第三十一話 空からと、地から
待ち時間は長くなかった。
空に呼びかけてから、半刻も経たないうちに、上空で羽音がした。大きな羽音。鳥のそれではない。もっと低く、もっと重く、空気を押す音。
枯れた広場の上空に、影が差した。
巨大な影だった。エルツと同じくらい、あるいはそれ以上。翼を広げた輪郭が、空の青を覆った。
ゆっくりと降りてくる。ダンダンが飛ばされないように押さえてやる。
獅子の体に、鷲の翼と頭部。金色の毛並みに茶褐色の羽。両目は琥珀色。爪が地面に触れた瞬間、軽く土が舞った。枯れた広場に久しぶりに動く生命の気配が戻った。
グリュフォン。
俺の背丈の二倍はある。翼の幅は広場の端から端まで届きそうなほど。威圧感が半端ではない。ダンダンが俺の襟の中に潜り込んだ。
『こわい、けど、わるくない、におい!』
匂いで判断するのはダンダンらしい。
エルツが立ち上がって、グリュフォンに向き合った。同格の存在同士が対峙する空気。でも敵意はない。お互いを測り合っているだけだ。
『……エーデルホルンか』
グリュフォンが口を開いた。先ほどの遠い声よりも、今度ははっきりと響く。鋭い、高い声。
『久しぶりに近くで見る。南の台地の主だろう。なぜ人の子と共にいる』
『それは長い話だ。後で聞かせよう』
エルツが短く答えた。グリュフォンが琥珀色の目をこちらに向けた。
『……お主か。空に呼びかけた人の子は』
「フリッツです。来てくださってありがとうございます」
深く頭を下げた。グリュフォンが首を傾けた。
『礼はよい。空の仲間と話し合って、我が先に来た。状況を見るためだ。——本当に、人の子が魔物のために助けを求めたのか』
「はい」
『珍しい。非常に珍しい。空の者たちは疑った。人の罠ではないかと。だが、声の色が澄んでいた。偽りの色ではなかった。だから、我が降りてきた』
声の色。——魔物にも見えるんだ。俺が対話術で見る色と、グリュフォンが感じる色は、同じものかもしれない。
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グリュフォンが枯れた広場を見回した。琥珀色の目が木々の死骸を認めた。石碑の光の線を追った。そして最後に、石碑の裏の妖精を見た。
グリュフォンの体が、一瞬だけ固まった。
『……これは』
妖精がゆっくりと目を開けて、グリュフォンを見返した。初めて見る相手を認識する緑色の目。
『……空の者……久しいな……』
妖精の声が、グリュフォンに届いたらしい。グリュフォンの琥珀色の目が大きくなった。
『……これは、わたしの記憶が正しければ——』
『わらわを、見知っておるのか』
『……見知っている、というより、空の長老たちが語り継いでいた姿に……』
グリュフォンが言葉を切った。それ以上は言わなかった。
エルツがグリュフォンの方を見た。グリュフォンがエルツを見返した。二匹の視線が、一瞬だけ交わった。そして、どちらも口を閉じた。
何か、俺の知らないことがある。エルツもグリュフォンも知っていて、言わないことが。妖精の正体について、二匹には何か共有する認識がある。
でも、今は聞かない。今は、守ることが先だ。
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「グリュフォン——名前を聞いてもいいですか」
『名か。我らの種族は個別の名を持たぬ。だが、そうだな……お主が呼びやすいように呼ぶがよい』
グリュフォンの頭を見上げた。鋭いクチバシ。刃物のような曲線。日の光を弾いている。その鋭さと、金属のような響きが、頭の中で何かの音になった。
「……キーラン、でいいですか」
口から出た音に自分でも少し驚いた。深い理由はない。でも、あの鋭いクチバシを見ていたら、そう呼びたくなった。
グリュフォンが琥珀色の目を少し細めた。
『……悪くない。響きが我の翼音に似ている。では、しばしキーランと呼ぶがよい』
すんなり受け入れてくれた。グリュフォン種は名前へのこだわりが薄いのかもしれない。
キーランが広場に座った。獅子の前足を揃えて、翼を軽く畳んで。その姿勢を取ると、最初の威圧感が少し和らいだ。
「状況を説明します」
妖精のこと、悪質テイマーのこと、結界のこと、木々が枯れた理由。全部話した。キーランは静かに聞いていた。時折、琥珀色の目が細くなった。考えを整理しているらしい。
話し終えた時、キーランが静かに言った。
