第三話 Fランクの最初の仕事
乗合馬車は、隣村を出て一刻ほどで止まった。
予定にない停車だった。馬車が揺れて、がくんと前のめりになって、止まった。乗客がよろめく。俺も荷物ごと前の座席にぶつかった。
「なんだ、どうした」
御者の声が聞こえた。舌打ちが一つ。
馬車には俺のほかに三人乗っていた。太った商人らしき男、薬箱を抱えた年配の女性、それから剣を腰に差した若い男。若い男が窓から身を乗り出して前方を見た。
「馬が止まってる。動かないみたいだ」
御者が馬の横に降りて、手綱を引いている。馬は二頭立てで、右側の馬が完全に足を止めていた。左側の馬は動こうとしているが、右が動かないから進めない。
「どうしたんだ、こら。動け」
御者が手綱を強く引いた。馬は動かない。頭を下げて、鼻を鳴らして、前足で地面を掻いている。
——怒ってる。
窓越しに見ていて、そう思った。
怖がっているのとは違う。耳が前に倒れていて、目が据わっている。尻尾を振っていない。何かに対して怒って、動くのを拒否している。
「ちょっと、降りてもいいですか」
俺は窓から御者に声をかけた。御者がこっちを見た。
「降りてどうすんだ、坊主」
「馬を見てみたいんですけど」
「……好きにしろ。だが蹴られても知らんぞ」
馬車を降りて、右側の馬に近づいた。
大きい。村の農耕馬より一回り大きい。毛は栗色で、額に白い斑がある。近づくと体温がわかった。高い。興奮している。
横に立って、動かなかった。息をゆっくりにした。
馬は魔物ではない。だから声は聞こえない——はずなんだけど、気配は読める。感情の温度みたいなものが、近くにいると伝わってくる。
怒り。不快。それから——痛み?
馬の右前足を見た。蹄の手前、繋ぎのあたりが少し腫れている。
「……ここか」
しゃがんで、手を伸ばした。馬がびくっとした。
「大丈夫。触るだけ。痛かったら引っ込める」
声をかけながら、ゆっくりと繋ぎに触れた。馬の筋肉がこわばった。でも蹴らなかった。
腫れの中心に、小さな何かが刺さっている感触がある。石か、それとも——指先で触ると、硬くて細い。棘だ。棘と言っても道端の灌木から折れたもので結構太い。そんなものが、蹄の上の柔らかいところに刺さっている。
「これが痛くて動けないんだ」
御者が近づいてきた。
「棘だと?」
「ここです。深く入ってる」
荷物から小刀を出して、棘の周りの毛を少しよけた。指先で棘の根元をつまんで、まっすぐ引き抜いた。小さな血の玉が出て、すぐ止まった。
馬の体から力が抜けた。首を下げて、鼻を俺の手に押し付けてきた。息が手のひらにかかる。温かくて、湿っていた。
「……うん、もう大丈夫」
首筋を撫でた。馬が目を細めた。怒りの気配が消えている。代わりに、どこか間の抜けた穏やかさが戻ってきた。
「おい、坊主。お前何者だ」
御者が俺を見ていた。
「何者って。ただの村の人間ですけど」
「この馬はな、気性が荒くて、俺以外の人間が触ると蹴るんだよ。なのに、触らせてた」
「……いや、声かけただけですよ」
御者は首をかしげていた。馬車に戻ると、乗客たちもこっちを見ていた。商人が「ほう」と言い、薬箱の女性が目を丸くしていた。剣の若い男は何も言わなかったが、じっと俺を見ていた。
「これで大丈夫だろう。坊主も乗れ。礼を言う」
「いえ、動くならよかったです」
席に座り直した。馬車が動き出した。
——何を驚いていたんだろう。棘が刺さっていれば痛い。痛ければ嫌がる。無理に引っ張れば怒るし、怒れば動かない。それだけの話なのにな、と思った。
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エルストは、うるさい街だった。
馬車から降りた瞬間、音がどっと押し寄せてきた。荷車の車輪が石畳を転がる音。商人が値段を叫ぶ声。犬が吠えて、子供が走って、どこかで鍋の蓋が落ちた音がする。
