第二十一話 ぱちぱち
翌朝、エルツの修行が始まった。
横腹はまだ痛む。でも、昨日よりましだ。祝福の回復力強化が効いているのだと思う。朝起きて、深皿カップで干し肉の汁を温めて飲んだ。ダンダンに肉のかけらを一つ。エルツは何も食べない。三日に一度の日ではないらしい。
「で、何から始めるんだ」
『座れ』
「はい」
『目を閉じろ』
「閉じた」
『昨日、天が通した道を覚えておるか。体の中に細い道ができた感覚だ。それを探せ』
目を閉じた。体の中を意識する。——何も感じない。昨日は指先がぴりぴりして、足の裏が温かくなった。でも今朝はそれがない。
「……何も感じない」
『当然だ。水路はできたが、水はまだ流れていない。水路の形を、意識で辿ることから始める。指先から、腕を通って、胸の中心へ。胸から腹を通って、足の先へ。その道筋を、何度も何度も意識する。道が何度も使われると、少しずつ広がる。広がれば水が流れ始める』
「意識で辿る。……それだけ?」
『それだけだ。地味だと言ったであろう』
本当に地味だった。
座って、目を閉じて、体の中の道を探す。指先から胸の中心へ。胸から足の先へ。同じことを繰り返す。一刻。二刻。何も起きない。ただ座っているだけだ。
——ムックの隣に座っていたのと似ている。何もしない。ただそこにいる。待つ。
三刻目に入ったとき、ほんの少しだけ、指先がぬるくなった。
「あ」
『感じたか』
「指先が、ちょっとだけ」
『それでいい。一日目はそれだけで十分だ。今のを覚えておけ。明日また同じことをする。明後日も。一週間続ければ、手のひらから出せるようになる』
「手のひらから何を?」
『魔力だ。目に見えないが、感じられるようになる。それが魔術の入り口だ。我が汝に教えるのはそこからだ。雷はまだ先の話だ。ずっと先の話だ』
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昼になった。修行の合間に水源への移動を再開する。エルツの背中に乗りながら、意識を体の中に向ける練習を続けた。揺れる背中の上でやるのは難しい。集中が途切れる。
ダンダンが俺の肩で退屈そうにしていた。
『フリッツ、めつむって、なにしてる? ひま? ねてる?』
「修行。魔力の通り道を探してる」
『まりょく? なに? たべる?』
「食べない」
『つまんない。ダンダン、も、やる』
「お前にはできないよ。祝福を受けてないから——」
言いかけて、ダンダンを見た。
ダンダンが肩の上に座っている。耳がぱたぱた動いている。昨日と違って、いつもの元気が戻っている。尻尾がぱたんぱたんと俺の首筋を叩いている。
「……まあ、やってみたいなら。目を閉じて、体の中に何か道がないか探してみろ」
付き合い程度のつもりだった。
ダンダンが目を閉じた。耳が伏せた。尻尾が止まった。珍しい。こいつが静かになるのは、怖いときか真剣なときだ。
三秒。
ダンダンの体が光った。
「——は?」
光った。茶色い毛の下から、淡い緑色の光が透けた。苔の色。苔の匂いの色。小さな体全体が一瞬だけぼんやりと光って、すぐ消えた。
ダンダンが目を開けた。
『ぱちぱち、した! ぜんぶ、ぱちぱち!』
エルツが足を止めた。首を回して、肩の上のダンダンを見た。金色の目が大きくなっている。数百年を生きた神の眷属が、手のひらサイズのモスリンの子供を見て、驚いている。
『……フリッツ。今の光を見たか』
「見た。ダンダンが光った。緑色に」
『あれは魔力の発露だ。魔力の通り道がすでに存在している。しかも汝より遥かに太い。——この子にも、天が何かをしたのかもしれぬ』
「何かって……祝福か? でも、俺にだけ送ると言ってたぞ」
『言っていた。だが、あの声を思い出せ。「あの小さい子の話をもっとしてくれ」と言いながら、この子を見ていた。あの存在が、ただ見ているだけで終わると思うか』
「…………あの神様」
『やりかねぬ、と言っておく。確証はまだないが』
エルツが俺を見た。俺がダンダンを見た。ダンダンが俺を見た。
『ぱちぱち! もういっかい、やる!』
ダンダンが目を閉じた。また光った。今度は前より少し長い。緑色の光が毛の間から溢れて、俺の肩を照らした。温かい。苔の匂いがいつもより濃い。
『……やった! ぱちぱち! できた! フリッツ、みた? みた?』
「見た。見たよ」
エルツが鼻から息を吐いた。
『……確証はないと言ったが、こうなるとほぼ確定だな。天がこの子に何もしていないとは考えにくい。汝が魔力の通り道を三刻かけてようやく感じたものを、この子は三秒で見つけた。魔物は元来、魔力に近い存在だが、それにしても早すぎる』
ダンダンが肩の上で跳ねている。耳がぱたぱた動いている。尻尾がダンダン鳴っている。昨日の沈黙が嘘のように、元気全開だ。
『ぱちぱち! ぱちぱち! フリッツ、も、やって! いっしょに! ぱちぱち!』
「俺は三刻かかってやっと指先がぬるくなっただけなんだけど」
『がんばれ! がんばれ! ダンダン、おうえん、する!』
応援されている。手のひらサイズの、昨日までしょげて尻尾も打てなかったモスリンの子供に。
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その日の午後、移動しながら二人で練習した。
俺は目を閉じて体の中の道を辿る。ダンダンは肩の上で「ぱちぱち」を繰り返す。
差が広がっていった。
俺が指先をぬるくするのに三刻かかるところ、ダンダンは三秒で体全体を光らせる。二回目は光の色が濃くなった。三回目は光が肩から俺の首筋に伝わって、苔の匂いが強くなった。四回目は——。
「ダンダン、ちょっと待て。光が目に入る」
『ごめん! でも、たのしい! ぱちぱち、たのしい!』
エルツが呆れた声で言った。
『……魔術の才能が種族に依存するのは知っていたが、モスリンの子供がここまで早いとは。おそらく苔の魔力親和性が関係している。苔は地脈に近い植物だ。モスリンは苔を纏う種族。つまり——』
「つまり?」
『この子は、地脈を感じる才能があるかもしれぬ。汝が対話で地脈の情報を集めるのとは別の方法で、この子は地脈の流れを直接感じ取れる可能性がある』
もしや、ダンダンが地脈のセンサーになる?
あの神様、ただ「かわいい子に祝福をあげたい」だけじゃなかったのか。
地脈調査の切り札を、ダンダンに仕込んでいたのか。
——いや。両方かもしれない。かわいいから祝福をあげたい。ついでに地脈調査にも使える。あの神様なら、両方同時にやりかねない。
帳面を出した。今日のメモ。
魔力修行一日目。
俺:三刻で指先がぬるくなった。
ダンダン:三秒で全身が光った。差がひどい。ダンダンにも天が何かをした可能性あり(エルツの推測)。モスリンの苔の魔力親和性が高い可能性。地脈のセンサーになりうる。あの神様は魔物狂いだが、馬鹿ではない——かもしれない。
最後の一行を書いてから、少し考えて、書き足した。
「たぶん、両方だ」




