第四十一話 聖地のこと
翌朝、俺はなかなか目が覚めなかった。
ずっと長い、深い夢を見ていた。
はっきりした映像じゃなかった。——広い、静かな場所。空が高い。風の音はなくて、ただ、静けさの重みのようなものがあった。
その真ん中に、何かが横たわっていた。
大きい。——それだけは分かった。
顔も形もはっきりしない。でも、呼吸のようなものがゆっくり、ゆっくり聞こえていた。長い、長い時間をかけた呼吸。
何か、低い声のようなものが聞こえた気がした。
言葉じゃなかった。言葉になる手前の、かすかな気配。——ああ、誰かがいる。そう言っているような気配。
俺はその気配に、手を伸ばそうとした。
でも、届かなかった。
そのうちに、夢がゆっくりと薄れていった。
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目が覚めた時、日はもう高く昇っていた。窓から差す光が、部屋の真ん中まで届いていた。
——寝坊した。
そう思ったけれど、体を起こすのに少しだけ時間がかかった。
夢の感覚が胸の奥にまだ残っていた。あの静けさの重み。遠くの呼吸。——はっきり覚えていないのに、何かが確かに触れてきた感じがあった。
肩の上でアスタが、いつもより少しだけ強く光っていた。
「おはよう、アスタ」
アスタが、ふわりと答えるように明るくなった。
胸の中で、セレスの分霊がゆっくりと揺れた。
『……そなた、夜の間、遠くと繋がっておったな』
「夢、見てました」
『うむ。——ただの夢ではなさそうだ』
セレスの声は静かだった。
『何か、古いものが、そなたに触れた。——わらわには、そこまでしか分からぬ』
「……」
『アスタも同じ道を感じておったようだ』
俺は窓辺のアスタを見た。
アスタの光はいつもより、何となく少しだけ真剣な色をしていた。何か思い出せそうで思い出せないものを見ている、そんな光り方。
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昼前に、ようやくベッドから出た。
遅い朝食を、宿の食堂で食べた。レオンも目の下に、軽い疲れが残っていた。
「三日分、一気に来たな」
「うん」
「疲れてたみたい」
「うん」
それだけ言って、二人で黙ってスープを飲んだ。
干し肉も、パンも、ちゃんと美味しかった。——料理は下手でも、人の作ってくれた料理はわかる。そういうことは、わかる。
食後、レオンは「武具屋に行ってくる」と言って出かけていった。
三日間ずっとギルドに詰めていたから、いい加減、外の空気を吸いたくなったらしい。
俺は宿に戻って、中庭のエルツに会いに行った。
エルツはいつも通り、大きな木の下で横になっていた。俺が近づくと、金色の目がゆっくりと開いた。
『今日は落ち着いておるな』
「落ち着いた。——でも少し、変な夢見て」
エルツの耳が、ぴくりと動いた。
『……夢』
「うん。広い、静かな場所。何か大きなものが横たわっていて——遠くで呼吸してる感じ」
エルツが、ゆっくりと体を起こした。
金色の目がいつもより、深くなっていた。
『……フリッツ』
「うん」
『それは——聖地、やもしれぬ』
「聖地?」
俺は少し、きょとんとした。——初めて聞く言葉だった。
『我の本来の居場所の、さらに奥にある。神の眷属たちの聖なる場所。——我が生まれるより、ずっと前からある場所』
「そんな場所が」
『ある。——そしてそこに一体の竜がおる』
エルツの声が、少し遠いところを見ていた。
『若い頃に一度、会ったことがある』
「竜って?」
『長く、長く生きてきた古い竜だ』
エルツがそこで言葉を切った。金色の目が、ゆっくりと俺を見た。
『……その竜が、そなたに触れたのかもしれぬ』
「え?」
『我には理由は分からぬ。——その夢の感覚は、あの場所の気配だ』
俺は少し黙った。
——誰かが俺に、触れてきた。
昨日、神様が「話したいことがある」と言っていた。その話と夢が、繋がっているのかもしれない。
『我が神に聞くがよい』
「うん」
『夜になったら聞こう。——我も近くにおる』
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夕方、レオンが宿に戻ってきた。剣の手入れ用の油と、新しい革紐と、いくつか細々した物を買ってきていた。
夕食を食べて、風呂に入って、それぞれの部屋に戻った。
部屋に戻った俺は、窓辺のアスタを見た。
アスタは今夜も、淡く光っていた。ダンダンは早めに眠くなったらしく、もう丸くなっていた。
俺はベッドの縁に座って、目を閉じた。
「神様、いますか」
しばらく間があって、神様の声が返ってきた。