『……人の欲の深さは、時として我らの想像を超える。だが、それに対抗するために、人の子が空に呼びかけたというのは——興味深い。我々空の者は、地上の争いには関わらぬ。だが、今回は別だ』
「力を貸してくれますか」
『うむ。だが、我一人では足りぬかもしれぬ。だが、応援を呼べる。空の者たちは広い範囲を飛んでいる。声を飛ばせば、半刻あれば何羽か集まる』
悪質テイマーが来るまでに間に合うかわからない。でも、一人で立ち向かうよりはずっと心強い。
キーランが翼を広げた。風が起きて、俺の髪が揺れた。
『その間、妖精を守れ。我が戻るまで、結界を保て』
キーランが空に飛び立った。琥珀色の翼が、枯れた広場の上空を越えて、見えなくなった。
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「エルツ、妖精のこと、何か知ってるのか?」
エルツが金色の目を細めた。
『……知っているとも、知らぬとも言える。我が仕えてきた天は広い。古い記憶の中に、セレスティエについての話がある。だが、それが今、汝の前にいる者と重なるかどうかは、まだわからぬ。確証が得られるまで、汝に告げるのは不正確だ』
「確証が得られたら、教えてくれるか」
『約束しよう』
エルツが金色の目を閉じた。
——何か重要なことだ。それは間違いない。でも今は、妖精を守ることが先。秘密は後で明かされる。それでいい。
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キーランが去って四半刻ほど経った時、今度は地面から足音がした。
森の向こう、獣道の方角から。人間の足音だ。それも、早い。走っている。
エルツが立ち上がった。金色の目が獣道の方角を見た。ダンダンが耳を立てた。
『フリッツ、ひと、くる。ひとり。……しってる、におい!』
知っている匂い。
枯れた木々の間から、人影が飛び出してきた。
革鎧。腰に剣。背中に荷物。汗だくで、息が上がっていて、髪が乱れている。
それでも、俺には一目でわかった。
「レオン!」
「フリッツ! 間に合ったか!」
レオンだった。
遠いエルストから、一人で。ここまで。
「お前、なんでここに——」
「説明は後だ。先に状況を聞かせてくれ」
レオンが広場に入ってきて、周囲を見渡した。枯れた木々を見て、足元の小動物の骨を見て、石碑の光の線を見て、最後に妖精を認めた。
顔が強張った。
「……ここが悪質テイマーの狙ってる場所か。エルストで聞いた通りだな」
「エルストで?」
レオンが頷いた。呼吸を整えながら、話し始めた。
「お前のステータスが公開された後、エルストにも情報が届いた。対話術(+++)、祝福四つ、S級相当のエーデルホルンの同行者——その記録が広まった。それで、俺が心配したんだ。狙うやつが出てくるんじゃないかって」
「……心配してたのか」
「当然だろ。Cランクとはいえお前はまだ十三だし戦闘力はない。エーデルホルンがいるから普通の連中は手を出さないだろうが、組織的に動くやつらは別だ」
レオンが腰の水筒を取って、一口飲んだ。
「俺はギルドで情報を探った。エルスト周辺の悪質テイマーの動向を。そしたら——一人、動向が分からない奴がいた」
「そうなの?」
「去年までエルストの裏町で活動してた凄腕のテイマーがいた。元冒険者で、上位魔物の討伐の実績もある男だ。だが、魔物の扱いが荒くて、何度か問題を起こしてギルドから追放された。そいつが、半月前にエルストで見かけなくなった。——向かった方角が、ここだった」
半月前。ちょうど俺がステータスを公開した頃だ。
「ギルドから情報を引き出して、追いかけた。途中でハルツって爺さんに会って、あんたのことを聞いた」
「ハルツさんと会ったのか」
「ああ。森の入り口の村で。グレイって狼と一緒にいた。あの爺さんが『フリッツはこの森の奥に向かった』と教えてくれた。グレイも『気をつけろ』と唸ってた。——まあ、その狼の言葉は俺にはわからないが、爺さんが訳してくれた」
ハルツが訳せるのは五年の付き合いがあるからだろう。対話術ではなく、長年の理解。
「それで、一人で来たのか」
「一人だ。お前を一人で行かせて悪かったと思ってる。せめて合流するくらいはしないとと思って」
レオンが剣の柄に手を当てた。
「——で、敵はどこだ」
「まだ来てない。でも、いつ来るかわからない。セレスティエが半月くらい結界を張り続けてる。もう限界が近い」
「セレスティエ?」
「植物系の上位魔物だ。今ここで結界を維持するために、周りの木と小動物の生命力を借りてる。それで木がこうなってる」
