第三十九話 宙から、降りたもの
空洞の中へ、慎重に足を踏み入れた。
天井は高い。光の石の光が届かないほど遠い。壁は湿った岩肌で、地脈の光が薄く脈打っている。足音が反響した。俺とレオンとダンダンの呼吸だけが、静かに響いた。
そして——中央に、光があった。
拳くらいの大きさ。青白い。柔らかい光。呼吸するように、ゆっくりと明滅している。地面から一メートルほどの高さに、ふわりと浮いていた。
近づくと、光の周りに細かな粒が散っているのが見えた。光の塊から小さな光が、星の屑のように零れ落ちている。でもすぐに消えて、また新しい粒が生まれる。
「……なんだ、これは」
レオンが呟いた。剣の柄から、そっと手を離した。戦う相手じゃない、と本能的に判断したらしい。
ダンダンが肩の上で、触毛を立てた。
『フリッツ……これ、きれい。でも、ちかのながれ、じゃない。ちがう、ながれ』
「違う流れ?」
『うん。ちか、の、ながれ、は、した、からくる。これは、うえから、きたもの』
上から来たもの。
——燃える星。
俺は光の前で、足を止めた。光が揺れた。俺に気づいたように、一瞬だけ明るくなった。
「……聞こえますか」
呼びかけた。祝福で広がった対話術の道を、光に向けて伸ばした。
返事は——返事と呼べるものは、来なかった。
代わりに、俺の頭の中に、何かが流れ込んできた。
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赤い空。
燃えるような、広い、広すぎる空。それが自分の周りを包んでいる感覚。熱い。でも痛くない。ただ、速い。凄まじい速度で、何かが自分を通り抜けていく。
「——っ」
俺は膝をついた。
「フリッツ!」
レオンが俺の肩に手を置いた。でも、映像は止まらなかった。
遠い音。——歌、のようなもの。
でも、俺の知っている歌じゃない。音の高さも、リズムも、違う。星と星が共鳴するような、広い広い響き。
それから、一番早い風。体を突き抜ける風の感覚。
——これは、この光が見てきたものだ。
光が、俺に何かを伝えようとしている。言葉じゃない。映像と感覚と記憶の断片。俺の対話術は、確かに光に届いている。でも、訳せない。
「……フリッツ、大丈夫か」
「大丈夫。でも——言葉じゃないんだ。届いてるんだけど」
光がまた、明滅した。
俺の頭の中に、かすかな問いの気配が流れ込んできた。誰か。なぜ、ここに来た。——でも、それは言葉じゃなかった。言葉の輪郭のない、ただの気配。俺は自分の名前を伝えようとしたが、伝わっている手ごたえがまるでなかった。
「——伝わってない」
俺がそう口にした時、光が一瞬、困ったように明滅した。相手も、あまり通じていないことに気づいたらしい。
対話が、成立しない。
これまで、どんな相手にも何かしら通じていた対話術が、初めて根本的に言葉にならない壁に当たった。
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その時——。
胸の奥で、何かが、静かに動いた。
——セレスの分霊。
ずっと俺の中にいて、穏やかに存在していた小さな存在。それが、今、ゆっくりと目を覚ました。
俺の内側で、妖精の声が響いた。本体の妖精ではない。分霊の細くて、でも確かな声。
『……そなた、この声、わかるのか』
「——セレス?」
思わず声に出した。レオンが「え?」という顔をしたけれど、今はそれどころじゃなかった。
『懐かしい響きだ。わらわの生まれるよりもずっと前、わらわの母のそのまた母が、空を見上げて歌ったという。——その歌の、つづきに、似ている』
分霊が、俺の胸の中で、ゆっくりと揺れた。葉の光が、体の内側から外へ、静かに広がっていく感覚があった。
『少しだけ訳してやれる。わらわは、橋をかけよう』
分霊が、俺と光の間に、細い道をかけるように揺れた。
『……大きな感覚は、そなたたちで直接やり取りできよう。わらわは、細かな言葉の方を橋渡しする』
分霊が静かに告げた。イメージやニュアンスは、俺と光が直接交わせる。でも、具体的な言葉や細部の意味は、分霊が訳してくれる。そういう役割分担らしい。
そして——光の送ってくる気配が、俺の中で、意味のある形に結び始めた。
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光が、ゆっくりと明滅した。
