第二十九話 友魔という言葉
翌朝、村の宿で朝飯を食べてから、ハルツの家に向かった。
ハルツの家は村の外れにあった。古い木造の小屋。屋根に薪が積んである。庭に解体用の作業台があって、近くに狩猟用の道具が整理されている。長年、一人と一匹で暮らしてきた場所だ。
庭にグレイがいた。日向で横たわっている。俺が近づくと、耳だけを動かした。
『……来たな』
「おはようございます、グレイ」
『ハルツは中だ。呼んでくる』
グレイが立ち上がって、小屋の扉を前足で叩いた。器用だ。犬がやるようには見えない、もっと意図的な動作だった。
扉が開いて、ハルツが出てきた。温かい湯気の立つカップを二つ持っている。
「おう、来たな。座れ。茶だ」
庭の丸太の椅子に座った。ハルツが片方のカップを俺に渡した。薬草茶の匂いがする。苦いが、温かい。ダンダンが肩の上でカップの湯気を嗅いだ。
『いい、におい! でも、にがい、かも!』
「ダンダン、お前は飲まないでな」
『ちょっと、だけ?』
「だめ」
ハルツが笑った。
「その小さいのも、賑やかだな」
「よく言われます」
---
しばらく、三人で——正確には二人と二匹で——茶を飲んでいた。朝の空気が澄んでいて、遠くで鳥の声がする。グレイはハルツの足元で丸くなっている。静かな時間だった。
「ハルツさん。一つ、聞いていいですか」
「ああ」
「テイムって、どうやってやるんですか。俺、やり方を知らなくて」
ハルツが少し驚いた顔をした。それから、苦笑した。
「テイマーじゃないのに、興味があるのか」
「知っておきたいんです。昨日、グレイの話を聞いて、『テイム』って言葉の意味が、俺が思ってたのと違うかもしれないと思って」
ハルツが頷いて、茶を一口飲んだ。
「一般的なテイムは、三段階ある」
「三段階」
「一つ目は『契約』。魔物と人間の間で魔力の繋がりを作る。テイマーの間で教わる儀式があって、相手の魔物に触れながら特定の祝詞を唱える。それで両者の魔力に印がつく。ギルドカードにも記録される」
祝詞。魔力の印。
「二つ目は『訓練』。契約だけでは魔物は命令を聞かん。人間の言葉を理解させて、指示に従うように教え込む。時間がかかる。何ヶ月もかけて、餌と罰で覚え込ませる」
餌と罰。
「三つ目は『従属化』。長年の訓練で、魔物が人間の命令を自分の意志より優先するようになる。ここまで来ると、魔物は命令に逆らえなくなる。——これが『テイマー』と呼ばれるようになる完成形だ」
「命令に、逆らえない」
俺の胸の奥で、何かが冷たくなった。
「でも、グレイとは違いますよね」
ハルツが頷いた。
「俺はグレイに契約の儀式はしている。だが、訓練もしていないし、従属化もしていない。こいつは自由だ。いつでも去れるし、いつでも戻れる」
「契約だけ、ですか」
「ああ。儀式で魔力の印をつけて、ギルドカードにも登録してある。それだけだ。命令も指示もしていない」
「なんで契約だけは?」
ハルツが茶を一口飲んだ。
「村のやつらが安心するからだ。契約のないでかい狼がうろついてたら、村人は怖がる。『ハルツの連れ』という肩書きがあれば、村に出入りしても誰も騒がない。子供も怖がらない」
「ギルドカードに登録されてることで、グレイも守られる?」
「そうだ。この辺は田舎だが、他所から来た連中が『無主の野生魔物だ』とグレイを狙うことがある。カードに登録があれば、それは通らん。紙切れ一枚で、こいつの身が守られる。——儀式くらい安いもんだ」
契約だけ、という関係。訓練も従属化もしない。でも、形式上の繋がりだけは作って、お互いの立場を守る。
俺は「テイムしない」を貫いた。エルツは客人として扱われている。でもそのためにカスパルの特例措置が必要だった。ハルツの「契約だけ」は、特例を必要としない。紙切れ一枚で済む。それぞれの賢さがある。
「でも、共生なのは変わらないんですよね」
「変わらん。中身は共生だ。契約は形式だけ。村のやつらは俺を『テイマー』と呼ぶが、俺とグレイの間には命令関係はない」
