第二十二話 簡易鑑定の結果
水源に近づくにつれて、空気が変わった。
冷たい。山を越えてからずっと冷たかったが、ここはさらに一段違う。湿っている。水の匂いがする。岩肌を伝って流れる細い沢があちこちにある。
修行は続けている。移動しながら、体の中の道を辿る。
三日目になって、指先だけでなく手のひら全体がぬるくなるようになった。エルツ曰く「遅いが着実だ」だそうだ。
ダンダンは相変わらず三秒で光る。しかも日に日に光の持続時間が長くなっている。昨日は十秒くらい光っていた。苔の匂いが濃くなるのも同じだ。
『ぱちぱち! フリッツ、まだ? ダンダン、もう、ぱちぱちぱち、だよ!』
「わかってるよ。お前が早すぎるんだ」
エルツが首を回して言った。
『種族差だ。気にするな。汝は人間としては十分に早い。……たぶん』
「たぶん、って何だよ」
『人間の魔術修行を見たのは汝が初めてだ。比較対象がない』
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山道を登り切ったところに、建物が見えた。
小さい。木造の山小屋に、石積みの壁が継ぎ足されている。屋根に旗が立っている。ギルドの紋章。前哨基地だ。
入り口の横に、中年の女性が座っていた。革のベストに厚手のブーツ。腰に短剣。日焼けした肌に白い髪が混じっている。冒険者証が胸に下がっている。Bランクの帯章。
俺たちを見て——エルツを見て——立ち上がった。短剣には手をかけなかった。
「……Bランクの前哨基地管理人、ヘルダ。お前さんたちは?」
「フリッツです。エルストからの冒険者で、地脈の調査に来ました。こっちはエルツ。エーデルホルンです」
「エーデルホルン」
ヘルダがエルツを見上げた。長い沈黙。——パスハイムの門番とは違う目だ。値踏みではない。感嘆でもない。ただ、見ている。見て、確認している。山で長く生きてきた人間の目だ。
「……なるほど。本部から通達が来ていた。Cランクの少年がエーデルホルンと行動していると。お前さんか」
「通達が来てるんですか」
「カスパルからだ。『この冒険者とその同行者に便宜を図れ』と。……便宜も何も、うちは山小屋が一つあるだけだが」
カスパルが手を回してくれていた。
「ここを拠点に使わせてもらっていいですか。水源の調査をしたくて」
「構わない。ただし身分証を確認させてもらう。規則だ」
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Cランクの冒険者証を渡した。
ヘルダが受け取って、表面を確認した。
銀の縁。ランク表示。スキル欄。祝福欄。
「対話術(+++)。祝福:無毒化、回復力強化、防御力強化、魔力操縦。……十三歳でこれか」
「はい」
「カスパルの通達の意味がわかった」
カードを返してもらった。ダンダンが肩の上で身を乗り出して、カードを覗き込んでいる。
『フリッツ、の、かーど! きらきら!』
「触るな。落とすぞ」
ヘルダがダンダンを見た。
「その小さいのは?」
「ダンダンです。モスリンの子供で——」
言いかけたとき、ダンダンが「ぱちぱち」をやった。
脈絡なく。誰にも頼まれていないのに。肩の上で目を閉じて、体全体が緑色に光った。苔の色。苔の匂いが広がった。
ヘルダの目が変わった。
「……今、この子、光ったな」
「あ、これは最近できるようになったやつで——」
「待て」
ヘルダが腰のポーチから小さな水晶板を取り出した。簡易鑑定具だ。グスタフが使うような本格的なものではないが、前哨基地の基本装備だろう。
「この子に当てていいか」
「ダンダン、じっとして」
『じっと! する!』
ヘルダが水晶板をダンダンにかざした。板の表面に、薄く文字が浮かんだ。
種族:モスリン
ランク:F
状態:祝福あり(魔力親和)
ヘルダの手が止まった。
「……祝福つきだ。この子に、魔力親和の祝福がついている」
「やっぱり……」
エルツの推測が当たった。あの夜、神様は俺に魔力操縦の祝福を送ったとき、ダンダンにも黙って祝福を送っていた。
エルツが外から声を出した。
『やはりか。天の仕業だな』
「天の仕業だ」
『やはり……汝に祝福を送ると言いながら、この子にも黙って送っていたのか。抜かりがないというか、やりすぎというか』
「やりすぎだよ」
ヘルダが水晶板をしまいながら言った。
「モスリンに祝福がつくのは聞いたことがない。というか、そもそも魔物に祝福がつくこと自体が前例がない。……お前さんの周りでは前例のないことしか起きないのか」
「最近そうなんです」
ダンダンが肩の上で胸を張った。
『ダンダン、すごい! しゅくふく! ぱちぱち、できる! すごい!』
すごいのはお前じゃなくて、あの神様の行動力だ。
ヘルダが水晶板をポーチに戻しかけて、止めた。窓の外のエルツを見ている。
「……ついでに聞くが、外のあの子にもかざしていいか」
「エルツに? ……エルツ、いいか?」
エルツが窓に首を近づけた。