分霊が、それを言葉にして俺に届けた。
『……この者は、問うておる。——お前は誰か、と』
「フリッツといいます」
俺は、光に向かって答えた。「フリッツ」という音の響きは、分霊が形を整えて光に届けてくれた。同時に、俺が持っているこの名前への親しみの感覚は、俺から光へ直接伝わっていくのが分かった。
光が、今度は別の明滅の仕方をした。セレスが、また訳した。
『……驚いておる。言葉が届いた、と。——長く、誰も届かなかった、と』
光が、少しだけ俺の方に近づいた。分霊を通じて、光の「感じていること」が、少しずつ俺の中に形になっていく。
落ちた、という感覚。
燃えながら、落ちた、という記憶。
時間——正確な数字ではないけれど、浅い眠りの感覚。
「半年前にきた、燃える星、ですか」
俺が言葉にすると、光が大きく明滅した。分霊が伝えてきた。
『……肯定。その通りだ、と。宙を飛び回る精霊だそうだ』
分霊が続けた。
『この者は、空を旅していた。ずっと、ずっと、長く。——なぜ落ちたのかは、覚えていない。力が尽きたのか、道を失ったのか。——思い出せぬ、と』
光から伝わってくる感覚は、怒りでも苦しみでもなかった。ただ、自分が誰でどこから来てどこへ向かっていたかを、思い出せない。静かな困惑。
光がもう一度、明滅した。
『……眠っていた。この土の、深いところで。——そして、今、目覚めかけている』
「地響きは、あなたが目覚めかけている音ですか」
光が、申し訳なさそうに、小さく明滅した。分霊が伝える。
『……呼吸が、土を揺らしている、らしい。周りに迷惑をかけている、と。——詫びておる』
ワームたちが困っていたのも、ゴブリンたちが困っていたのも、全部この光の目覚めの鼓動のせいだった。——でも、光自身に悪意はない。むしろ、気づいて申し訳ないと感じている。
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光が、少しだけ俺の方に近づいた。
セレスの分霊を通じて、別の感覚が流れ込んできた。ありがたい、という気配。聞こえてくれる者に初めて会えた、という静かな喜び。
『……嬉しい、と言っておる』
分霊が、小さく笑ったような揺れ方をした。
『聞こえる者がいなかった。眠って目覚めて、呼吸だけしていた時間は長かった、と』
長かった。——半年でも、長かった。宙でどんな風に過ごしていたかはわからないけど、地中で一人きりで眠り続けた半年は、長く感じたかもしれない。
「……あなたは、これからどうしたいですか?」
光は、しばらく考えているように、静かに明滅した。それから、ゆっくりと答えを送ってきた。
分霊が、訳した。
『……わからぬ、と。——だが、ここに眠り続けるのは嫌だ、と』
「上に、戻りたいですか」
光が、ふわりと上を見上げるように浮いた。——空に戻りたい。でも、力が足りない。旅をする力がない。そういう感覚が、分霊を通じて伝わってきた。
「時間をかければ、戻れる?」
光が、曖昧に明滅した。わからない。思い出すきっかけが、いれば——そんな気配。
俺は、少し考えた。
「——俺の旅に、一緒に来ませんか」
気づいたら、そう口にしていた。光が、ぴたりと動きを止めた。
「俺は、色んなところに行きます。色んな人や魔物に会います。——もしかしたら、あなたが誰か、思い出す手がかりが見つかるかもしれない」
細かな言葉は分霊が届けてくれた。でも、一緒に旅をしたいという気持ちは、俺から光へ直接大きな感覚として伝わっていた。
光が、ゆっくりと明滅した。一度。二度。三度。
そして、温かい感覚が、俺の中に流れ込んできた。分霊が、静かに訳した。
『……お前の声は、温かい、と。——宙で知っていた何かの声に、似ている、と』
「よかった。……連れていっても、いいですか」
光が、ふわりと浮かび上がった。俺の顔の高さまで来て、それから、俺の周りを一周した。
——肯定の感覚が、溢れるように伝わってきた。
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その瞬間、地中の深い場所で、何かが静まった。
ダンダンが触毛を立てた。
『フリッツ……ぐるぐる、とまった。ちか、の、ながれ、すこしおちついた』