『いるよ。——ちゃんと休めた?』
「はい。——でも変な夢、見ました」
少しの沈黙があった。
『……やっぱり、見たんだね』
「知ってたんですか」
『うん。——見るかもしれないとは、思ってた』
神様の声が、少しだけ静かになった。
『君がアスタを連れてきたことで、新しい道ができたでしょう。——私の力の外側に、一本通った道』
「はい」
『あの道を通じて、古いものが君に触れたんだと思う』
「触れた」
『うん。——あの子は長い間、誰とも話せていないから。——君の存在を感じたのかもしれない』
俺は少し黙った。
夢の中の、遠い呼吸。低い、声のようなもの。——あれが、誰かの気配だった。
『それでね、フリッツ』
神様の声が、少しだけ温度を変えた。いつもの前のめりな調子から、静かなものに。
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『——フリッツ。あのね』
神様の声に、少しだけ重みがあった。
「はい」
『神代の時間が、もう、終わろうとしてる』
「神代の時間って?」
『うん。——私たち天の眷属が、一番強く関わってきた時代。その終わりかけ』
少しの沈黙があった。
『エルツの本来の居場所の、さらに奥に、聖地がある。高地の聖域。——そこを、一体の竜が守ってきた』
「エルツが言ってました。竜がいるって」
『そう、その子だよ。長く、長く生きてきた古い竜。私たち天の眷属の中でも最も古い部類に入る存在』
神様の声が、静かに続いた。
『その子が、寿命を迎えようとしている』
「……」
『竜が終われば、聖地の守りも終わる。——聖地は地脈の源のひとつだから、その波紋はずっと遠くまで届く』
「……地脈」
今まで乱れていたとして解決してきたことが、頭の中を巡った。
『そう。——水源の結晶の件も、妖精が追い詰められた件も、西の渓谷の地響きも。根っこは全部、そこ』
俺は少し黙った。
水源の宝玉。妖精の分霊。西の渓谷のワームとアスタ。——確かに全部、地脈の乱れが関わっていた。
『エルツの接続が七割で止まってるのも、同じ理由。聖地が細っているから、聖地を通した繋がりが細い』
「そうだったんですか」
『うん。——ずっと、根っこの話をできずにいた。でも今日なら、話せる』
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「竜は、助かるんですか」
また、少しの沈黙があった。
『……私はもう、助からないと思ってる』
神様の声が、珍しく弱かった。
『長い時間、私も見てきた。——あの子がゆっくりと命を手放していくのを』
「……」
『眷属として、私もあの子の終わりを受け入れるつもりでいた。——神代の時間が、ここで一区切りを迎えるのだと。だから聖地は解決することではなくて、ゆっくりと閉じていくものとして扱うつもりでいた
』
「……」
『でもねフリッツ』
神様の声に、少しだけ顔を上げた。
『君が来てから、私、少し考えが変わった』
「俺が、ですか」
『うん。——君は、私が思ってもみなかった場所で、思ってもみなかった答えを見つけてくる』
神様の声が、静かに続いた。
『水源の宝玉。——私は二種族の対立は長く続くと思ってた。でも君は、声の色の違いに気づいて、鍵となる種族の本音を引き出した』
「……」
『悪質なテイマーの件。——私は魔物の意志を上書きされた以上、もう戻れないと思ってた。でも君は首の輪を外して、三体に選択を返した』
「……」
『セレスティエについても。——私は妖精と人間が、ここまで近く繋がれるとは思ってなかった』
「……」
『アスタ。——私は宙の存在が、この土地に来ることがあるなんて、想像もしていなかった』
神様の声が、少しだけ震えていた。
『君は私の知らない答えを持ってくる。——私が諦めていた場所に、別の道を見つける』
「……」
『だから思ったの。君なら、もしかしたら』
神様の言葉が、そこで一度止まった。
『——あの子のところに、何か届けられるかもしれない』
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神様の声が、静かに続いた。
『救ってほしいとは、言わない。——竜の寿命は、私にもどうにもできない』
「はい」
『ただ、会いに行ってほしい。話を聞いてほしい。——さっきも言ったけど、あの子はもう長い間、誰とも話してない』
「……」
『長く、長く、聖地を守ってきた。近くにいる魔物たちとは、種族が違いすぎて言葉が届かない。エルツのような眷属も、接続が切れてからは遠くなった。私の声も、あの子にはもう、届きにくい』
「……」