『構わぬ。我に何が映るか、我も興味がある』
ヘルダが窓からエルツの首筋に水晶板をかざした。
板が光った。ダンダンのときとは明らかに違う。文字が浮かぶ速度が遅い。情報量が多いのか、水晶板が処理しきれていないように見える。
ようやく文字が安定した。
種族:エーデルホルン(神の眷属)
ランク:S級相当
状態:加護あり(天との接続・不完全)
ヘルダの手が震えた。
「……加護。祝福ではない。加護だ」
「加護と祝福って違うんですか」
「全然違う。祝福は外から与えられるものだ。お前さんやこの小さい子についているやつ。神が外から贈る力。だが加護は——生まれながらに内在している力だ。その存在自体に宿っている。神の眷属だけが持つ」
生まれながらの力。エルツが神の眷属であることの証。
「天との接続・不完全、とあるが……」
「はい。今、その接続を回復するために地脈を調べています」
ヘルダが水晶板を下ろした。手がまだ少し震えている。Bランクで十二年駐在している人間が、手を震わせている。
「……簡易鑑定でS級相当が出たのは初めてだ。というか、簡易鑑定の範囲を超えている。この水晶板では情報を全部表示しきれていないはずだ」
エルツが静かに言った。
『我の全容が小さな板に収まるとは思えぬ。だが、加護という言葉が出たのは——そうか。我にはそれがあったのだな。数百年持っていて、意識したことがなかった』
「持ってて意識しないものなの」
『汝が呼吸を意識しないのと同じだ。在ることが当たり前すぎて、見えない』
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ヘルダが湯を沸かしてくれた。山小屋の中は狭いが、竈がある。エルツは外にいる。入れない。山小屋は人間サイズだ。
「祝福つきの冒険者と、祝福つきのモスリンと、加護つきのエーデルホルン。……前哨基地に配属されて十二年になるが、初めて見る」
「俺も初めてです。全部、最近起きたことなので」
「水源の調査だと言ったな。何を調べる」
「地脈の乱れです。この辺りの水の流れが変わったという情報があって」
ヘルダの目が少し変わった。
「……水の流れ、か。確かにここ数ヶ月、沢の水量が減っている。前はもっと水が出ていた。冬場でもこんなに細くはならなかった」
「いつ頃から?」
「はっきりとは言えないが、半年……いや、もう少し前かもしれない。地元の猟師たちも気づいている。山の水が変わった、と」
「下の街のギルドでは調査班を出したけど原因不明だったと聞きました」
「ああ、知っている。調査班はここにも寄った。水源を見て、岩場を調べて、帰っていった。物理的には何も壊れていない。崖崩れも汚染もない。それなのに水が減っている。——正直、気味が悪いよ」
物理的に壊れていないのに水が減る。それが地脈の乱れだ。目に見えないから、普通の調査では見つからない。
帳面を出した。ヘルダの証言を書いた。蝙蝠、トレント、虫系、そしてヘルダ。人間からの証言は初めてだ。
「明日から水源を調べます。ダンダンが地脈を感じ取れるかもしれないので、一緒に」
ダンダンが肩の上で胸を張った。
『ダンダン、やくにたつ! ぱちぱち、する! ちから、ある!』
ヘルダがダンダンを見た。
「……祝福つきのモスリンか。珍しいどころの話じゃないな」
「友達なんですけど、神様が勝手に祝福をつけたみたいで」
「神様が勝手に」
「はい」
ヘルダが少し笑った。山で十二年やっている人間の、乾いた笑いだった。
「変わった冒険者だな」
「よく言われます」
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夜。山小屋の寝台に横になった。ダンダンが胸の上にいる。今日は顔の上じゃなくて胸の上だ。最近のダンダンの定位置がここになりつつある。横腹の打ち身はだいぶ治ったのに。
窓の外にエルツがいる。星空の下で横たわっている。角が星の光を反射して、淡く光っている。
帳面を開いた。
前哨基地到着。管理人ヘルダ。Bランク。水量減少を確認(半年以上前から)。
人間からの証言として初。
ダンダンの祝福(魔力親和)が簡易鑑定で確定。犯人は神様。
動機は推定二つ:かわいいから。あと、役に立つから。
最後の一行を読み返した。少し考えて、書き足した。
「たぶん、もう一つある。守りたいから」。
あの神様は全知に近い存在だ。触れられない。体験できない。でも、祝福を送ることはできる。あの夜、俺が殴されてダンダンが黙り込んだのを見ていた。それが、一番辛かったと言っていた。
だから、この子にも力を渡した。
——明日から、水源を調べる。ダンダンの「ぱちぱち」がどこまで使えるか、試してみる。
ダンダンが寝息を立てている。小さくて、温かくて、苔の匂いがする。肩の上にいるだけで、世界が少しだけ優しくなる。
この子を守ってくれた神様に、明日の朝、ダンダンの寝顔の話をしよう。きっと喜ぶ。