光の目覚めの鼓動が止まった。本体が「待つ」姿勢に入ったらしい。地響きは、収まった。
「ありがとう」
俺は光に向かって言った。光がまた、ふわりと明るくなった。
「じゃあ——名前、つけていいですか?」
光が、興味深そうに揺れた。分霊が訳した。
『……名前を、忘れていた、と。——自分には今、名がない、と気づいたそうだ』
光の気配には、少しの寂しさと、少しの期待が混じっていた。
俺は、しばらく考えた。光。星。流れ星のような尾。空から降りてきた存在。——短くて、柔らかくて、でも軽くない響き。
「——アスタ。という名前はどうですか」
「アスタ」という音の響きは、分霊が光に届けてくれた。そして、俺がこの名前に込めた気持ち——空から降りてきた存在への小さな愛着のようなもの——は、俺から光へ直接伝わっていった。
光が、ゆっくりと明滅した。それから、大きく、嬉しそうに光った。
分霊が、そっと訳した。
『……気に入った、と』
光が、俺の周りをくるりと一周した。流れ星のように、小さく尾を引いた。
「じゃあ、アスタ。一緒に行こう」
アスタが、俺の肩の上で、ふわふわと浮かんだ。光の粒が、俺の周りに静かに舞った。
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レオンが、ずっと黙っていた。
俺が振り返ると、レオンは口を半開きにしたまま、俺とアスタを見ていた。
「……お前、また、連れて帰るのか」
「うん」
「……今回のは、何だ」
「宙の精霊なんだって。半年前に落ちてきた、燃える星の正体だよ。レオンが共有してくれた」
「……そらの、せいれい」
レオンが、繰り返した。言葉が自分の中で整理できていない顔。
「——まあ、いい。俺、もう驚かないって決めた」
レオンが、やっと笑った。諦めたような、でもどこか楽しそうな笑い。
「行くか。戻ろう」
「うん」
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空洞を出て、洞窟を戻った。
来た時と同じ道を辿った。光る苔の甲虫の群れに「通ります〜」と挨拶した。甲虫たちが『おかえりー』と返してくれた。蝙蝠たちは起きていて、俺の肩のアスタを見て『なにそれ、ひかってる』と呟いた。
ゴブリンの一族の前を通り過ぎる時、年長のゴブリンが近づいてきた。
『……げんいん、わかったのか』
「はい。空から落ちてきた存在でした。今、一緒に来てもらっています。——もう地響きは止まります」
ゴブリンが、目を見開いて、俺の肩のアスタを見た。
『……そらの、もの、か』
「らしいです」
『……それは、われらのしらぬものだ』
ゴブリンの長が、深く頭を下げた。
『ありがたい。飯が取りやすくなる。——気をつけて、かえれ』
「ありがとうございます」
俺も頭を下げた。ゴブリンたちが道を開けた。
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ワームの待っていた場所まで戻った。
ワームは、俺たちが近づく前に、地面を通じて気配を感じ取ったらしい。体の一部を地面から出して、触毛を震わせていた。
『……もどってきたか』
「戻ってきました。——原因、分かりました」
俺はアスタを手のひらに乗せて、ワームに見せた。ワームが触毛を俺の方に向けた。
『……あおい、ひかり、か。——めざめ、の、ぬし』
「はい。半年前に、空から落ちてきた存在でした。一緒に上に来てもらいます。地響きは、もう止まっているはずです」
ワームの触毛が、一斉に震えた。驚きと、安堵と、感謝が混ざった震え方。
『……おまえは、われらのねどこを、とりもどしてくれた。——おまえに、われらはこういをもつ』
「俺も、あなたに助けてもらいました。ありがとうございました」
『……また、くるか』
「いつか、また。——あなた方に何かあった時は、パスハイムのギルドに伝えてもらえれば、俺が戻ってきます」
ワームが、触毛を一度だけ揺らした。たぶん、了承の動き。
『おぼえておこう。——つれて、かえろう』
ワームが、体を地面に寝かせた。俺とレオンとダンダンが背中に乗った。アスタは、俺の肩の上で、柔らかく光っていた。
地上へ戻る道が、始まった。
