第二十八話 強くあること
パスハイムを出てから二日目。
街道を北東に進んでいた。エルスト方面とは逆の方角だ。景色が少しずつ変わっていく。山の斜面から、丘と森が混在する地帯へ。空気が湿っている。木が多い。
二日目の昼、小さな村に着いた。
北東の森の入り口の村。家が二十軒くらい。街道沿いに宿が一軒ある。地図によると、ここから森に入って半日進んだところが、木の枯れ方が異常だという報告の場所だ。
村で昼飯を食べるために宿に寄った。エルツは村の外の広場に繋いだ——繋いだというか、横たわらせた。村人が遠巻きに見ていたが、悲鳴は上がらなかった。Cランクの冒険者証と鑑定記録が先に届いていたのかもしれない。
宿の主人が出してくれたのは、パンと肉のスープと、酸味のあるチーズ。ダンダンに肉のかけらを一つやった。ダンダンは尻尾を鳴らして喜んだ。
「フリッツさんでしたか。ギルドからの通達で、冒険者の方が来るとは聞いていたんですがね。森の調査だそうで」
「はい。木の枯れ方が異常だという報告を受けて」
「ああ、あれね。北の斜面の方だよ。最近になって急にね。原因はうちらの誰にもわからない」
主人がテーブルに肘をついた。
「森に入るなら、気をつけてくださいよ。狼系の魔物がいる。群れで動くやつ。村の近くには来ないが、森の奥には縄張りがある」
「狼系、ですか」
「ああ。ただ——うちの村には一匹、別の狼がいるんだよ」
「別の狼?」
「ハルツさん家の。ハルツさんっていう老狩人が、狼系の魔物を相棒にしてる。名前は……グレイ、だったかな。長いこと一緒にいるから、村では珍しくもないんだが、他所から来た人には驚かれるんで、先に言っとくね」
老狩人と相棒の狼。
——まともなテイマーか。
帳面にメモしようとして、手が止まった。たぶん、この人に会うだろう。先にメモするより、会ってから書きたい。
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昼飯を終えて、村の広場に戻った。エルツが伸びていた。ダンダンがエルツの前足の上で転がっている。のんびりした昼だ。
「エルツ、これから森に入る。狼系の魔物がいるらしい」
『ほう。群れか』
「たぶん。あと、村の近くに老狩人が住んでて、狼を相棒にしてるって」
『テイマーか』
「うん。たぶん、納得してテイマーと組んでる魔物」
エルツが金色の目を少しだけ細めた。
『汝が観察したかったものだな。会えるかもしれぬ』
「会えるといいな」
話しているうちに、広場の向こうから足音が聞こえた。
来た。
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老狩人だった。
七十歳くらいだろうか。白い髭。日焼けした顔。背中に狩猟用の弓。腰に解体用の大きなナイフ。古い革のコート。動きに無駄がない。長年森で生きてきた体の動きだ。
そして——彼の隣を、狼が歩いていた。
大型の狼系魔物。肩までの高さが俺の胸くらい。灰色の毛。金色の目。体つきが鋭い。走っていないのに、いつでも走り出せる姿勢をしている。
俺とエルツを見て、老狩人は少し目を細めた。驚いた様子はなかった。予想していたような顔だった。
「あんたが話題の冒険者か。エーデルホルン連れの」
「フリッツです。はじめまして」
「ハルツだ。こっちがグレイ」
老狩人——ハルツが、狼の背中を軽く叩いた。グレイと呼ばれた狼は、動かなかった。じっと俺を見ている。
——声が聞こえる。
『……この人間、少し違う。匂いが、他の人間と違う』
低い声だった。整っている。狼系の魔物の声は、こういう感じなのか。落ち着いていて、冷静で、でもどこか野生の鋭さを残している。
「こんにちは、グレイ」
狼の耳が動いた。それから、ゆっくりと俺を見た。
『……人間、この声は何だ。今、お前が話しかけたのか』
「はい。対話術というスキルで話しています」
ハルツの眉が上がった。
「あんた、グレイと話せるのか」
「話せます。今、お互いの声が届いています」
ハルツが唸った。それから、小さく笑った。
「そうか。話題の冒険者ってのは、そういう意味か。——グレイ、何か言いたいことがあれば言ってみろ」
