第二十六話 灰色じゃないやかん
ギルドを出たら、日が傾いていた。
前哨基地に戻るには遅い。エルツの足でも夜になる。山道を夜に登るのは危ない。フリッツの足が痛むなら別だが、エルツの背中に乗っても、夜の山は見通しが悪い。
「エルツ、今日はこの街で泊まるか」
『この街で? ……汝、構わぬのか』
「大丈夫。たぶん」
たぶん。前回ここで殴られた。その記憶はまだ体に残っている。横腹の打ち身の跡は薄くなったが、消えてはいない。
でも、今日は違う。鑑定記録がギルドに残った。ステータスが公開された。街中にエルツがいて、冒険者証を見せれば誰も手を出さない。——たぶん。
ダンダンが肩の上で耳を立てた。
『フリッツ、おなじ、まち? こわい、まち?』
「うん。でも、今日は大丈夫だと思う」
『……ダンダン、まもる! ぱちぱち、する! こわかったら、ぱちぱち!』
頼もしい。手のひらサイズの守護者だ。
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宿を探した。エルツが入れるような場所がある宿は限られている。街道沿いの大きな宿屋が、馬車用の厩舎を持っていた。
主人に交渉した。Cランクの冒険者証を見せた。エーデルホルンを厩舎に泊めたい、と。
主人が冒険者証を見て、それからエルツを見た。固まった。それから、深く息を吐いた。
「……噂のCランクの冒険者か。地脈の結晶を持ち帰ったという……今朝からギルドの連中が話していた」
「はい」
「厩舎は使ってくれ。馬車一台分の広さなら確保できる。ただし、街中で何かあっても責任は負えない」
「街中では何もしません。大人しく泊まるだけです」
主人が頷いた。それから、少しだけ表情を緩めた。
「……前にうちの街で揉め事があったと聞いている。お前さんが殴られたとも。すまなかったな。あの三人はうちの常連客だったが、今は出禁になっている」
「ありがとうございます。でも、あの人たちは法に従ってただけなので」
「法に従ってても、十三歳の客人を殴るのは違うだろう」
客人。前回は「無主の魔物の連れ」だった。今は「客人」として扱われている。
実績ひとつで、人の見方は変わるんだ。
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厩舎にエルツを案内した。藁が敷いてある。馬用の水桶もある。エルツが体を入れて、横たわった。
『……我は馬ではないのだがな』
「文句言うなよ。藁があるだけマシだ」
『文句ではない。事実を述べているだけだ』
居住区の倉庫棟に比べたら狭い。でも、雨と風はしのげる。
ダンダンが俺の肩から飛び降りて、エルツの前足の上に乗った。エルツの足の上で丸くなった。
『ダンダン、ここ、いる! エルツ、と、いっしょ!』
「お前は俺と部屋に泊まるんじゃないのか」
『……あ。フリッツ、と、いっしょ、も、いい』
迷っている。エルツの体温も俺の寝床も、両方好きらしい。
「夜中はエルツと一緒でいいよ。明日の朝、迎えに来る」
『うん! ダンダン、エルツ、まもる! ぱちぱち!』
エルツが首を低くして、ダンダンの上に鼻先を寄せた。
『……我を守るのか。心強いことだ』
『うん! まもる!』
悠久を生きる神の眷属が、手のひらサイズのモスリンに守られている。
うーん絵面が壮絶だ。
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部屋に入った。二階の角部屋だった。窓が二つあって、通りが見下ろせる。やかん亭より広い。寝台も大きい。
荷物を下ろして、寝台に座った。久しぶりに屋根のある場所で、寝台で寝られる。前哨基地の寝台は硬かった。山道の岩陰は岩だった。今日のはちゃんと布団がある。
窓の外を見た。日が落ちて、街に灯りが点き始めている。エルストより明るい。建物が高いから、灯りも多い。
——前回、ここを通った時は、エルツの背中の上から見下ろしていた。値踏みの目に晒されて、エルツの隣で居心地が悪くて、早く出たいと思っていた。