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渓谷の入口までの道は、下りより速く感じた。
ワームが地中を滑るように進んだ。地脈の乱れが落ち着いたせいか、ワーム自身の動きも滑らかだった。
やがて、渓谷の岩の隙間から、日の光が差し込み始めた。久しぶりの、地上の光。思わず目を細めた。
ワームが、渓谷の入口のすぐ手前で、体を止めた。
『……ここまでだ。われらは、ひかりを、あびぬ』
「はい。——ありがとうございました」
俺たちはワームの背中から降りた。ワームの触毛が、最後にもう一度揺れた。
『……きおくに、とどめる。おまえの、こえを』
「俺も、あなた方のことを、忘れません」
ワームが、ゆっくりと地面に沈んだ。巨大な胴体が、少しずつ岩の裂け目の奥に消えていった。
残されたのは、俺とレオンとダンダン、胸の中のセレスティエ。そして——肩の上のアスタ。
地上の光の中で、アスタの光は、地中で見た時よりも控えめに見えた。でも、確かに、そこにいた。
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渓谷の入口を出た。
日の光が、正面から差した。久しぶりの広い空。遠くに、エルツが横たわっているのが見えた。銀灰色の体が、岩場で日向ぼっこをしているような姿。
「エルツ!ただいま!」
エルツが、俺たちに気づいて、ゆっくりと立ち上がった。金色の目が、俺たちの方を見た。
最初は、安堵の表情だった。
それから——視線が、俺の肩のアスタに、追いついた。
エルツが石みたいに固まって、金色の目が、大きく見開いた。
そして——長年生きてきたエーデルホルンの前脚が、ほんの一瞬、よろけた。
『…………は?』
エルツの声が、上ずっていた。
『……ふ、フリッツよ』
「うん」
『……その、ひかりは……』
「アスタ。宙の精霊、らしい」
『……そら』
エルツが、ゆっくりとその場に、前脚を折りたたんで座り込んだ。銀灰色の巨体が、岩場の上で、へたり込む格好になった。
『……我の時代にも、話はあった。宙の、住人の話は。——だが、伝説だと思っていた』
エルツの声が、いつになく動揺していた。
『まさか……実在して、ましてや汝の肩に乗って、出てくるとは……』
「驚いた?」
『驚いた、では足りぬ』
エルツが、金色の目でアスタをじっと見た。アスタも、エルツをじっと見た。二つの存在の間に、短い気配のやり取りがあった。——同格の存在ではない。でも、お互いに「古い」ことを認識し合った感じ。
レオンが、地面に座り込んだ。
「……俺、もう、驚くのやめた」
「さっきも言ってたね」
「言ってた。でも、エルツがずっこけるの見たら、なおさら思った」
ダンダンが、肩の上で嬉しそうに耳をぱたぱたさせた。
『アスタ! なかま! ひかり、きれい!』
アスタが、ダンダンに近づいて、ふわりと小さく光った。ダンダンが、『ぱちぱち!』と尻尾を振った。
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エルツが、しばらく座り込んだまま、呟いた。
『……我の知らぬことが、あるなど』
「ごめん」
『……いや、驚かされるのは悪くない』
エルツが、ゆっくりと立ち上がった。姿勢を整えて、金色の目で俺を見た。
『——戻るか』
「うん」
『乗れ』
俺はエルツの背中に乗った。レオンも後ろに。ダンダンは肩。アスタは、俺の周りをふわふわと浮かびながら、一緒についてきた。
渓谷を離れて、街道を東へ——パスハイムの方向へ、進み始めた。
夕暮れが深まって、空が紺色に変わり始めた頃——エルツが歩みを緩めた。
『そろそろ、日が落ちる。パスハイムまでは、まだ距離がある。——野営するか』
「うん、そうしよう」
街道から少し外れた、草原の広がる場所を選んだ。岩がいくつか転がっていて、風を遮ってくれる。水場も近くにあった。旅の野営地としては悪くない。
俺は荷物を下ろした。アイテムバッグから焚き火用の木と火打ち石を取り出した。レオンが手早く火を熾した。ダンダンが焚き火の前で、嬉しそうに耳をぱたぱたさせた。
『ひ、あったかい! フリッツ、ごはん!』
「はいはい」
保存食を温めた。干し肉と、硬いパンと、アイテムバッグに入れていた果実。アスタは俺の肩の上で、ふわふわと光っていた。食事はしない存在らしい。でも、焚き火の光を嬉しそうに見ていた。分霊の声が、俺の内側で静かに呟いた。