村では聞いたことのない密度だ。人も建物も、隙間なく詰まっている。
通りの両脇に店が並んでいて、看板が互いにぶつかりそうなくらい近い。石畳は濡れていて、朝の市が終わった後の野菜くずや魚の鱗が端に寄せてある。匂いも濃い。焼いたパンと、馬糞と、香辛料と、誰かの汗。全部が混ざっている。
村では風の匂いしかしなかった。木と、草と、土と、苔の匂い。ここにはそのどれもない。
——とりあえず、ギルドを探そう。
御者に聞いたら、「大通りをまっすぐ行って、泉のある広場を左に曲がれ」と教えてくれた。それから「坊主、冒険者になるなら気をつけろよ」と付け足した。何に気をつけるのかは言わなかった。
荷物を背負い直して歩き出した。
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泉のある広場を左に曲がると、通りの突き当たりに大きな建物が見えた。
木と石でできた三階建て。正面に看板がかかっている。剣と盾の紋章の下に、「エルスト冒険者ギルド支部」。
扉を押して入った。
中は思ったより静かだった。広い受付カウンターがあって、奥に掲示板。壁際にテーブルと椅子。カウンターの奥に受付の女性が一人、書類を整理している。
「あの、登録したいんですけど」
受付の人が顔を上げた。俺をちらっと見て、荷物を見て、それから顔に戻った。
「冒険者登録ですね。年齢は?」
「十三です」
「身分証は?」
「ないです。村から出てきたばかりで」
「出身の村名と、保護者の名前を書いてください」
渡された用紙に書いた。字は母さんに教わった。きれいではないけれど、読めるはずだ。
受付の人は用紙を確認して、棚から小さなカードを一枚取り出した。木の板に金属の縁がついている。表面が薄く光っている。魔道具だ。
「カードに手を触れてください。登録者のスキルが表示されます」
言われた通りに触れた。カードの表面がじわっと温かくなって、文字が浮かび上がった。
ランク:F
スキル:対話術(+++)
受付の人が文字を読んで、手が止まった。
「……対話術」
「はい」
「(+++)というのは?」
「よくわからないんですけど、珍しいらしいです」
「……どなたかに言われたんですか」
「村の人にたまに。でも何が珍しいのかは教えてもらえなかったです」
受付の人はカードを裏返したり、光に透かしたりした。表示が変わる様子はない。
「……戦闘系のスキルや魔術は?」
「ないです」
「鑑定や目利きは?」
「ないです」
「対話術、だけですか?」
「だけです」
受付の人は少し困った顔をしていた。何かの書類を引っ張り出して、スキル名の一覧らしきものを確認している。見つからなかったらしい。
「対話術というスキルは、当ギルドの記録にはありませんね。(+++)という等級表示も初めて見ました。具体的にはどういう——」
「ええと……、普通に話しかけるだけです」
「……そうなんですね」
受付の人は用紙にペンで何か書き足して、カードを俺に渡した。
「Fランクの冒険者証です。素材の納品、依頼の受注、宿の手配ができます。紛失したら再発行に銀貨一枚かかるので気をつけてください」
事務的な説明に戻った。スキルのことはそれ以上聞かれなかった。たぶん、処理のしようがなかったんだろう。
「はい」
「なにか質問は?」
「素材の納品って、ここでできますか?」
「カウンターで受け付けます。鑑定士が状態を見て、買取額を出します」
荷物からニガヨモギの袋を出した。道中ずっと外気に触れないようにしていたから、摘んだときとそう変わっていないはずだ。口を開けると、苦い匂いがふわっと広がった。
受付の人の手が止まった。
「……ニガヨモギですか?」
「たぶん。道の途中で見つけたんですけど」
「少々お待ちください」