『——だから、君に行ってほしいんだ』
話を聞いてあげてほしい。
それは俺にとって、一番馴染みのある言葉だった。
「話を聞くだけでいいんですか」
『うん。それでいい。——あの子、話したいこと、たくさんあると思う。長い時間の中で見てきたこと、守ってきたもの、出会った存在たち』
「……」
『誰かに聞いてもらうだけで、救われるものがある』
救われるもの。
ムックを思い出した。切り株の隣に座って、ただ話を聞いていた日々。ムックはそれで落ち着いた。エルツも、抱きしめて声を聞いたら落ち着いた。話すことには、話すことだけで届く何かがある。
『それに——もしかしたら君なら、私の見えなかった何かを見つけられるかもしれない』
神様の声が、静かに、祈るように言った。
『期待してる。——ごめんね、重くて』
「重くないです。……行きます」
迷いはなかった。
話を聞くことなら、俺にできる。俺が一番得意なことだ。そして聖地はエルツの本来の居場所の近くだ。エルツを連れていける場所なら、行かない理由がなかった。
『ありがとう』
神様の声が、少しだけ温かくなった。
『それに——竜なら、アスタちゃんのことも知ってるかもしれない』
「アスタのことも?」
『竜は私よりも古い存在だ。宙を見上げて、何かと言葉を交わしていた時代があった、と私は聞いてる』
「……」
『もしあの子の正体を知りたいなら、竜に会うのが一番の近道だよ』
——聖地の竜に会えば、アスタの正体も分かるかもしれない。
二つの目的が、一本の道に重なった。
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俺は少し考えた。
「神様」
『うん』
「——レオンも呼んでいいですか」
少しの間。
『……うん、いいよ。呼んできて』
「はい」
『次の行き先の話、伝えておきたいよね』
「はい。——あと神様からも、何か話してあげてもらえると嬉しいです」
神様の声が、少しだけ笑ったように揺れた。
『分かった。呼んできて』
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俺は部屋を出た。隣の部屋の扉を、そっと叩いた。
「レオン、起きてる?」
「——おう、起きてる」
扉の向こうから、声が返ってきた。少しして扉が開いた。レオンが、半分寝ぼけ気味の、寝巻きのまま顔を出した。
「どうした」
「神様が、話があるって。——次の行き先の話」
「次の」
「うん。レオンにも伝えておきたくて」
レオンが少し黙って、それからふっと笑った。
「また面倒な話か」
「たぶん」
「行く」
レオンは寝巻きのままついてきた。俺の部屋に入って、椅子に座った。ダンダンが寝息を立てている枕元を、少しだけ気にしながら静かに。
「神様、レオンも来ました」
俺は目を閉じて、中継をレオンに繋いだ。昨夜と同じ感覚。神様の声が、俺の中を通ってレオンにも届くように。
『こんばんは、レオンくん』
「どうも」
レオンが小さく頭を下げた。
『遅くにごめんね。フリッツの、次の行き先の話なんだけど』
「聞きます」
神様がもう一度、聖地の話をした。竜のこと、その寿命がもうすぐ尽きようとしていること。地脈の乱れの根っこがそこにあること。神代の時間が、一区切りを迎えようとしていること。——俺は一度聞いた話を、横で聞き直していた。
レオンは黙って聞いていた。腕を組んだまま、時々頷きながら。
神様が一通り話し終えた。
「なるほど」
レオンが一度、息を吐いた。
「——時代の終わりの話」
『……そう、とも言える』
「一つの大きなものが、終わろうとしてる」
『うん』
レオンが腕を組んだまま、しばらく考えていた。
「水源の結晶も、西の渓谷のワームも、全部その終わりの余波ってことか」
『うん』
「フリッツがここまで出会ってきた地脈絡みの問題は、全部、根っこが一つだった」
『そう』
「一本、繋がったな」
レオンが少し、遠い目をした。
『フリッツに、その竜のところに行ってもらいたい』
「話を聞きに」
『うん。——長く一人で守ってきた竜が、今、誰とも話せない状態にある。あの子の話を、聞いてあげてほしい』
レオンが、ふんと鼻を鳴らした。
「こいつの一番得意なやつだな」
「レオン」
『そう。フリッツに一番、合ってる仕事だと思う。それに——私が見えなかった答えを、この子が持ってくるかもしれない』
「見えなかった答え」
『うん。——私はもう、あの子の終わりを受け入れるつもりでいた。でもフリッツが来てから、少し考えが変わった』
レオンが、ちらりと俺を見た。
それから、小さく頷いた。
「分かる気がする」
『そう?』