『……火が好ましいようだ。——あたたかい、と言っておる』
「アスタ、火、好き?」
アスタが、ふわりと明るくなった。肯定。
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食事を終えて、空を見上げた。
星が出ていた。たくさんの星。草原の上に広がる、遮るもののない夜空。
アスタが、俺の肩から離れて、空に向かってふわりと浮き上がった。星を見上げている。何かを思い出そうとしているような、静かな動き。でも、すぐに戻ってきて、俺の隣に浮かんだ。
セレスの声。
『……まだ、思い出せぬ、と。——でも空を見ていると、胸が温かい、と』
「そうか」
エルツが、俺の隣に横たわっていた。銀灰色の体に、焚き火の光が反射していた。金色の目が、ゆっくりと星を見上げていた。
『……久しぶりだな。星の下で、こうして過ごすのは』
「そうなの?」
『接続が弱かった頃、我は、夜を一人で過ごすことが多かった。星を見ても、ただ遠かった。——今は、違う』
エルツの声には、穏やかな温度があった。
ダンダンが、エルツの前脚の窪みに潜り込んで、丸くなった。いつもの定位置。
『ダンダン、ねむい……でも、ほしきれい……』
レオンが焚き火の向こうで、剣の手入れをしていた。旅に出てから、あいつはいつもこの時間に剣を磨く。習慣になっているらしい。
——全員、いる。
エルツ、ダンダン、レオン。そして、アスタ。俺の胸の中には、妖精の分霊。
長い一日が、静かに終わろうとしていた。
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俺は、目を閉じて、神様に呼びかけた。
「——神様。聞こえますか」
しばらく間があって、神様の声が返ってきた。いつもより、少しだけ近い気がした。
『……君、見てたよ』
「見てましたか」
『見てた。——というか、途中から、見えなかった』
「え」
『君の周りに、私の目が届かない領域があった。——あれ、なに?』
神様の声が、珍しく困惑していた。
「アスタ、って名前つけました。宙の精霊らしいです」
『……宙の、精霊』
「半年前の燃える星でした。地中で眠ってたのが、目覚めかけて」
『……君ねえ』
神様が、深い溜め息をついた。
『もう何を連れて帰ってくるか、私が全部把握するのは、無理かもしれない』
「すみません」
『謝らなくていい。——でもね、フリッツ。アスタちゃんは、私の管轄の外にいる。私は、宙の存在とは話したことがない。私の声も、あの子には届かない』
「そうなんですか」
『うん。——まあ、いい。無事に戻ってきたんだから、それで十分』
神様の声が、少しだけ柔らかくなった。
そして——。
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ダンダンが、エルツの前脚の窪みから、ぱちっと目を開けた。小さな頭を持ち上げて、きょろきょろと周りを見回した。
『……フリッツ、だれか、いる? こえ、する』
「え」
俺は、目を開けた。
ダンダンが、俺をじっと見ていた。触毛が、びんと立っていた。
『フリッツの、なかから、こえきこえる! はじめて!』
——ダンダンに、神様の声が、聞こえている?
神様の声が、驚いたように震えた。
『……えええ、ちょっと待って。今、あの子が私の声、聞いたの?』
「聞いたみたいです。ダンダン、今、神様と話してるんだ」
『かみさま!』
ダンダンが、耳をぱたぱたさせた。
『かみさま、はじめまして! ダンダン、です!』
——一瞬、神様の気配が、ぴたりと止まった。
それから。
『…………ッッッッ!!』
声にならない悲鳴のような気配が、俺の中に流れ込んできた。神様が明らかに身悶えしている。
『かわいい! かわいい! はじめましてって! ダンダンが! 直接、私に!』
神様の声が、完全に取り乱していた。
『ちょっと待って、心の準備が、心の準備が!』
「神様、落ち着いて」
『落ち着けないよ! あのねフリッツ、君にはわかんないだろうけど、私ずっとあの子の声を君経由でしか聞けなかったの。直接聞きたかったの! ずっと!』
そういえば、そうだ。神様はいつも「ダンダンの話、もっと聞かせて」と言っていた。あれは、本当に、直接聞きたかったから言っていたらしい。
