第二十三話 水の底の声
朝、ヘルダに裏の沢を教えてもらった。
「湧き水が出てる。冷たいが、体くらいは洗える。石鹸は棚にある。使っていい」
旅に出てから何日だろう。山道を歩いて、岩陰で寝て、殴られて、修行して。汗と土と、たぶん血の匂いも少し残っている。
沢に行った。岩の間から水が湧いている。冷たい。手を入れたら指先が痺れた。
「……冷たっ」
ダンダンが肩から飛び降りて、水際まで行った。前足を水に突っ込んだ。
『つめたい! すき! つめたい、すき!』
やっぱり水が好きだった。寝言の通りだ。そのまま体ごと水に入った。茶色い毛が水に濡れて、ぺったりと体に貼りついた。普段のふわふわが嘘のように小さくなった。
『……ダンダン、ちいさく、なった?』
「毛が濡れただけだよ」
石鹸で体を洗った。冷たいが、汚れが落ちていくのがわかる。横腹の打ち身はもう痛まない。祝福のおかげだ。跡は残っているが、色が薄くなっている。
ダンダンも洗った。苔の匂いは水で洗っても消えなかった。こいつの匂いは毛の表面ではなく、もっと奥から来ているらしい。
体を拭いて、着替えた。久しぶりに体が軽い。
『フリッツ、いい、におい、する! きれい!』
「お前もな。……ふわふわに戻ったな」
乾いたダンダンは、濡れていたときの三倍くらいに膨らんだ。毛が全方向に立っている。耳がいつもより大きく見えた。
「エルツは……また街にもどったらお湯を使ってやろうと思うけど、櫛で溶かしておこうか」
『うむ。我もあの櫛は好きだ』
ブラッシングがお気に入り。帳面に書いておこう。
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水源に向かった。前哨基地から北に半日。エルツの足なら二刻。
道は沢沿いに続いている。登るにつれて水の音が大きくなった。沢が広がっている。岩の間を縫って流れる水が、上流から来ている。
——だが、確かに水量が少ないのが見て取れた。
沢底の岩が露出している。本来なら水の下に沈んでいるはずの岩肌が、乾いて白くなっている。水位が下がった痕跡だ。
ダンダンが肩の上で耳を立てた。
『……フリッツ。なんか、ある。ぱちぱち、する、と……なんか、くる。した、から』
「下から?」
『うん。じめん、の、した。なんか、ながれてる。でも……つまってる? つまってる、みたい』
ダンダンの「ぱちぱち」が地脈を感じている。地面の下に何かが流れていて、それが詰まっている。
「エルツ、聞こえた?」
『聞こえた。この子が感じているのは地脈の流れだろう。詰まっている、というのは……地脈の流路が何かに塞がれている、あるいは吸われているということか』
帳面にメモした。
水源手前:ダンダンが地脈の詰まりを感知。地面の下で何かが流れを阻害している。
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水源に着いた。
広い。沢が合流する地点に、岩に囲まれた泉がある。泉の底から水が湧いている——はずだが、水位が低い。泉の縁に水跡がある。本来の水面は、今より腕一本分は高かったはずだ。
そして——声が聞こえた。かなりの数、たくさん。
祝福で広がった対話術の範囲に、複数の声が飛び込んできた。水の中から。水面の近くから。岩陰から。
二種類の声だ。質が全然違う。
一つ目。泡のような声。短い言葉が、ぽこぽこと水の中から浮かんでくる。
『——こっち、の、たま。こっち、の。おまえ、の、じゃない。こっち、の、ひかり。ないと、こまる。』
『——しめだす。でていけ。ここ、おれたち、の、ば。』
『——たま、わたすな。わたしたら、おしまい。くらい、なる。』
半魚人系だ。群れで話している。声が重なる。一匹一匹の声は短くて荒い。虫系の短さに近いが、もっと湿っている。水を通してくるから、音がまるい。
もう一つ。水面を滑るような声。
長く、透き通っている。一つの文が波紋のように広がる。
『……あの玉は我らの水を清める力。なければ卵が育たぬ。汚れた水では子は生まれぬ。なぜわからぬ……』
『……あの者たちは力で奪おうとする。対話にならぬ。声が届かぬ……』
人魚の群れだ。声が長い。エルツの古風さとは違うが、言葉が整っている。透明感がある。水面を伝って届く声は、空気中の声とも地中の声とも違う。波紋のように広がって、遠くまで届く。
二種類の声が、水源の中でぶつかり合っている。
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泉の岸に立って、中を覗いた。
