第三十話 枯れた木の下で
森に入って、半日が経った。
ハルツとグレイに別れを告げてから、エルツの背中に乗って森の奥へ進んでいる。道はない。獣道を辿るしかない。苔に覆われた岩、倒木、絡まる蔓。エルツの体ほどの隙間を縫うように歩く。
ダンダンが肩の上で、時々「ぱちぱち」をした。地面の下の流れを感じているらしい。
『……フリッツ、ここ、ながれ、あるよ。ふつう。いつもの、かんじ』
「普通の地脈があるんだな」
『うん。でも、すすむと、かわる、かも』
ダンダンの「かも」は信頼していい。最近のぱちぱちは精度が上がっている。魔力親和の祝福が体に馴染んできているのだろう。
森の奥に向かうにつれて、空気が変わった。
木の種類が変わる。針葉樹から広葉樹へ。苔が深くなる。鳥の声が少なくなる。そして——。
匂いが変わる。
生きている森の匂いに、別の匂いが混じる。乾いた、焦げたような匂い。植物が弱っている匂いだ。薬草を勉強していたから、この匂いはわかる。苗が水不足で枯れる直前の匂いに似ている。
「……ダンダン、どうだ」
ダンダンが耳を立てた。しばらく集中した。
『ながれ、ちがう。ぐにゃぐにゃ。なんか、ひっぱられてる。どこか、に』
流れが引っ張られている。地脈が一点に集中しようとしている。
帳面を開いた。揺れる背中の上でなんとか書いた。
森の奥、地脈の流れが一点に引き寄せられている。木の枯れ方はこの影響の可能性。
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さらに進むと、景色が変わった。
目の前に、木々が並んでいた。枯れていた。全部。
二十本、三十本。あるいはもっと。高い木も、低い木も、全部が枯れている。葉は落ちきって、幹が灰色になっている。樹皮がひび割れて、中の芯が露出しているものもある。——死んでいる、というより、命を吸い取られた、という感じだ。
エルツが足を止めた。
『……これは』
「地脈の乱れじゃない」
『違うな。地脈は乱れているが、これは別だ。何かが周囲の生命力を吸っている。木が巻き添えになっている』
何かが生命力を吸っている。水源で見た地脈結晶の時と似ているが、もっと直接的だ。あの結晶は地脈そのものを吸い上げていた。これは——植物の生命力を、直接引き抜いている。
ダンダンが俺の襟に潜り込んだ。
『……こわい。ここ、こわい。ぱちぱち、やりづらい。なにか、おおきい、の、が、ちかく、に、いる』
何か大きいものが近くにいる。
ダンダンが怖がるのは珍しい。パスハイムで俺が殴られたとき以来だ。ダンダンの「ぱちぱち」の感覚が、何かを恐れている。
「エルツ。警戒して進もう」
『承知』
エルツの足音が、さっきより静かになった。数百年の眷属の体が、慎重に動いている。
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枯れた木々の間を進んだ。
足元に、落ち葉ではない何かが積もっていた。乾いた小枝、割れた樹皮、そして——動物の骨。小動物の、白くなった骨。リスのような小型の生き物。それが、何体も。
ここでは、木だけが枯れているんじゃない。小さな動物も死んでいる。
ダンダンが襟の中で震えた。
『……しんでる。みんな、しんでる。なんで?』
「わからない。でも、原因があるはずだ」
前方に、もう一つ景色が見えた。
広場だった。森の中に、ぽっかりと開けた場所。木が輪のように立っている——枯れた木が。その中央に、大きな何かがある。
近づいた。
中央にあったのは、古い石碑のようなものだった。苔むして、文字は読めない。高さは俺の身長より少し高い。石碑の周りに、細い光の線が何本も走っている。光の線は地面に向かって吸い込まれていく。
石碑が地面から光を引き出している——ように見える。
でも、違う。
ダンダンが叫んだ。
『——ちがう! せきひ、じゃない! そのおくに、いる! おおきい、ちから、の、もの!』
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声が聞こえた。
今まで聞いたどの声とも違う。
風が葉を揺らす音と、水が葉の縁から落ちる音と、花が開く音が混ざったような声。綺麗な声。でも、疲れている。苦しんでいる。
『……誰か……聞いて……誰でもいい……聞いて……』
助けを求める声だ。石碑の向こう側に回った。
——いた。
石碑の裏に、人間の子供くらいの大きさのものがいた。緑色の長い髪が、地面に広がっている。肌は白い木の皮のような質感。華奢な腕には葉と小さな花の飾りが巻きつき、首元には複雑な蔓の紋様があった。疲れ切ってはいるが、姿勢には不思議な品がある。背中から光る羽のようなものが生えているが、片方が折れていた。
きっとこれは、妖精だ。植物の上位魔物。
エルツが低く呟いた。
『……セレスティエ種か。稀少な妖精種族だ。風と樹木の精霊に最も近いと言われる。この山域にまだ残っていたとは……しかも』
エルツが言葉を切った。金色の目が妖精の首元の紋様をしばらく見ていた。だが、何も言わなかった。