『ダンダンちゃん! 聞こえる? 私、ダンダンちゃんの神様だよ!』
ダンダンが、エルツの前脚の上で、触毛を真っ直ぐ上に向けた。驚きと、喜びと、興奮が混ざった動き。
『かみさま、ダンダンのかみさまなの?』
『そうだよ! ダンダンちゃんに祝福あげたの、私なんだよ!』
『ぱちぱち、の、かみさま!』
『……え?』
『ダンダン、ぱちぱち、できる! かみさまの、おかげ!』
『……そう……そうだねぇ……ぱちぱちの神様だねぇ……』
神様の声が、完全に蕩けていた。
「神様、どうして急にダンダンの声が聞こえるようになったんですか」
『たぶんねぇ、アスタちゃんと君が繋がった時に、色々と繋がりが広がったんだと思う。アスタちゃんは私の管轄の外だから、私の力の外側に、新しい「道」が開いたみたいな感じ。——その余波で、ダンダンちゃんとも直接繋がった』
「そうなんですね」
『でも、まあ、結果オーライ! ずっとずっと、ダンダンちゃんの声、直接聞きたかったから!』
神様が、まだ興奮していた。
エルツが、前脚の上のダンダンを見下ろして、呆れたように鼻から息を吐いた。
『……騒がしいことだ。我が神も、小さき者も』
エルツが、誰に向けてともなく呟いた。でも、それは俺への言葉じゃなかった。——神様に、直接、届けている声だった。
エルツの角が、ふわりと、淡く光った。
——久しぶりに見る光り方だった。村に来たばかりの頃は、接続が切れかけていて、角はほとんど光らなかった。水源の一件で少し戻り、それからゆっくりと、光は戻ってきていた。でも、今夜の光り方はそれよりも、もっと落ち着いていた。
『……久しいな』
エルツが、神様に向かって、静かに呟いた。
『うん、久しぶり。——今夜、よく届くね』
『アスタのおかげであろう。——道が、広がった』
『そうみたい。私の力の外に、新しい筋が一本通った感じ。エルツとの繋がりも、今はクリアだよ』
『不安定なのは、変わらぬ』
エルツが、少しだけ耳を伏せた。角の光が、一瞬だけ、揺れた。
『今もときどき途切れる。完全には、戻っておらぬ』
『うん、知ってる。——でも、前よりずっと良い』
『それはそうだ』
エルツが、ふっと鼻から息を吐いた。笑ったような息の仕方だった。
それから少しの間があって、ふっと静かな温度で呟いた。
『……我が神よ』
『はい』
『汝の昔の話し方は、もっと重々しかったように思うが』
『……あー。そうだったかもねえ』
神様の声が、少しだけ気まずそうに揺れた。
『昔はねえ、一応、ちゃんとしてたのよ。「○○の地を、汝に託す」とか、「我が声を聞け」とか。神様っぽく』
『うむ。——我の、若い頃に聞いた声は、そのような響きだった』
『今は、まあ、ねえ。——フリッツと話すようになってから、なんかそういう話し方、しなくなったの』
神様が、ちょっと照れたように言った。
『なんて言うか。——ちゃんと話したい相手ができると、ちゃんとした話し方、できなくなるっていうか』
俺は、思わず笑った。神様、それは逆なんじゃないかなと思ったけど、言わないでおいた。
エルツが、金色の目を、ゆっくりと瞬いた。角の光が、穏やかに揺れた。
『……我は、今の我が神の方が、好ましい』
『え』
『昔の我が神は、遠かった。今の我が神は、近くに感じられる』
神様の声が、ぴたりと止まった。
それから、ぽつり、と。
『……エルツぅ……』
神様の声が、また蕩けかけていた。
『照れることを言うね、君は』
『事実を述べたまでだ』
エルツが、つんと鼻を上に向けた。それから角の光が、また一瞬だけ消えた。
『……ほら』
少しの間があって、角の光が戻った。
『ごめんねー、今戻った。——エルツが可愛すぎて、接続が乱れたかもしれない』
『……痴れ言を』
俺は、思わず笑ってしまった。神様が『ダンダンちゃーん、エルツがね今ね』とダンダンに話しかけ始めて、ダンダンがぱたぱたと耳を揺らして応えた。エルツは呆れたように鼻を鳴らしながら、でも角の光は穏やかなままだった。
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——その時。
「おい」
焚き火の向こうから、レオンの声がした。
俺は顔を上げた。レオンが、剣を膝に乗せたまま、こっちを見ていた。怪訝そうな顔。