レオンが広場を見回した。
「……ひどいな。これを作ったのは妖精自身か」
「そうだけど、そうせざるを得なかっただけだ。追われてたから」
「わかってる。追い詰めた奴の責任だ」
レオンが妖精のところに近づいた。距離を保ったまま、深く頭を下げた。
「俺はレオン。フリッツの友人としてあんたを守りに来た」
妖精が、かすかに目を動かしてレオンを見た。
『……また、一人……わらわのために……』
声は俺にしか届かない。でもレオンは、妖精の様子から何かを察したようだった。
「大丈夫だ。俺たちがいる」
短い言葉だった。飾りがない。対話術はなくても、伝わる言葉だ。
「レオン、一つだけ聞かせてくれ」
「ん?」
「そのテイマーの名前って分かる?」
レオンが頷いた。
「ダニエル・ホーネッカー。元Aランク冒険者。剣と魔術と魔物使い、全部使える。厄介な男だ」
元Aランク。剣と魔術も使える実力者。それが俺たちの敵。
俺には戦闘力がない。あるのは対話術だけ。エルツは強いが、妖精の真後ろにいる。妖精の負担を軽減してるはずだし、大技を出せば妖精にも当たってしまうかもしれない。ダンダンはまだ魔術を覚え始めたばかりで戦力にはならない。レオンもいるけど、Aランクの男を一人で相手にできるとは思えない。
でも、空にキーランがいる。そしてキーランが仲間を呼びに行っている。
それから——もう一つ、重要なことを思い出した。
神様だ。
神様は見ている。今も、きっと見ている。直接介入はできないと言っていたが、見ている。必要な時に、何か助けを出してくれるかもしれない。
期待しすぎるのは良くないが、少なくとも、見守ってくれている存在がいる。
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そのとき、ダンダンが体を硬くした。
『——フリッツ』
いつもの甘えた声じゃない。鋭い声だった。初めて聞く声。
『きた。じめん、の、ながれ、きゅうに、かわった。なにか、ちかい、つよい、ちから』
地面の流れが急に変わった。ダンダンの「ぱちぱち」が最も敏感な何か。
俺は立ち上がった。レオンも立ち上がった。エルツが首を起こした。妖精の呼吸が、明らかに速くなった。
『……来た……あの者が……』
妖精の声が震えた。
枯れた木々の向こう、獣道の反対側——これまで誰も来なかった方角から、足音が聞こえた。
一人分。
ゆっくりとした、落ち着いた歩調。急いでいない。獲物が逃げないと確信している歩き方だ。
枯れた木々の隙間から、人影が出てきた。
長身。黒い革のコート。腰に剣。背中に短杖。腕には細い鎖のようなもの——テイマー用の拘束具だ。年齢は三十代か四十代か、遠目にはわからない。端正な顔立ち。整えられた黒髪。冒険者らしい体つき。
目だけが、他の冒険者とは違った。——何も映っていない目。
そして、男の後ろから——ゆっくりと、何体かの影が続いて現れた。
一匹目は、犬型の大型魔物。灰黒の毛。首に金属の輪。その金属の輪には見たことのない文字が彫り込まれていて、輪自体が淡く赤く光っている。
二匹目は、猿型の中型魔物。筋肉質な体。目が——虚ろだった。首にも同じ金属の輪。
三匹目は、もっと奥にいた。大型の爬虫類のような姿。胴体だけで牛くらいの大きさ。鱗が油を塗ったように黒光りしている。こちらも金属の輪をつけている。
全部で三体。どれも強い魔物だ。エルツやキーランほどではないが、DランクやCランクの冒険者なら手を出せない個体ばかりだと見てわかる。
そして、全員の目が——虚ろだった。
声を聞こうとした。対話術を使って、従魔たちに意識を向けた。
——届く。届くのに、何も返ってこない。
犬型から聞こえるのは、かすかな声。『……いた……い……』。それだけ。他には何もない。自我が奥に押し込まれている。誰かに押さえつけられている感覚。
神様の警告が頭をよぎった。「悪い者」。意志を上書きするテイマー。
——これが。
レオンが息を呑んだ。
「……ダニエル・ホーネッカー」
男が俺たちを見て、少し意外そうに首を傾けた。それから、穏やかな声で言った。
「おや。先客がいたのか」
穏やかな声だった。優しそうな声だった。——それが、一番怖かった。
男の後ろで、三体の従魔がゆっくりと位置を取った。広場の入口を塞ぐように、半円に広がっていく。命令されていない。だが、動いている。長年の訓練と、魔力の縛りが、命令なしでも戦闘陣形を取らせている。