今は、上から見下ろしている。違う街みたいに見える。
灯りの中を、テイム済みの魔物がまだ働いている。荷運びの大型犬。警備の獣。前回見たときと同じ光景だ。声も、たぶん同じ。「言われた通りに在ること」を当たり前にしている声。
でも、前ほど居心地が悪くない。慣れたわけじゃない。納得したわけでもない。ただ——あれが「ここの普通」なんだとわかった。俺の村と違うだけで、悪いわけじゃない。たぶん。
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お風呂に入ってから、寝台に横になった。久しぶりに体が伸びた。
目を閉じた。今日はもう何もしない。明日の朝、エルツとダンダンを迎えに行って、街を出る。それでいい。
——そのとき。
体の中に、温かいものが流れた。
魔力だ。最近、魔術修行で感じるようになった、あの細い道の感覚。でも今、誰も発動させていないのに、勝手に流れている。
それから、声が来た。
エルツの中継ではなかった。エルツは外の厩舎にいる。なのに、声が直接届いた。
『……届くかな。直接届くかな。今、……君に直接話しかけてる』
神様だ。
「……届いてます。なんで直接?」
『君の魔力の通り道がだいぶ広がったから。あの子を介さなくても、君の中に直接入れるようになった。試してみたかった』
体の中で声がする。耳ではなく、頭の中でもなく、体の真ん中で。あの稜線で「知らない風」を感じたあの場所と同じところに、今、神様の声がある。
『水源の話、聞いた。半魚人と人魚。それから、種族を超えた二匹のこと。エルツが玉を割ったことも』
「全部見てたんですね」
『見てた。もうずっと君を見てる。でも、今日はちゃんと話したくて。——よくやった。本当に。あの結晶は厄介だった。誰かが割らないと地脈が死んでた。私もずっと気にしていたが、直接手を出せない。君が来てくれて、エルツが割ってくれて、そして君があの二匹の声を見つけてくれた』
「俺は声を聞いただけです。実際に動いたのはエルツとあの二匹で——」
『聞くことが一番難しいんだ。私は何千年も聞いてきたが、聞いて、見つけて、場を作るというのは、君のような存在にしかできない。私は触れられない。声を出せない。見ているだけだ。——だから、君がいる』
神様の声が、いつもより落ち着いていた。前のめりの懇願ではない。静かな感謝。
「……ありがとうございます」
『ありがとうを言うのはこっちだ』
しばらく沈黙があった。神様が何かを考えている気配。それから、急に温度が変わった。
『——で、さっそく何だけど、ダンダンの話を聞かせてほしい』
「その前に。一つ言っていいですか」
『うん?』
「ダンダンに祝福ついてましたよね。ヘルダの簡易鑑定で出ました。魔力親和」
神様が一拍黙った。
『……バレちゃったか』
「バレますよ。あれだけ目立つ光を出してたら」
『えへへ』
「えへへ、じゃなくて」
『だって、可愛かったから……。あの夜、君が殴られて、あの子が雷を落として、ダンダンが黙り込んで、尻尾も打たなかった。あんなふうになるのは見ていて辛くて。何かしてあげたくて。気がついたら祝福を送っていた』
「気がついたら、で祝福って送れるんですか」
『送れる。だって私だから』
全知の存在が「私だから」で済ませた。
『それに、ちゃんと役に立つ祝福にしたよ。魔力親和。モスリンは苔を纏う種族で、苔は地脈に近い植物だから、ダンダンは地脈を直接感じ取れる。君の地脈調査の助けになる』
「……それは確かに助かりましたけど」
『ね? 役に立つでしょ? かわいいだけじゃないでしょ?』
言い訳が早い。
「全部本当ですか。かわいいから祝福を送ったんじゃなくて、最初から地脈調査のためだったんですか」
『……両方』
「両方?」
『両方。かわいいのが先で、役に立つのが後付け。でも両方本当』
正直な神様だった。
「まあ、いいです。ダンダンも喜んでるし、修行も楽しそうだし」
