こした。
その方向に、光景が広がっていた。
朝の光が高地を照らしていた。岩と苔と短い草の、なだらかな斜面。そして、その先に——
広い、広い台地があった。雲を突き抜けていた。
いや。雲よりも、上にあった。
朝霧が台地の縁をゆっくりと流れていた。台地そのものは、静かで遠く、澄んでいた。風がそこからこちらに吹き下りてきていた。
俺はしばらく、言葉が出なかった。
肩でダンダンが、小さく呟いた。
『……しずか』
アスタの光が、わずかに揺れた。
セレスが胸の中で、息を呑むように静かになった。
そして、エルツが俺の隣で、ゆっくりと言った。
『——聖地だ』
俺は、頷いた。頷くことしか、できなかった。
風が吹く。
その風はどこかで呼吸している誰かの、息のように感じられた。