ハルツがグレイに言った。グレイが俺を見た。金色の目がじっと動かない。
『……質問がある。お前は、我と話せるなら、我が何のために戦うのかを聞いてくるのか』
「……聞いていいんですか」
『許す』
「なぜ、戦うんですか」
静かに聞いた。対話術の基本だ。相手の答えを先回りしない。待つ。
グレイはしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと答えた。
『戦うことが、我の存在意義だからだ』
「存在意義……」
『我は狼だ。群れの中で生まれた。狼の群れでは、順位が強さで決まる。強い個体が上位に立ち、弱い個体は端に追いやられる。——我は、上位を目指したわけではない。ただ、強くあることが、我の欲求だった。戦いに自分の全てを注ぐことが、我の生き方だった』
「でも、群れを離れて、人間と組んでる」
『群れの中では、戦う相手が限られる。同族だけだ。同族との戦いには飽きた。もっと強い相手、もっと多様な相手と戦いたかった。だが、一匹で森を出れば、他の種族に囲まれて死ぬ。だから、人間と組んだ』
グレイの声は冷静だった。怒りも悲しみもない。ただ事実を述べている。
『ハルツは狩人だ。彼は獣を狩る。獣を狩るためには、強い相棒が必要だ。そして我は、戦う相手が必要だ。我々の需要は一致した。——それだけだ』
「……それだけ、で組んでるんですか」
『それだけだ。友情でも愛情でもない。利害の一致。だが、互いを信頼している。彼は我を道具として使わない。我は彼を主人として崇めない。我々は対等なパートナーだ』
対等なパートナー。
エルツと俺の関係も対等だ。でも質が違う。俺たちは「お互いに相手の存在を喜んでいる」関係だ。グレイとハルツは「お互いに相手の機能を必要としている」関係だ。
どちらも対等。でも違う。
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「でも、グレイは獲物を殺すでしょう。それは——嫌じゃないんですか」
グレイの金色の目が少しだけ変わった。怒った、のではない。何かを考えている目だ。
『お前は殺すことを嫌うのか』
「嫌います。できれば、殺さないで済む方法を探したい」
『なぜだ』
「……命を奪うことが、取り返しがつかないから。一度死んだら、もう話せない」
グレイがしばらく沈黙した。それから、深く考えるように唸ってから言った。
『お前の価値観は理解する。だが、我のそれとは違う。我にとって、狩りは生命の循環の一部だ。狼が獣を狩り、獣が草を食み、草が土から生える。狼も、いずれ死ねば土に還る。その循環の中で、強い個体が狩る側に立ち、弱い個体が狩られる側に立つ。それは残酷ではない。自然だ』
「……」
『お前は狼ではない。人間だ。だから、人間の価値観で生きればいい。我は狼だ。だから、狼の価値観で生きる。——どちらが正しいという話ではない』
正論だった。
——俺の対話術は、グレイの言葉を全部聞き取れる。声の色も感じる。グレイの声の色は、静かな青だ。怒りでも恐怖でもない。確信の青。自分の生き方を確信している者の色。
俺がどれだけ「殺さないで」と言っても、グレイの確信は揺らがない。揺らがないのが正しい。揺らがないほうが、グレイ自身が幸せだ。
それは——俺にはできない生き方だ。でも、グレイには正解の生き方だ。
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「……わかりました」
短く答えた。グレイの耳がぴくりと動いた。
『わかった、とは?』
「……俺、ずっと思ってたんです。対話できれば、戦わずに済むって。話せれば、殺さずに済むって。でも、それは俺の願いであって、相手の願いじゃないんだって、今、わかりました」
グレイが俺を見た。金色の目が少しだけ緩んだ。
『お前は、若いわりに理解が早い』
「遅いかもしれません」
『いや、早い。ほとんどの人間は、我に向かって『可哀想だ』と言うだろう。『人間に使われている』『自由を奪われている』と。そう言われるたびに、我は困惑する。我は選んだのだ。使われているのではない。選んだのだ』