『ありがとう。怒られると思った』
「怒らないですよ。むしろ感謝してます。あの夜、ダンダンを守ろうとしてくれたんですよね」
『……うん。——で、ダンダンの話を聞かせて。お風呂で水に入ったって本当か? どんなふうに入った? 濡れたら毛がぺったりした? 乾いたら膨らんだ?』
露骨に話題を変えた。照れているのかもしれない。
全部見てるくせに、聞きたがる。
「全部見てたんでしょう」
『見るのと聞くのは違う。君の口から、君の感じたままで聞きたい。映像じゃなくて、言葉で。そういう供物だ』
供物。そうだった。俺が話を聞かせる、神様が祝福をくれる。
話した。
お風呂のこと。ダンダンが水に入って「つめたい! すき!」と言ったこと。茶色い毛が水に濡れてぺったりして、いつもの三倍くらい小さく見えたこと。乾いた後にまた三倍に膨らんで、耳が大きく見えたこと。鼻先を石鹸の泡に突っ込んで、くしゃみをしたこと。
神様が静かに聞いていた。
『……良いな。良い』
「良い、って何が」
『君の話し方が良い。ダンダンの動きを覚えていて、声を覚えていて、匂いを覚えている。私には五感がない。だから君の感覚を借りたい。——もう一つだけ。あの子が宝玉を割ったときの音は、どんな音だった?』
「轟音でした。雷が落ちる音。でも怒りじゃなくて、もっと——なんていうか、決意の音」
『決意の音』
「うん。三刻待って、十分話を聞いて、それでも譲らない両者を見て、エルツが『もう良い』と言ったときの声。あれが先にあって、それから雷が落ちた。雷の音は、その『もう良い』の続きだった気がする」
神様がしばらく黙った。
『……君は本当に、聞くのが上手いな。私が見ていたものを、君は感じている。映像では見えないものを』
「神様の方が上手いと思いますけど」
『私は遠すぎるんだ。全てを見ているから、何も見ていないのと同じだ。君は近くで見ている。だから、本当に見ている』
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話を続けた。
ヘルダの簡易鑑定のこと。エルツに「加護」がついているとわかったときの、ヘルダの手の震え。エルツの「呼吸を意識しないのと同じだ」という言葉。
水源で半魚人と人魚の言い争いを三刻聞いたこと。エルツが「もう良い」と言った瞬間の、泉全体が震えた感覚。
種族を超えた二匹の声の色。怒りでも恐怖でもない、青い声。
ギルドで地脈結晶が「歴史上四例目」と言われたこと。鑑定室でステータスが公開されたこと。
全部話した。
神様が時々、相槌を打った。「うん」「ふむ」「それで」と。
普通の人間の聞き方だった。神様らしくなかった。
『——たくさん聞かせてくれてありがとう。もう遅いな。君は寝るといい。私はずっとここにいる。明日も見ている。明日も話してくれるとうれしい』
「明日は街でテイマーを見て回ろうかと思ってます」
『……テイマーを』
「ステータス公開で、もう手を出されなくなったので。少し、観察してみたい。前回はゆっくり見られなかったし」
神様が少し黙った。
『……気をつけて。観察するのは良いが、テイマーの中には善い者も悪い者もいる。善い者を見て、対話術の限界を知るのは良いことだ。だが、悪い者には近づくな。あれは——君の手に余る』
「悪い者って何ですか」
『……いずれわかる。今は言わない。気をつけて、とだけ』
神様の声が、少しだけ重くなった。
全知の存在が「いずれわかる」と言うのは、たぶん、わざと言わない。フリッツが自分で気づくほうがいい何かが、先にある。
「わかりました。気をつけます」
『うん。おやすみ』
体の中の温かさが、少しずつ薄れていった。神様の声も遠のいた。でも、完全に消えはしなかった。微かに、まだそこにいる。見ている。
目を閉じた。
久しぶりの寝台は柔らかかった。窓の外で街の灯りが揺れている。エルツは厩舎で眠っていて、ダンダンがエルツの足の上で丸くなっているだろう。
全部、ここにある。
明日は、テイマーを見に行く。