「何を、さっきから、賑やかにしてるんだ?」
「え」
「お前とエルツとダンダンと、あと、なんか見えない誰か。——ずっと、会話してる顔してる。時々笑ったり、呆れたり」
レオンが、布で剣を拭きながら、言った。
「俺だけ、蚊帳の外だし気まずいっていうか」
——あ。
俺は、少し反省した。野営の間、ずっとダンダンと神様とエルツで盛り上がっていて、レオンには全く内容が聞こえていなかった。
「ごめん」
「別に、怒ってはねえ。——気になってるだけだ」
レオンが、ふっと笑った。
「何の話してたんだ?」
俺は、少し考えた。それから、思いついた。
「レオンも、聞いてみる?」
「……は?」
「神様の声。今なら、レオンにも届けられるかもしれない」
レオンが、ぴたりと、手を止めた。
「……それ、できるのか?」
「前に、ダニエルに魔物の声を聞かせた時と同じ仕組み。——普段はやらないけど」
対話の中継。複数の相手に同時に声を届ける。ダニエルに三体の従魔の声を届けた、あの時の感覚。使わないだけで、使おうと思えば、使える。
レオンが剣を鞘に収めた。布を畳んだ。
なんとなく気を落ち着けるための作法に見えた。
「……一応、聞いとくけど」
「うん」
「俺、祝福とかそういうの何ももらってねえぞ」
「うん」
「それでも、聞こえるのか」
「たぶん。——俺が、中継するから」
レオンが、しばらく俺を見ていた。
それから、焚き火の向こうで少し姿勢を正した。
「……じゃあ、頼む」
俺の中で、神様が、少しだけ緊張した気配を見せた。
『……ほんとに、聞かせちゃう?』
「うん。レオンが、仲間外れみたいで、嫌だから」
『……なるほどね。——わかった』
俺は目を閉じた。中継の感覚を、思い出す。
対話の道を、俺からレオンへ一本、そっと伸ばす。神様の声を、俺の中を通って、レオンへ。
「——聞こえる?」
俺は、声に出して言わなかった。
その代わりに、神様の声が直接、レオンの中に流れ込んだ。
-----
レオンが、ビクッと、肩を震わせた。
『……うわ』
レオンが、焚き火の向こうで、思わず声を漏らした。
『お、女の人?いや違うか、若い男の声……?』
レオンがきょろきょろと、周りを見回した。空を見た。俺を見た。エルツを見た。そして、もう一度、空を見た。
『どっから、聞こえてんだ、これ』
「頭の中。——神様の声」
俺は、声に出して答えた。でも、レオンは答えを求めていたわけじゃなかったらしい。頭を抱えて、焚き火の向こうで、うなった。
『……マジかよ』
レオンの声が、少し上ずっていた。
俺の中で、神様がちょっと嬉しそうに笑った。
『はじめまして、レオン・ハルトマン。フリッツの神様です』
『……はい、どうも……いや違う、え、何これ、俺何か返事しないとだめ?』
レオンが、完全に動揺していた。剣士としての落ち着きが、一気に崩れていた。俺は思わず、笑ってしまった。
『気楽で大丈夫だよ。私、別に偉くないから』
『いや神様って、普通偉いだろ……』
『うん、一応はね。でも、今日は、お礼を言いたかっただけだから』
レオンの動きが、止まった。
『……お礼?』
『うん』
神様の声が、少しだけ、温度を落とした。いつもの前のめりな調子から、静かな温度に。
『ずっと、あなたに、お礼を言いたかった』
『……』
『フリッツの旅に、最初についてきてくれたのは、あなただった。剣の腕があるから、じゃない。——あなたが、フリッツの「普通の友達」で、いてくれたから』
焚き火が、小さく爆ぜた。
レオンが、黙って、焚き火の炎を見ていた。
『フリッツは、これからもっと遠くに行く。単角獣と話して、妖精と繋がって、今は宙の存在まで連れてる。——たぶん、この先ももっと色々ある』
『……だろうな』
レオンが、短く応えた。
『だから、お願いしたくて』
『……うん』
『特別な力を持つ者や眷属ではない存在。——ただの、剣が上手くて世話焼きで口の悪い、現実的な友達として。フリッツの隣にいてあげてほしい』
『……』
『「金勘定ができないと死ぬぞ」って怒ってくれる人。「調味料は一つずつ試せ」って教えてくれる人。——そういう人が、いてくれることが、大事なの』
レオンが、焚き火の炎から、視線を外した。
俺をちらりと見た。それから、また炎に視線を戻した。
