第三十二話 痛いしか、聞こえない
広場の時間が止まった。
俺とレオンが中央に立っている。後ろに妖精。隣にエルツ。肩にダンダン。向かい側に、ダニエルと三体の従魔。
距離は二十歩ほど。
誰も動かない。ダニエルは穏やかな顔のまま、俺たちを見ていた。従魔たちは半円の陣形を崩さなかった。エルツが低く唸った。
「……レオン。あの従魔、何がわかる?」
小声で聞いた。レオンも同じ音量で返した。
「犬型の一匹目は、たぶんサングルス。Cランク。群れで狩りをする種だ。単体でもDランク冒険者を軽く倒せる。——あの個体は、特に大きい。B寄りのCかもしれん」
「猿型は?」
「ストラングラー・エイプ。Bランク下位。筋力で締め殺すタイプ。腕力が人間の五倍はある。俺みたいな剣士は掴まれたら終わりだ」
Bランク。レオンより二つ上。
「一番奥の爬虫類は」
レオンが一瞬、声を詰まらせた。
「……ロックガーディアン。Bランクの上位。鱗が金属並みの硬度がある。普通の剣は通らない。俺の剣だと、たぶん刃が欠ける前に殺される」
Bランク上位。
俺の耳の奥で、心臓の音が大きくなった。
つまり、三体でBランク上位+Bランク下位+Cランク上位。この組み合わせを一度に相手にできる冒険者はAランク以上だ。——そしてダニエル本人も元Aランク。
勝ち目がない。
ダニエルが一歩、前に出た。
「その子が噂の対話術の子か」
穏やかな声。丁寧な言葉遣い。俺を「その子」と呼ぶのに、何の悪意もない響き。
「……あなたがダニエル・ホーネッカー?」
「ああ。よく知っているね。レオン君、君が教えたのかな」
ダニエルがレオンの名前を知っていた。エルストの裏町で活動していたなら、レオンのことも耳にしていたのかもしれない。
「悪いが、今日は仕事でね。その後ろの妖精を引き取りに来た。君たちには関係ない話だ。——下がってくれないか」
「……下がりません」
「そうか」
ダニエルが少し首を傾けた。残念そうな仕草だった。怒ってはいない。困っている、という感じだった。
「君、フリッツ君だったかな。話は聞いている。対話術のほかに、祝福四つ。エーデルホルンの同行者。素晴らしい経歴だ。将来有望だね」
褒め言葉なのに、背筋が冷たくなった。ダニエルの言葉には、感情の温度がない。情報として俺のことを知っていて、情報として褒めている。
「でも、今の君では、僕の従魔には勝てない。わかるね?」
「わかります」
「なら、下がろう。君は若い。死ぬには早い。妖精は僕が引き取る。それで全員が帰れる」
全員が帰れる。——妖精以外は。
「……あの妖精がどう使われるか、知ってます」
「ほう」
「絶対に壊れない盾として戦場に立たせるか、あるいは、広範囲の命を吸い上げる装置にする」
ダニエルの眉が少し動いた。
「詳しいね。本人から聞いたのかな」
「はい」
「なるほど。それが対話術(+++)の実力か。——確かに、その通りだ。僕はその両方の使い道を考えている。金になる。戦争を請け負う貴族たちが、絶対に破られない盾を欲しがっている。吸収装置の方は、もっと値がつく。村一つ分の命を一瞬で奪える装置は、歴史上ほとんど例がない」
淡々としていた。良心の呵責も、躊躇いもない。ただの商品説明をしているような口調。
「何人死ぬかわかってるんですか」
「わかっているとも。だが、それは僕の問題ではない。使う側の問題だ。僕は供給するだけ。君が持ってる小刀と同じだ。そうだろう?」
——この男は、何かが欠けている。
悪人というより、壊れている。大事な部品が最初からない、あるいは途中でなくしてしまった……。そういう印象だった。
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対話術を使って彼の従魔たちに声を届けた。広場全体の声を一度に拾おうとした。祝福で範囲が広がっているから、三体同時でも届くはずだ。
——届いた。
届いた、けれど。
犬型サングルスから。『……いた……い……』
猿型ストラングラー・エイプから。『……たす……けて……』
爬虫類ロックガーディアンから。『…………』——声にならない呻き。
三体とも、「痛い」と「助けて」しか言えなかった。それすら、奥深くから絞り出すような声だった。普段の対話術なら、感情の色や意志や記憶がついてくる。今回は何もない。声の残骸だけ。