「エルツ?」
『……いや。後でよい。今は助けるほうが先だ』
「ところで、セレスティエって?」
『……彼らは元来、森の守り手だ。争いを好まず、森の異変を察知すると結界を張って身を守る。攻撃性はほぼない。——それが人の手に捕えられようとしているとなれば、逃げる以外に術がない』
妖精の周りに、幾重にも魔術の陣が展開していた。光の模様が地面に描かれている。何種類もの魔術が同時に発動している。高位の防御魔術だ。
その魔術を維持するために、妖精は周囲の生命力を吸い上げている。石碑の光の線は、地面から地脈を引き出して、妖精に送っていた。木々も、小動物も、その過程で巻き添えになって死んだ。
妖精は、何かから身を守るために、全力で防御魔術を張り続けている。
長い時間、たぶん何日も何週間も。
俺が近づくと、妖精の目がゆっくりと開いた。緑色の目。疲れ切った目。
『……人間……?』
声が届いた。俺の対話術が声を拾った。祝福で広がった範囲のおかげで、こんなに離れていてもクリアに聞こえる。
「フリッツといいます。森の木の枯れ方がおかしいと聞いて、調べに来ました。あなたが——」
『……助けて……いえ、逃げて……ここにいてはいけない……彼が、また来る……』
彼が、また来る。
「彼、って誰ですか」
妖精の目が、一瞬だけ森の別の方向を見た。恐怖の色が走った。
『……人間の、テイマー……わらわを捕らえようとしている……何度も、何度も……わらわは逃げた……だが、この森から出ると追いつかれる……だから、ここに結界を張った……でも、もう、限界だ……』
テイマー。——あの者、と妖精は呼んだ。
直感的に、神様が言っていた「悪い者」だ。
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「どのくらい、ここに?」
『……わからない……何日か……半月か……時間の感覚がない……魔術を維持するのに、全てを使っている……』
妖精の呼吸が荒い。体から光が漏れ出している。まるで、本人の存在が薄くなっていくようだ。
「周りの木も、あなたの結界のために?」
『……申し訳ない……巻き添えにした……わらわの力だけでは、維持できなかった……地脈から借りた……木々の命を借りた……小動物の命も……返せぬものばかりだ……』
妖精が詫びた。自分が原因で死んだ命に。
木々も小動物も、この妖精が殺した。でも、殺したくて殺したわけじゃない。生き延びるために、他に方法がなかった。——それは、追う者の責任だ。
「あなたの名前は?」
『……個の名は、忘れた……長い時間、生きてきた……わらわたちセレスティエは、ひとりひとりが名を持つわけではない……森と共にあれば、名など要らぬ……だが、昔は呼ばれていた気がする……誰に、何と呼ばれていたかは、もう……思い出せぬ……』
「では、セレスティエ。俺たち、あなたを助けに来ました」
妖精の目が、初めて俺をはっきりと見た。
『……助ける……? 人間が、わらわを……?』
「はい。状況を聞かせてください。今、結界を張るしかないんですか。別の方法はないですか」
妖精が、震える声で答えた。
『……他にはない……わらわたちセレスティエは、戦えない……植物系の魔物は、動けぬ……根を張って、守るだけだ……結界が破れれば、わらわは終わる……テイマーに捕らえられる……そして、あの者に使われる……わらわの結界は、人の手では作れぬほどの強度……戦場で壁として立たされるか、あるいは——……』
妖精が言いかけて、言葉を詰まらせた。
『……あるいは、わらわの「借りる」力を、あの者が使う……地脈や周囲の命を借りて結界を張る……だが、それを強制的に発動させられたら……広い範囲の命を、無差別に吸い上げる装置になる……この森のようなことが、もっと広い場所で起きる……』
人を傷つけるためではない。もっと悪い。
攻撃魔術ではなく、「絶対に壊れない盾」として戦場に立たされる。あるいは——この枯れた広場のような現象を、もっと大規模に引き起こす装置として使われる。木も、動物も、人間も、村ひとつ分の命を一瞬で奪う装置。
どれだけの命が失われるかわからない。
妖精が死にそうなほど必死に抵抗しているのは、自分のためだけじゃない。
自分の力が悪用されることを、心の底から拒んでいる。
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「エルツ」
『ああ』
「この妖精を守りたい。セレスティエの言う「あの者」が来るまでに、何か手を打ちたい」
『どう動く』
「まず、妖精の結界の負担を減らしたい。地脈を勝手に借りなくても済むように、別の方法で守る」
『我が傍にいれば、我の加護で周囲の地脈を安定させられるかもしれぬ。だが、結界そのものは汝たちが考えねばならぬ』
「ダンダン、地脈の流れを感じられるか」
ダンダンが襟から顔を出した。まだ少し怖がっている。でも、ぱちぱちした。
『……できる。ここ、ひどい、けど、できる』
「よし。まず、妖精の結界がどうなってるかを調べよう」