---
俺は茶をもう一口飲んだ。苦味が舌に残る。温かさが胃に落ちる。
「じゃあ、悪質なテイマーっていうのは——」
「三段階目の従属化を、無理やり短縮するやつらだ。魔力の契約を強化して、魔物の意志を上書きする。本人がやりたくないことでも、強制的にやらせる。そういうテイマーがいる。今は数が増えてる。もちろん違法だ」
神様が言っていた。「悪い者には近づくな」。たぶんそれだ。意志を上書きするテイマー。
「村ではあまりそういう話は聞きませんが」
「こんな田舎の村に、そんな連中は来ない。連中がいるのは、もっと大きな街だ。戦闘で魔物を使い潰すやつらだ。——あんたがもし戦闘テイマーと会うことがあったら、気をつけな。話が通じない相手だ」
俺は頷いた。帳面にメモしておきたかったが、手が動かなかった。あとで書こう。
---
しばらく、また沈黙が落ちた。グレイが軽く欠伸をした。
「ハルツさん」
「ん?」
「昨日、『古い話』があるって言ってましたよね」
ハルツが少し遠い目をした。それから、小さく笑った。
「ああ。そうだった。——あんたがグレイと話してるのを見て、思い出したんだ。俺が子供の頃の話だ」
「子供の頃」
「六十年以上前だな。俺はこの村で生まれて、この村で育った。その頃は、テイマーなんて言葉はほとんど使われていなかった」
「え?」
「正確には、存在はしていた。だが、一般的じゃなかった。魔物と人間の関係は、もっと——なんていうか、自然なもんだった。契約もしないし、訓練もしない。ただ、仲良くなる。それだけだ」
仲良くなる。それだけ。
「俺が十歳くらいの頃、村の裏山に小さな狐みたいな魔物がいてな。毛が赤くて、尻尾が二股に分かれてた。俺はそいつと友達だった。毎日裏山に行って、一緒に遊んだ。木の実を分けたり、追いかけっこをしたり」
「その魔物、名前はあったんですか」
「『キツネ』って呼んでた。種族名じゃなくて、個体の名前として。あいつもたぶん、俺のことを何か呼んでたんだろうな。当時は対話術なんてものは知らなかったから、こっちには聞こえなかったが」
ハルツが遠くを見た。
「村にはそういう子供がたくさんいた。俺だけじゃない。裏山の狐、川の亀、森の鳥、畑の虫。みんな、誰かしらと友達だった。大人たちもそれを咎めなかった。『子供のうちは魔物と遊ぶもんだ』って言ってな」
「……俺の村もそうです」
「うん。そうだろうと思った。あんたの気配は、その頃の子供たちに似てる」
ハルツはお茶をすすって、一息入れた。
「で、俺たちはその関係に名前をつけていた」
「名前」
「『友魔』だ。友達の友に、魔物の魔。友魔」
——友魔。
口の中で転がしてみた。初めて聞く言葉なのに、すとんと入ってくる。
「友魔……」
「契約も訓練もない。ただ、お互いに相手を気に入って、一緒にいる関係。魔物が人間に命令されることもないし、人間が魔物に餌で釣ることもない。お互いに何もしない。ただ、隣にいる」
「それが、友魔」
「ああ。昔は、この言葉が普通に使われていた。村の年寄りは誰でも知ってた。——だが、俺が二十歳になる頃には、誰も使わなくなっていた」
「なぜですか」
ハルツがしばらく考えた。それから、ゆっくりと言った。
「テイマーという職業が広まったからだ。隣の領地の方から、テイマー文化が入ってきた。魔物を使って仕事をする。戦闘、荷運び、警備、狩り。効率がいい。金になる。——その代わり、友魔のような関係は、『役に立たない』とされた」
「そんな」
「遊びだ、と言われた。子供の遊び。大人がやるもんじゃない、と。だから、みんな友魔をやめて、テイマーになった。あるいは、魔物と関わるのをやめた。どっちかだ」
ハルツの声に、少しだけ寂しさが混じっていた。
「俺の村では、今でも子供たちが魔物と遊んでますよ」
「そうか。それは、良い村だな」
ハルツが微笑んだ。
---
「……あんたは、友魔の子だ」
ハルツが俺を見た。