「選んだ、を尊重します」
グレイが頷いた。狼が頷く仕草は、意外にゆっくりしていて、重かった。
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ハルツが横で、腕を組んで聞いていた。俺とグレイの会話を、俺が訳すわけでもなく、ただ様子だけを見ていた。でも、何かを察していたらしい。
「……話は終わったか」
「はい」
「グレイは何て言ってた」
「自分の生き方を、俺に説明してくれました」
「そうか」
ハルツが笑った。静かな笑いだった。
「こいつはな、五年前から俺と組んでる。最初に会ったとき、こいつはすでに群れを離れてた。俺が狩りをしていて、こいつが横から現れて、獲物を奪おうとした。俺が『分けよう』と言ったら、こいつが首をかしげた。——そこから始まったんだ」
「分けよう、ですか」
「ああ。俺はもう歳だ。大きな獲物は一人で運べない。こいつは強い。二人で狩って、二人で運んで、半分ずつ。それが最初の取引だった」
ハルツの声に、グレイを見る時の柔らかさがあった。
「今でもそうだ。俺は指示しない。こいつも命令を聞かない。ただ、お互いに必要なことをする。それだけだ。それで、五年」
五年。対等なパートナー。必要なことをする。
——テイマーという言葉が持つ「使う/使われる」の構造とは、違う関係。
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「ハルツさん」
「ん?」
「グレイは、幸せですか」
ハルツが少しだけ驚いた顔をした。それから、グレイを見た。グレイが主人を見返した。
「わからん。俺は狼じゃないから、こいつの幸せはわからん。でも、嫌なことがあればこいつは去る。今も去ってない。だから——去る理由はないんだろうな」
『幸せとは何だ』
グレイの声が割り込んだ。俺だけに聞こえる声。
「自分の生き方を、自分で選べていることだと思います」
『ならば、我は幸せだ』
グレイの金色の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
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別れ際、グレイが俺に言った。
『お前は、我の群れの者ではない。だが——良い話ができた。礼を言う』
「こちらこそ」
ハルツが空を見上げた。日が傾き始めている。
「森に入るのは明日の朝にしろ。もう日が暮れる。村の宿に泊まって、明日の朝、早く出たほうがいい。森の入り口までは俺が案内してやる」
「いいんですか」
「ああ。俺も森に入る用事があるし、ついでだ」
それと、と付け加えた。
「明日の朝、もう少し話したい。あんたとグレイの話を聞いていて、思い出したことがある。古い話だ」
古い話。——何の話だろう。
「わかりました。村で泊まります」
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村の宿に戻った。エルツは村の外の広場で一晩過ごすことになった。ダンダンは俺と一緒に宿の部屋に。
寝台に横になって、帳面を開いた。
今日のメモ。
老狩人ハルツと狼グレイ(狼系魔物)。五年組んでいる。対等なパートナー。グレイ曰く、戦うことが存在意義。群れの順位と個の強さを証明するために組んでいる。殺すことへの違和感なし。『狼は狼の価値観で生きる』。俺の対話術は通じた。グレイの生き方を変えることはできなかったし、変える必要もなかった。——俺のやり方だけが正しいわけじゃない。
ダンダンが胸の上で丸くなった。
「エルツ、今日の話、どう思った?」
窓の外から、エルツの声が聞こえた。
『良い話だった。汝が学ぶべきものを、汝が自分で見つけたな』
「……対話って、相手を変えることじゃないもんな」
『我も、汝と会ったときに変わってはおらぬ。汝と出会ったことで、繋がりが戻っただけだ。我の本質は変わらぬ』
エルツの。グレイの。ハルツの。俺の、本質。
みんな、違うまま、隣にいる。
——それで、いいんだ。
明日の朝、ハルツさんがどんな「古い話」をしてくれるのか。少しだけ楽しみだった。