水は透明だ。底が見える。岩と砂。それから——光っているものがある。泉の底、中央に近い場所に、拳大の玉が沈んでいる。淡い青白い光を放っている。
宝玉のような、美しいものが見えた。
玉の周りで、影が動いている。
半魚人だ。三匹か四匹。灰緑色の体。人間の子供くらいの大きさで、魚の鱗と人の手足を持っている。玉の周りを囲むように泳いでいる。
泉の反対側の岩陰に、別の影がある。人魚だ。二体。上半身が人に近く、下半身が魚。銀色の鱗が水中で光っている。確かに美しい。だが、今は美しさを見ている場合ではない。目が怒っている。
両者の間に、水の中で見えない壁があるように、距離を保っている。玉を挟んで、にらみ合っている。
ダンダンが肩の上で震えた。
『……ぱちぱち、すごい。あの、たま。すごい、すってる。じめん、の、した、の、ながれ。ぜんぶ、あの、たま、に、いってる』
地脈のエネルギーが、全部あの玉に吸われている。ダンダンが「ぱちぱち」でそれを直接感じている。
「エルツ」
『……あの玉は見覚えがある。いや、見覚えではないな。気配を覚えている。あれは地脈の結晶だ。長い年月をかけて地脈の流れが一点に凝縮されたもの。それ自体が地脈の一部であり、同時に地脈を吸い上げる装置のように機能している』
「吸い上げてる。だから水が減ってるのか」
『おそらく。本来はあれは要石。あれがあるから地脈が安定していた。だが……。今や、あの結晶が地脈のエネルギーを過剰に吸収し、それが水脈にも影響している。結晶を取り除けば——いや、取り除くだけでは足りぬ。あの大きさの結晶は、割らねば中のエネルギーが解放されぬ』
割る。でも、あの半魚人たちの言い分からわかるのは、玉の光で縄張りを守っているということ。人魚たちは玉の浄清効果で水を保っている。割ったら両方が困るはずだ。
「話を聞かせてください」
思い切って声を出した。水面に向かって。
水の中の動きが止まった。半魚人の泡の声が、ぽこっと浮かんできた。
『……にんげん? にんげん、きた。なに、しにきた。たま、とるな。おれたち、の。』
「取りません。話を聞きに来ました」
『はなし? はなし、いらない。たま、かえせ。あいつら、が、ちかづく。おいだせ。』
半魚人側は警戒が強い。泡の声が重なって、聞き取りにくい。複数が同時に話すから。
人魚側から、波紋の声が届いた。
『……人間の子が、我らの声を聞けるのか。珍しいことだ。——汝は何者だ。あの銀毛の獣と共にいるのか』
「フリッツといいます。地脈の調査に来ました。その玉が——」
『宝玉のことは知っている。我らが最も知っている。あれがなければ、水が濁る。卵が育たぬ。我らの子は清い水でしか生まれぬ。あの者たちが玉を独占するから、我らは近づけない。——もう何年も、子を産めていない』
何年も子を産めていない。
帳面に書いた。手が震えた。
半魚人側にも聞いた。
「玉の光がなくなったら、どうなるんですか」
『くらい。なる。おれたち、ひかり、で、ばしょ、まもる。ひかり、ないと、おおきいの、くる。たべられる。しぬ。』
光がないと、もっと大きな魔物が来て食べられる。光で縄張りを示しているのだ。
両方とも、玉がなくなったら命に関わる。
でも、玉がこのままだと地脈が死ぬ。地脈が死んだら、この水源自体がなくなる。そうなったら両種族とも滅びる。
「……エルツ。どっちの言い分も正しい」
『ああ。どちらも生きるために必要としている。だが——あの結晶がこのまま地脈を吸い続ければ、遠からずこの水源は枯れる。そうなれば両者とも終わりだ』
「割らないと駄目なんだよな」
『割らねばならぬ。だが、割った後のことを先に考えなければ、割っても解決にはならぬ』
——割った後のこと。
縄張りの光をどうするか。水の浄清をどうするか。両方を別の方法で補う手段を見つけないと、割れない。
今日のところは、情報を集めるだけだ。
泉の岸に座った。帳面を広げた。半魚人と人魚、両方に話を聞いた。何が必要で、何が怖くて、何を守りたいのか。一匹ずつ。一つずつ。
日が傾くまで、座って聞いた。
ダンダンが膝の上で、ときどき「ぱちぱち」をした。地脈の流れを感じるたびに、耳がぴくっと動く。
『……フリッツ。たま、すごい、すってる。いそがないと、まずい、かも』
まずい。時間がない。
帳面のページが埋まっていく。半魚人の声、人魚の声、ダンダンが感じた地脈の状態。全部書いた。まだ答えは見えない。でも、情報は集まった。
明日、考える。今日はここまでだ。