「こいつ、なんか思ってもみないとこに道を作ることが、あるから」
『やっぱりあなたも、そう思う?』
「たまに、そういう顔してる」
レオンが俺の方を見ないで、言った。
「放っておくと、一人でどこかに道を作りに行く顔」
俺は少し黙った。
神様が俺の中で、静かに笑った。
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レオンが少しの間、黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「——聖地って、どういう場所なんだ?」
『神の眷属たちの聖なる場所。人間が普通、立ち入る場所じゃない』
「普通じゃない場合は」
『……例外的にはあり得る。でも基本的には、眷属の話だ』
「なるほど」
レオンが一度、頷いた。
「——眷属の話に、俺が混ざっても、できることねえな」
『……そうだね』
「分かった。——俺は、ついて行かない」
レオンが、あっさり言った。
俺は少しだけ、下を向いた。
——分かっていた。分かっていたけど、言葉にされると少しだけ、胸の奥が寂しくなった。
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「——レオンは、エルストに戻るの?」
俺が聞いた。
レオンが、腕を組んだまま少し考えた。
「いやパスハイムに、残る」
「え?」
「エルストまで戻って、また戻ってくるの、時間の無駄だろ」
「……でも」
「ここで自分の仕事してみる」
レオンが、少し笑った。
「お前のおかげで、ギルドには顔が売れてる。——Cランク以上の仕事をここでも受けられる。違う土地で仕事してみるのも、悪くない」
「……うん」
「エルストに戻ったら、また、いつもの仕事を受けるだけだ。——たまには、違うとこで自分を試してみる」
俺は、少しきょとんとした。
——レオンが自分から、そういう選択をするのを、初めて聞いた気がした。
レオンが、俺の顔を見て、軽く鼻を鳴らした。
「何だ、その顔は」
「いや。——かっこいいな、と思って」
「……お前、真顔で言うな」
レオンが、少しだけ耳を赤くした。
『いいんじゃない、それ』
神様が横から、明るい声を挟んだ。
『レオンくん、パスハイムで自分のクエスト受けて、経験積んで。——フリッツが戻ってきたら合流。それでいいと思う』
「そうします」
『うん。——私も時々、見てるね』
「見ないでください」
『見るよー。ダンダンちゃん、可愛いし』
「ダンダンを見ててください、俺は放っておいて」
『えー、レオンくんも、ダンダンちゃんと同じくらい可愛いし』
レオンの手が、止まった。
「……は?」
『だってレオンくん、照れ方が素直だし、フリッツのことちゃんと怒ってくれるし。——可愛い子だよ』
「……あの、神様」
『はい』
「その、評価の仕方、やめてもらえます?」
『なんで?』
「……なんか、こう、嫌です」
レオンが、すごく微妙な顔をしていた。口元は笑いかけているのに、眉が寄っている。——何か、言葉にしにくい不快感を、必死に呑み込んでいる顔。
俺は、思わず吹き出した。
「レオン、嫌そう」
「嫌だよ。——ダンダンと、並べんな」
『なんで? ダンダンちゃん、可愛いよ?』
「可愛いのは分かってます。でもあいつは毛玉で、俺は人間で、十九歳の剣士なんですよ」
『可愛さに、年齢と種族、関係ある?』
「ある」
『ないよー』
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——その時。
枕元で、ダンダンが寝ぼけ眼を開けた。騒がしい気配に、目が覚めてしまったらしい。
『ん……かみさま?』
『あ、ダンダンちゃん、ごめんね。起こしちゃった?』
『だいじょうぶ……かみさま、なに、はなしてた?』
『レオンくんも、ダンダンちゃんと同じくらい可愛いね、って話』
ダンダンが、ぱちり、と目を見開いた。
それから、むくりと起き上がって、俺の枕元からぴょこりと顔を出した。触毛を立てて、レオンを、まじまじと見た。
『……ダンダンと、レオン、おんなじ?』
「おんなじじゃねえ」
『ふわふわ?』
「ふわふわじゃねえ」
『ぱちぱち、できる?』
「できねえよ」
ダンダンが、首を傾けた。
『……なら、ダンダンのほう、かわいい、と、おもう』
「お前、それ、言う?」
レオンが、ダンダンを見下ろした。ダンダンが、自信満々に触毛を揺らした。
『ダンダン、ぱちぱち、できる。ふわふわ。ちいさい。おもくない』
「……反論の余地がねえ」
神様が、俺の中で、ぷっと吹き出した。
『あははは、ダンダンちゃん、自己評価しっかりしてる!』