奥の部屋に引っ込んで、別の人を連れてきた。白い上着を着た中年の男性。鑑定士だろう。
鑑定士は袋の中を覗いて、一枚取り出して、指で葉を触り、裏返し、匂いを嗅いだ。
「……どこで採った?」
「村から隣村に向かう道中の、岩場の水場の近くです」
「虫食いがまったくない。この時期のニガヨモギでこの状態は珍しい。大抵苦くなる前に甘くなって、その時に虫食いだらけになるんだ。薬効が落ちる前に摘んである。採取の時期も場所も的確だ」
的確だったんだ、と思った。
虫が今は苦くて食べないと言っていたし、場所は虫系の魔物に聞いた。俺がやったことは、教えてもらった場所に行って、葉を摘んだだけだ。
「根を傷つけてないな」
「はい、その方が鮮度がいいかなって。あ、群生地は残しておきました。全部取ったら次がなくなるので」
鑑定士がちょっと変な顔をした。何かを言いかけて、やめた。受付の方を向いて金額を伝えた。
「銅貨十五枚だな」
受付の人が書類に記入して、銅貨を数えて並べた。
「Fランク素材としては上限に近い買取額です。今後も同品質のものがあれば、優先的に買い取ります」
「はい。ありがとうございます」
銅貨十五枚。父さんにもらった路銀と合わせると、手持ちが増えた。これなら宿代を払っても余裕がある。
冒険者証と銅貨を受け取って、カウンターを離れた。
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ギルドを出て、宿を探すことにした。
受付の人に聞いたら、「ギルド裏手の通りに何軒かある。『灰色のやかん亭』がいちばん安い」と教えてくれた。名前がいい。やかんが灰色って、煤けてるのか元から灰色なのか気になる。
「灰色のやかん亭」は、ギルドの裏手の通りの奥にあった。看板にやかんの絵が描いてある。確かに灰色だった。煤ではなく、そういう色の塗料で塗ってあるらしい。
中に入ると、太ったおじさんがカウンターの向こうで杯を磨いていた。
「一泊いくらですか」
「銅貨四枚。朝飯つき。風呂は共同で、夕方に沸きます。今日ならすぐに入れるよ」
「お願いします」
銅貨を四枚出した。父さんの路銀から馬車代の三枚を使って、十七枚。さっきの納品の十五枚を足して、二十八枚。宿代を引いて二十四枚。また納品すれば、しばらくは食いつなげる。
部屋は二階の突き当たりだった。小さいけれど、窓がある。荷物を下ろして、ベッドに座った。硬い。でも地面よりはいい。
ギルドの鑑定士の「珍しい」という顔を思い出した。馬車の御者の「お前何者だ」という声を思い出した。受付の人がカードの文字を見て固まっていた顔も。
対話術(+++)。俺にとっては生まれたときからあるものだから、何がどう特別なのかよくわからない。虫に聞けば薬草の場所くらい教えてくれるし、馬の足が痛そうなら見てやるのが普通だろう。村ではみんなそうしていた。
——まあ、ここは村じゃないか。
冒険者証を取り出して眺めた。薄い光の中に「対話術(+++)」の文字が浮かんでいる。他には何もない。戦闘スキルも、魔法も、鑑定も。この文字一行だけが、俺の持っている全部だ。
まあ、これで十分やっていける気がする。
窓から入る風に、村では嗅いだことのない匂いが混じっている。石と煤と、人が密集している匂い。苔の匂いはもう届かない。
明日はギルドの掲示板を見てみよう。Fランクで受けられる依頼があるかもしれない。素材の採取系があればいちばんいい。道中の虫系にまた聞けば、何か見つかるだろう。
ベッドに横になった。天井を見た。村の天井は木だったが、ここは石だ。冷たくて、硬くて、知らない匂いがする。
目を閉じた。
明日はもう少し、遠くに行ける。もしかしたら、あいつの手がかりがあるかもしれない。
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(第四話へつづく)




