第一話② 稜線の向こうに
——旅に出たいと思ったのは、先月のことだ。
村の北の稜線に、見たことのない影が立っていた。
夕方だった。山の輪郭が赤く染まる時間帯に、稜線のいちばん高いところに、何かがいた。四本足で、犬くらいの大きさで、角のようなものが頭から一本伸びている。村の周りにはいない種類だ。モスリンでも、虫系でも、植物系でもない。
風向きのせいか、匂いがこっちまで届いた。乾いた土と、鉄と、それから——何だろう。嗅いだことのない匂いだった。
声を聞こうとした。耳を澄ませた。あの距離だ。普通なら届かない。
——届かないはずだった。
でも、一瞬だけ、何かが来た。
声じゃない。言葉でもない。気配とも温度とも違う。もっと深いところを、何かが通り抜けた。体の真ん中を、知らない風が一瞬だけ吹き抜けたような感覚。
足も息も止まった。そしてすぐに、途切れた。
あとには何も残らなかった。匂いだけが風に乗って、まだかすかに届いていた。稜線の影は、しばらくそこに立っていて、やがて向こう側に消えた。
——今の、何だったんだろう。
その晩、飯を食いながらずっと考えていた。
あいつは何を食べるんだろう。どこから来たんだろう。あの角は邪魔じゃないのかな。そういう疑問もあった。でも、それより先に体が覚えているのは、あの一瞬のことだった。何かが通った。確かに通った。気のせいかもしれない。でも、体がそう言っている。
もう一度、あれを感じたい。あいつの近くに行って、今度はちゃんと聞きたい。あのとき一瞬だけ通り抜けたものが何だったのか、知りたい。
村にいたら、たぶん二度と会えない。
でも村の外に出れば会えるかもしれない。遠くに行けば、知らない魔物がいる。そいつらに会って、話して、聞いてみたいことを聞ける——かもしれない。
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翌日、ムックにそう話した。切り株に並んで座って、いつもみたいに。
『とおく、いく?』
「うん。村の外に出てみたい」
『とおく。さむい?』
「わからない。たぶん、ここよりは寒くはないと思う」
ムックは耳をぴんと立てて、しばらく何かを考えている風だった。それから、ぽつりと言った。
『フリッツ、いく。いい。おとこのこ、いく。ふつう』
俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
『こども、おおきくなる、いく。ムックのこども、おおきくなる、いく。おなじ』
——ああ。
モスリンもそうなのか。子供が大きくなったら、巣を出ていく。自分の縄張りを探しに行く。ムックはそれと同じだと言っている。
「……お前がいいなら、いいけど」
『ムック、ここいる。まつ。フリッツかえる、ここ』
帰ったらここにいる。待っている。
それだけだった。引き止めもしないし、寂しいとも言わない。行くのが当たり前で、帰ってくるのも当たり前。そういう顔をしていた。
肩の上の子供が、また耳たぶをかじろうとした。ムックが尻尾で叩いた。子供がころんと転がって、俺の膝から落ちそうになったのを手で受け止めた。
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——その日の夕飯の時、父さんに「村の外に出てみたい」と言った。
父さんは箸を止めた。母さんは鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
「出てどうするんだ」
「会ってみたい魔物がいる。会って、話してみたい」
「話して、どうするんだ」
「……わからない、けど」
父さんはしばらく黙っていた。母さんが「あんた、止めても聞かないでしょう」と、俺ではなく父さんに言った。父さんは溜息をついた。
「せめて冒険者ギルドに登録しろ。身分証になる。宿にも泊まれる。何かあったときに、後ろ盾がないのは困る」
冒険者ギルド。名前は知っている。魔物の素材を納めたり、依頼をこなしたりする人たちが登録する場所だ。村の連中はあまり縁がないが、街道沿いの街にはどこにでもあるらしい。
「登録って、お金かかるの?」
「初回は無料だ。ただし最初はFランクからだ。討伐の依頼もあるが——」
「討伐はしないよ」
即答したら、父さんが少し笑った。この村の人間だな、という顔だった。
「素材の納品でもランクは上がる。まずはそこからだな」
母さんが「干し肉、多めに作っておくから」と言った。もう決まったらしい。
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来月、俺は村を出る。
父さんに言われた通り、まず街でギルドに登録する。Fランクから。討伐で稼ぐ気はないから、素材を集めて路銀にする。村の周りで採れる薬草の場所は、虫系の魔物がだいたい知っている。モスリンは地下の道に詳しい。聞けば教えてくれる——と思う。今までもそうだったから。
でもまあ、ギルドとかランクとかは正直どうでもいい。俺はただ、遠くに行きたいだけだ。
木漏れ日が落ちてくる。七年前と同じ切り株。同じ雑木林。風が吹くと、ムックの耳が揺れる。俺の髪も揺れる。
同じ風だ。
あの稜線の向こうには、きっと違う風が吹いている。違う匂いがする。あの角の魔物も、そこにいる。
でもまあ、やることは同じだ。
じっとして、息をゆっくりして、相手が出てくるのを待つ。
それだけでいい。ずっとそうしてきたんだから。
ムックが鼻を鳴らした。
『おなか、へった。かえる』
……こいつはいつもそうだ。
「はいはい。帰ろう」
子供たちを一匹ずつ地面に降ろして、ムックを肩に乗せて、切り株から立ち上がった。耳の大きい子供が最後までしがみついていたので、そいつだけもう片方の肩に乗せてやった。
頭上で、シュリンガの枝がゆっくり元の位置に戻っていく。
『……また……』
来るよ。出発の前に、もう一回くらいは来る。
足元で、リッケルがかさかさと道を開けた。帰り道を作ってくれている——のか、ただ帰っているだけなのか。たぶん前者だと思いたい。
ムックの子供が、俺の首筋に鼻先を押し付けてきた。親と同じだ。ふんわりと苔の匂いがした。
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(第二話へつづく)