『フリッツが、どこまで遠くに行っても。——あなたが、今の態度のままでいてくれたら。あの子は、戻ってこられる』
神様の声が、静かに、続いた。
『だから、お願い。——これからも、そのままでいてあげてね』
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レオンが、しばらく黙っていた。
焚き火が、また爆ぜた。それから、レオンが鼻をすん、と鳴らした。
『……あのな、神様よ』
『はい』
『俺、別に何か考えてついてきたわけじゃねえ』
『うん』
『金勘定ができねえやつが旅に出るって言ったら、そりゃ、誰かついていくだろ。薬も料理も、何も知らなかったんだぞ、こいつ』
レオンが俺を親指で指した。
『放っておけねえだけだ』
『うん』
『……別に、これからも、変わらねえよ』
レオンが俺を見ないで、焚き火を見たまま言った。
『こいつが、エーデルホルンや宙の精霊連れてようが、知ったことじゃねえ』
レオンが、俺を指したまま、言った。
俺は少し笑った。少しだけ、目の奥が熱くなった。でも、泣きはしなかった。
神様が俺の中で、静かに笑った。
『……ありがとう、レオン・ハルトマン。ちゃんと、届いた』
『おう』
レオンが、短く応えた。
それから、ふっと、肩の力を抜いた。
『……で、これ、どうやって切るんだ?』
『え?』
『接続。——普通にしゃべるの、恥ずかしいから、そろそろ切りたいんだが』
神様が、ぷっと、吹き出した。
『あはは、大丈夫、フリッツが中継を切ればそれで切れるから。——レオンくん、普通にしゃべって大丈夫だよ。私、もう、向こうに戻るから』
『助かる』
『またね、レオンくん。——これからも、よろしくね』
『……おう。まあ、そのうち、また』
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俺は、中継を、そっと切った。レオンに繋がっていた道が、ふわりと閉じた。
レオンが、ふう、と大きく息を吐いた。
「……フリッツ」
「うん」
「お前、こんなのいつもやってんのか」
「まあ、うん」
「……頭、おかしくなんねえの?」
「慣れてる」
レオンが、諦めたように首を振った。
それから、剣を腰に収めて、岩に背を預けた。腕を組んだ。目を閉じた。
でも、口元は少しだけ緩んでいた。
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俺の内側で、神様が、小さく笑った。
『……ほんとに、いい友達だね、君の』
「でしょう」
『うん。——自慢していいよ、そこは』
俺は、少し笑った。
焚き火の向こうで、ダンダンが、眠そうに耳を揺らしていた。さっきまでアスタと遊んでいたのが、もう限界らしい。エルツの前脚の窪みに、ふらふらと潜り込んだ。
『かみさま、ねむい……』
『うん、おやすみ、ダンダンちゃん』
『かみさま、また、はなす?』
『また話そうね。ずっと、聞いてるから』
『ぱちぱち……』
ダンダンが、エルツの前脚の窪みで、丸くなった。すぐに寝息を立て始めた。
『……いい夜だ、フリッツ』
「はい」
『明日、パスハイムに戻るんだね』
「はい。——報告、色々しないとですね」
『うん。ギルドの人たち、また、頭抱えると思うよ』
「……そうですね」
『頑張って。——見てるから、私のできる範囲で』
「ありがとうございます」
神様の気配が、少しずつ遠ざかっていった。完全には消えない。いつもの距離に戻っただけ。
焚き火が、静かに燃えていた。
エルツが横たわり、その前脚の窪みにダンダンが丸まって眠っていた。レオンは腕を組んだまま、もう本当に眠り始めていた。アスタは、俺の肩の上で、柔らかく光っていた。
そして頭上には、広い広い星空。
星空の下で、しばらくその光景を見ていた。
「……アスタ。いい夜、だね」
アスタが、ふわりと明るくなった。肯定。
分霊の声が、俺の内側で、静かに呟いた。
『……懐かしい、と、アスタが言っておる。——こういう夜を、昔どこかで知っていた気がする、と』
「そう」
『忘れているが、悪くない感覚だ、と』
俺はもう一度、星を見上げた。
アスタの故郷は、あの星々のどこかなのかもしれない。
——いつか、分かる日が来るのかもしれない。
でも今は、この夜をただ味わいたかった。
焚き火が、パチッと鳴った。