『ダンダン、かみさま、の、おかげ!』
『そうだね、私がダンダンちゃんの可愛さに一番気づいてるからね』
「……フリッツ、この会話、早く終わらせてくれ」
レオンが、俺に助けを求める目を向けた。
「俺?」
「中継してるの、お前だろ。——切れ」
「でも、神様とダンダン、楽しそうだよ」
「俺は楽しくない」
『レオンくん、ごめんねー。——でも、ほんとに、可愛いよ』
「それは、もう、いいんで」
レオンが、顔を覆った。耳が赤かった。
神様が、ひとしきり笑ってから、少し落ち着いた声で言った。
『レオンくん』
「はい」
『ありがとう。——ここまでフリッツにつきあってくれて』
「別に、礼を言われる筋合いねえですけど」
『礼くらい言わせて。君がいなかったら、フリッツ、ここまで来られてないから』
レオンが腕を組んだまま、ランプの光を見つめていた。
「どうも」
短く、そう答えた。
——照れている時の、レオンの返し方だった。
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神様が、少し温度を変えた。
『フリッツ』
「はい」
『聖地まではエルツに乗って、数日。——道中、アスタと妖精の分霊、両方連れて行って』
「はい」
『聖地の入り口まで行ってみて』
「わかりました」
『明日、出発できる?』
俺は少し考えた。
「明日の朝、出ます」
『うん。——気をつけて』
神様の気配が、少し遠くなった。でも、完全には消えなかった。
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「フリッツ」
レオンが俺を見て、言った。
「俺は明日の朝、お前を見送る。——門のところまで」
「うん」
「お前が出発したら、俺はギルドに行って、何か仕事を受ける」
「うん」
「戻ってきたら、パスハイムで合流しよう」
「うん」
俺は少しだけ黙った。
「レオン」
「何だ」
「ここまで、ありがとう」
レオンが少しだけ、顔を横に向けた。
「——やめろ。そういうの、今言うな」
「でも、言っておきたくて」
「朝にしろ」
「朝でも、言うよ」
「好きにしろ」
レオンが立ち上がった。椅子から軽く伸びをした。
「もう寝る。明日早い」
「うん」
レオンが扉に向かった。扉の手前で、一度足を止めた。
「——フリッツ」
「うん」
「ちゃんと、帰ってこい」
マスターと、同じことを言った。
「うん」
俺は頷いた。
レオンが扉を開けて、出ていった。自分の部屋に戻る足音が、廊下に響いた。
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部屋に、俺だけが残った。
ダンダンが枕元で、小さな寝息を立てていた。アスタが窓辺で、柔らかく光っていた。
俺は窓際に行って、アスタの隣に立った。
「アスタ」
アスタがふわりと明るくなった。
「明日、出発するよ。——聖地ってところに」
アスタの光が、少しだけ揺れた。興味を持ったような、でもよく分かっていないような、そんな揺れ方。
セレスの分霊の声が、俺の内側で静かに呟いた。
『聖地といったな』
「うん」
『わらわの生まれた森より、ずっと古い場所だ。——森の長老たちが、畏れて口にせぬ場所』
「そんなに古いの」
『古い。——そして、静かだ』
分霊が胸の中で、ゆっくりと揺れた。
『わらわも、そなたについていこう。——橋をかける』
「うん」
窓の外に、星が見えた。たくさんの星。
アスタが窓の向こうの星を、見上げていた。
——あの星のどこかに、アスタの故郷があるのかもしれない。
——明日、聖地に向かう。
竜に会う。話を聞く。
俺にできること。俺が一番得意なこと。
「行こうね、アスタ」
アスタがもう一度、ふわりと明るくなった。
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眠る前に、帳面を開いた。
朝見た夢。広い静かな場所。何かが横たわっていた。呼吸している。長い、長い呼吸。
聖地。高地にある場所らしい。まだ行ったことない。エルツによると木が少なくて風が清い。魔物が寄りつかない、らしい。
神様が言うに、聖地に呼ばれているらしい。
——あの子、と神様は言う。待っている、と。
アスタの正体の答えも、そこにあるかもしれない。
神代の時間が終わろうとしている、と神様が言った。意味はまだよく分からない。
レオンはパスハイムで自分のクエストを受けることになった。離れて旅をする。
絵を描いた。夢で見た、何かが横たわっている絵。
——下手だった。輪郭がぼんやりしている。
——でも、夢そのままの輪郭かもしれない。
帳面を閉じた。