首の赤い輪が、魔力を吸い取っている。意志を押さえつけている。魔物たちの本来の声は、その下に埋められている。
——通じているのに、助けられない。
俺の拳が震えた。
「……レオン」
「ん?」
「この三体の従魔、聞こえる声が『いたい』と『たすけて』しかない」
レオンが息を呑んだ。
「……そうか」
「首の輪だ。あれが意志を押さえつけてる。外せれば、たぶん——」
「外せれば、どうなる?」
答えは考えなくてもわかった。
意志を取り戻した魔物が、長年自分を縛ってきた人間を許すとは思えない。
「……戻ってダニエルを襲うかもしれない。俺たちが戦うより、ずっと勝率がある」
「逆襲されるのはダニエルの自業自得だ。だが、テイマーの首輪だぞ。外せるのか?」
レオンがそういったあとに、「いや、お前だもんな」と言いながら首を振る。
腰の剣の柄に手を置いた。
「お前が輪を外せるなら、やれ。俺がダニエルの注意を引きつけて隙を作る」
「レオン……」
「言いたいことはわかってる。でも、それ以外に方法があるか?」
ない。グリュフォンはまだ戻らない。エルツは妖精を守る位置取りで動きにくい。ダンダンは戦えない。妖精は結界の維持で手一杯。残るのはレオンと、俺の対話術だけ。
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ダニエルがこちらを見ている。優しい目で。いや、優しく見える目で。
「フリッツ君。話し合いで解決できる問題じゃないんだよ。わかるだろう」
わかる。でも——
「ダニエルさん」
呼びかけた。ダニエルの眉が少し上がった。
「あなたの従魔の声を聞かせてもらいました。三体とも『痛い』と『助けて』しか言ってません。それ、あなたにも感じていることはありますか」
ダニエルが少し黙った。それから、穏やかに答えた。
「フリッツ君。君は若い。まだわかっていないようだから、教えてあげよう。——魔物は、痛みを感じない。あれは反射だ。条件付けの過程で、学習した反応を返しているだけだよ。本当に痛いわけじゃない。心は、ない」
心は、ない。
——この男は、本気でそう信じている。
ダニエルの声には疑いがなかった。嘘をついているのではなく、本当にそう思っている。魔物には心がない。痛みは反射。それが彼の中の真実。
それが、彼を壊した。あるいは、壊れていたから、彼はそれを信じられた。どちらが先かわからない。でも、どちらでも結果は同じだ。
「——じゃあ、俺が今、はっきりと声を聞いていることは、どう説明しますか」
「気のせい、じゃないかな」
ダニエルがにっこり笑った。
「対話術(+++)のスキルは立派だ。でも、君が聞いているのは、君自身の投影かもしれない。魔物に感情があってほしいという願望が、声を作り出している。僕はそう思うよ」
——俺の投影。俺の願望。
村の大人に「変な子」と言われた時、少しだけ、そう思った。
いや、本当はずっと、ずっと考えてきたことだ。対話術で聞いている声は、本当に魔物の声なのか。俺が勝手に作っているんじゃないか。
でも違う。違うと、何度も確かめてきた。
ムックの声。蝙蝠の声。トレントの声。エルツの声。ダンダンの声。妖精の声。
——全部、俺じゃない。俺の外にある声だ。
でも、ダニエルは信じないだろう。きっと、これ以上話しても、ダニエルが受け入れることはない。
俺は自分の手のひらに爪がささるほど、握りしめていた。
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ダニエルの従魔たちが、少しだけ動いた。半円の陣形が、じわりと狭まった。交渉の時間が終わりに近づいている。
レオンが剣を抜く。
俺は立ち上がった。ダンダンが肩にしがみついた。エルツが低く唸って、金色の目が光った。
「——ダニエル」
「うん?」
「あなたは、魔物の声を聞いたことがないんですね」
「聞く必要がないんだよ。聞かなくても使える」
「じゃあ、ぜひ一度、聞いてみてください」
俺は、胸の奥から声を出した。対話術を使う時の、体の芯から絞り出す声。祝福で広がった対話術の範囲を、さらに押し広げた。広場全体に。エルツに。ダンダンに。妖精に。ダニエルの三体の従魔に。そして——ダニエル自身に。