「あんたとエーデルホルンの関係。昨日見てて、わかった。あれはテイムじゃない。——友魔だ。古い言葉で言うなら」
「ハルツさんとグレイも、そうですよね」
ハルツが少し驚いた顔をして、それから照れたように笑った。
「……そうだな。契約はあるが、中身は友魔だ。俺は『テイマー』と呼ばれているが、やってることは子供の頃のキツネと同じだ。ただ隣にいるだけ。紙切れ一枚が違うだけで、本質は変わっとらん」
友魔。
自分のやり方に、初めて名前がついた瞬間だった。
ずっと「対話術」という言葉で呼ばれていた。でもそれはスキルの名前であって、関係の名前ではなかった。エルツとフリッツの関係、ダンダンとフリッツの関係、ムックとフリッツの関係。全部「友魔」という言葉で説明できる。
——昔は、この関係に普通の名前があったのか。
「ハルツさん」
「ん?」
「友魔って言葉は、古い言葉じゃないです。」
「ほう」
「俺の村では、まだ残ってる。ハルツさんは覚えてる。忘れてない人がいれば、言葉は残ります」
ハルツが少しだけ目を細めた。それから、笑った。
「……十三の子供に諭されるとは思わなかった」
「すみません」
「謝るな。俺は嬉しい」
---
茶を飲み終えた。
ハルツが立ち上がって、作業台の方に行った。古い木箱の中から、何かを取り出した。戻ってきて、俺に差し出した。
小さな赤い毛玉だった。乾燥した、古いもの。
「キツネの毛だ。こいつが最期に落としていった。どこかに行ったきり、戻ってこなかったから、死んだんだと思う。俺はこれを取っておいた」
「……大事なものじゃないんですか」
「大事だ。だから、あんたに一つ分ける」
ハルツが毛の束を小さく分けた。乾燥させた草の紐でくくって、小さな巾着に入れて俺に渡してくれた。
「友魔の証拠だ。あんたが持ってろ。——あんたの友魔の子孫に、いつか見せてやれ。昔々から、こういうふうに魔物と人間が暮らしていた時代があった、と」
巾着を受け取った。軽い。小さい。でも、六十年前の誰かの友達の一部だ。
「ありがとうございます」
「いや、こっちが礼を言いたいくらいだ。あんたに会えて良かった。忘れたと思っていた言葉を、もう一度口に出すことができた」
---
エルツに乗って、ハルツとグレイに手を振った。グレイが耳をぱたりと動かした。ハルツが小さく頷いた。
森の入り口で、ハルツが最後に言った。
「森の奥の木の枯れ方、俺もずっと気になってた。あんたが何か見つけたら、戻って教えてくれ。俺とグレイは、しばらくこの村にいる」
「わかりました」
森に入る前に、グレイが俺を見た。
『お前は、友魔という言葉を知った。それは良いことだ。——だが、忘れるな。友魔も、テイマーも、共生も、どれが正しいかではない。それぞれが、それぞれの形で関係を結んでいる。我のような狼もいれば、お前のような人間もいる』
「覚えておきます」
『森の奥には気をつけろ。——無事に戻ってきたら、また茶を飲もう』
「はい」
グレイが耳を伏せた。別れの挨拶らしかった。
---
森に入った。エルツの足音が落ち葉を踏む音に変わった。ダンダンが肩の上で耳を立てている。
帳面を開いた。今日のメモ。
ハルツさんから『テイム』の仕組みを聞いた。契約・訓練・従属化の三段階。悪質なテイマーは従属化を強制で短縮する。意志を上書きする。——神様が言っていた『悪い者』はこれだ。
下にもう一行。
『友魔』という言葉を教わった。契約も訓練もなく、ただ仲良くなる関係。俺のやり方に、初めて名前がついた。古い言葉で、今は使われていない。でも、俺の村ではまだ残ってる。ハルツさんも覚えてる。忘れてない人がいれば、言葉は残る。
さらに一行。
ハルツさんが子供の頃の友魔の毛を分けてくれた。赤い毛。六十年前の友達。——大事にする。
赤い毛を巾着にいれたまま、帳面の裏表紙の裏に、大事に挟んだ。
エルツが森を進んでいた。
「友魔」という言葉を、心の中で何度も繰り返した。
——俺は、友魔の子だ。
それは、なんだかとても、落ち着く言葉だった。