枯れた広場の中央、石碑の裏側に座った。妖精のすぐ近く。妖精が俺を見ている。緑色の目に、少しだけ光が戻った気がした。
「——大丈夫、もう一人じゃないです」
妖精がゆっくりと頭を動かした。枝が折れるような音がした。
『……わらわのために、来てくれたのか』
「はい」
妖精が目を閉じた。涙のようなものが、緑色の頬を流れた。——樹液だった。
助けを求める声が、やっと誰かに届いた瞬間の、涙。
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俺は帳面を開いた。
森の奥で植物系の上位魔物(セレスティエ種、妖精)と遭遇。意志を奪うテイマーから身を守るため、何日も結界を張り続けている。結界の維持に地脈と周囲の生命力を借りざるを得ず、木々と小動物が巻き添えで死んでいる。妖精は自分の魔術が悪用されることを恐れ、抵抗を続けている。
ダンダンが帳面を覗き込んだ。
『フリッツ、たすける、の?』
「うん。でも、どうやってかが問題だ」
座って考えた。
今まで俺がやってきたのは、周囲の魔物の声を集めることだった。
蝙蝠、トレント、虫系、モスリン、半魚人、人魚。複数の声を集めて、情報から状況を組み立てて、解決策を見つける。——魔物ネットワークの効果。
でも、ここには声がない。
枯れた広場。木も、小動物も、全部死んでいる。虫の羽音すら聞こえない。生き物の気配が、妖精以外、何もない。
いつものやり方が使えない。
——じゃあ、どうする。
俺は顔を上げた。枯れた木々の先に、空が見えた。
空。
空には何がいる。鳥がいる。空を飛ぶ魔物がいる。ここの地上が死んでいても、空は別だ。地上の異変に巻き込まれていない。上からなら、この広場の外の状況も見える。——あの者がどこから来るかも。
「エルツ。空を飛ぶ魔物に呼びかけたら、届くと思うか」
エルツが金色の目を俺に向けた。
『……届くかもしれぬ。汝の祝福で、対話術の範囲は以前より格段に広がっている。大声で呼ばずとも、意識を空に向けて呼びかければ、聞こえる距離にいる飛行種族には届くだろう』
「この辺に、大型の飛行魔物はいるか」
『グリュフォン種がいる。この山域の上空を縄張りにしている。我が台地にいた頃、時折すれ違った。賢い種族だ。知性も高い。話が通じるだろう』
グリュフォン。獅子の体に鷲の翼を持つ、空の上位魔物。
試す価値はある。というより、他に方法がない。
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目を閉じた。
あの夜、神様が通してくれた、体の中の魔力の通り道。最近はそれが太くなってきている。声が遠くまで届くのは、この通り道が広がったからだ。
意識を集中した。対話術を使うときの感覚。声を相手に届けるときの、体の芯から出る意志。
それを、空に向けた。
頭の中で、空に向かって呼びかける。——上空に、空を飛ぶ仲間はいますか。声が届く方、聞いてください。
待った。
反応はない。しばらく何も。
ダンダンが肩の上で耳を立てた。
『フリッツ、の、こえ、とおくに、とんでる。ダンダン、わかる。すごく、とおく、まで』
「届いてるんだな」
『うん。でも、まだ、こたえ、ない』
もう一度、呼びかけた。より強く。より遠くへ。
——困っている魔物がいます。力を貸してほしい。地上に降りる必要はない。ただ、話を聞いてもらえるだけでいい。
風が吹いた。
枯れた木々の梢が、かすかに揺れた。
そして——遠くに、声が。
『……聞こえる。小さき者よ。お主の声は、空まで届いた』
鋭い、高い声。鷹が鳴くような響きと、人間の言葉が混じっている。遠い。でも確実に届いている。
「ありがとうございます。俺はフリッツといいます。森の地上で、困っている妖精を助けたいんです。——話を聞いてもらえますか」
『……妖精? 地上の、あの場所か。確かに、近頃あの辺りの空気がおかしい。我々の仲間も、あの空域を避けていた』
「妖精を狙っている人間がいます。意志を奪うタイプのテイマーで、妖精は抵抗するために結界を張り続けていて、限界が近い。力を借りたいんです」
長い沈黙があった。
それから、声が返ってきた。
『……興味深い。人間が魔物を助けるために、空に呼びかけるとは。——待っていろ。仲間と話す。しばしの時間を』
声が遠のいた。
目を開けた。ダンダンが俺をじっと見ていた。エルツが金色の目を細めた。妖精が、不思議そうに俺を見ていた。
「……届いた」
『届いたな。あとは、あの者たちの返事を待つのみだ』
空を見上げた。枯れた木々の上に、青い空が広がっている。何も飛んでいない。まだ。
でも、届いた。声は届いた。この枯れた広場に声を集められなくても、空から来てくれる仲間がいるかもしれない。
いつものやり方じゃない。でも、対話術は対話術だ。座って、呼びかけて、待つ。——これも、俺のやり方だ。
妖精が、震える声で言った。
『……そなたは、ここに声を呼び戻した。枯れた森に、初めて、声が戻った』
枯れた広場に、空から返事が来る。
少しだけ、空気が変わった気がした。