叫んだ。
「——君たちの、本当の声が聞きたい!」
世界が、震えた。
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体の中で、何かが弾けた。
神様が通してくれた魔力の通り道が、さらに広がった。広がっただけじゃない。——分かれた。一本の道が、何本もの道に分岐した。それぞれの道の先に、相手がいる。エルツ、ダンダン、妖精、そしてダニエルの三体の従魔。六方向に、同時に道が繋がった。
体が熱くなった。目の前が白くなって、すぐに戻った。
そして——声が溢れた。
今まで聞こえなかった声。押さえつけられていた声。
犬型サングルスの声が、鎖を破って飛び出してきた。
『——群れ、に、戻り、たい。山の、匂い。母の、毛。仲間、の、鳴き声。全部、忘れたくない。忘れさせないでくれ。痛い。痛い。痛い。でも、忘れたくない』
猿型ストラングラー・エイプ。
『——娘が、いた。小さい娘。覚えてる。笑う顔を。笑い声を。今、どこにいる。わからない。でも、覚えてる。忘れない。助けて。助けて。助けて』
ロックガーディアン。
『——岩の、下で、眠っていた。静かだった。日の光が、岩を温めた。あれを、もう一度、感じたい。ただ、眠りたい』
三体の声が、一度に押し寄せてきた。
それぞれに、記憶があった。感情があった。望みがあった。
全部、首の輪の下に押さえつけられていたもの。意志の欠片が、必死に生きていた。
俺の目から涙が流れてくる。勝手にあふれてきた。
「——聞こえてる。聞こえてるから。全部、聞こえてるから」
届けた。
祝福で広がった対話術で、従魔たちに返事を届けた。六方向の道を使って、全員に一斉に。
『——聞こえて……いる……?』
『——本当に?』
『——誰が……我を……呼んでいる?』
三体が、混乱していた。今まで聞こえなかった声が、急に届いたから。
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ダニエルが、凍りついていた。
穏やかな顔から、何かが抜け落ちていた。驚き、でもあり、困惑、でもあり——
「……何を、した」
ダニエルの声が、初めて揺れた。
「聞こえたはずです。あなたにも」
「……いいや、僕は——」
「聞こえたんですね。あなたは今、初めて、魔物の声を聞いた」
ダニエルが自分の頭を押さえた。何かに抗うように、首を振った。
「違う。そんなものは、ない。魔物に心は——」
「聞こえたでしょう?」
静かに言った。もう叫ばなかった。叫ぶ必要がなかった。
「……違う!」
ダニエルの従魔たちが、動き出した。
命令されていない。ダニエルの命令はまだ出ていない。でも——三体が、自分の意志で動き始めた。首の赤い輪が、ちらちらと明滅していた。魔力の縛りが弱まっている。
俺の対話術が、縛りを緩めている。声を届けることで、意志を押さえつけている魔力を内側から押し返している。
——神様が、また何かしてくれたのかな。
エルツが低く唸った。
『汝の中で、天との道がさらに広がった。これは——』
ダニエルが、我に返ったようだった。
顔が強張っていた。穏やかな表情が剥がれて、下から別の顔が出てきた。
恐怖と怒りと困惑の混じった表情。それから俺を、心の底から嫌悪するような顔。
……穏やかさしかなかった表情よりもずっと、人間らしい顔、と言ってもいいかもしれない。
「——こいつらを押さえろ!」
ダニエルが初めて命令を出した。従魔に向かって。
だが、従魔たちは動かなかった。
戸惑っている。命令は届いている。でも、体が言うことを聞かない。自分の声を、初めて誰かに聞いてもらえた。その記憶が、命令の優先度を一瞬だけ覆している。
ダニエルが腰の短杖を抜いた。魔術の構え。
「レオン!」
「任せろ」
レオンが駆け出した。剣を構えて、ダニエルに向かっていった。
戦闘が始まる。
でも、俺の心の中は、不思議と落ち着いていた。三体の従魔の声が、まだ聞こえていた。押さえつけられていた声が、今、少しずつ自由になろうとしていた。
それだけで——俺がここに来た意味があった。




