第十三話 尻尾で叩く子
一週間後、居住区の修繕が終わった。
カスパルの言った通り、北門の外を街道沿いに少し歩いた先にある区画だった。街の壁からは百歩ほど離れている。柵で囲まれた庭があって、建物が二棟。手前が人間用の居住棟、奥が大型の倉庫棟。
居住棟は思ったより広かった。部屋が二つと、台所、それから竈。竈がある。ちゃんとした竈。やかん亭の厨房を借りなくても、ここで煮炊きができる。
倉庫棟はもっと広い。天井が高い。馬車二台分くらいの空間がある。エルツが入っても余裕がある——はずだ。
「見に行こう」
エルツの背中に乗って、厩舎から新居に向かった。荷物はそんなに多くない。帳面と、小刀と、着替えと、塩と干し魚の残りと、やかん亭のおじさんがくれた杯。「使わなくなったから」と言われた。磨きすぎて柄の模様が消えている。
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街道を歩いていた。エルツの背中は高い。朝の空気が澄んでいて、遠くの山が見える。
北門が近づいてきた。門番が見える。最近は固まらなくなった。「おう」と手を挙げるだけだ。慣れというのは恐ろしい。
——何かが来た。
右の草むらから。
小さくて、速くて、茶色い何かが飛び出してきて、エルツの横をすり抜けて、俺の足——エルツの背中に乗っている俺の足に当たって——跳ねた。
跳ねて、俺の膝を蹴って、胸を駆け上がって、肩に乗った。
軽い。温かい。苔の匂いがする。
「——え」
肩の上で、小さな鼻先が俺の首筋にぐっと押し付けられた。
耳が大きい。
『フリッツ! フリッツ! いた! やっと! いた! いた!』
この声。この匂い。この鼻先の押し付け方。
「……お前、なんでここに——」
ムックの子供だ。
四匹の中で一番耳が大きくて、一番俺に懐いていた子。親と同じ「鼻先を押し付ける」癖がある子。まだ独り立ちするには早い。毛がまだふわふわしていて、足元がおぼつかない年齢のはずだ。
なのに、ここにいる。
『フリッツ、いなくなった! まった! まった! でも、こない! だから、きた! もす、におい、おって、きた!』
待った。待ったけど来ない。だから自分で来た。苔の匂いを辿って。
村からここまで、かなりかかる距離だ。それをこの小さな体で。
「お前、一人で来たのか。ムックは——お母さんは知ってるのか」
『おかあ、おこった。だめ、って。でも、いく、って。しっぽ、たたいた。おかあ、もっと、たたいた。でも、いく!』
尻尾で叩いた。怒られても叩いた。それでも行くと言い張って、出てきた。
——こいつ、駄々をこねたのか。
ムックに怒られて、尻尾で叩かれて、それでも聞かなかったのか。
肩の上で、耳の大きいモスリンがもぞもぞ動いている。首筋から離れない。鼻先をぐっ、ぐっ、と押し付けている。ムックと同じ。全く同じ。
目頭が熱くなった。
「……ばかだな。危なかっただろ、一人で」
『あぶなく、ない。フリッツ、の、におい、する。ぜんぶ、におい、する。みち、ぜんぶ。だから、へいき』
俺の匂い——苔の匂い——が道中ずっと残っていた。それを辿ってきた。苔の匂いの信用状は、俺が通った道そのものを地図にしていたのか。
エルツが首を下げて、肩の上の小さな生き物を見た。
『……これは何だ』
「ムックの子供。村から追いかけてきたらしい」
『子供? これが? 人間の手のひらに収まるぞ』
「モスリンはそういうサイズなんだよ」
ダンダンがエルツの鼻先を見た。エルツの鼻先がダンダンを見た。牛より大きい銀灰色の神の眷属と、手のひらサイズの茶色いモスリンの子供が、至近距離で見つめ合っている。
『……おおきい。すごく、おおきい。でも、フリッツ、の、ともだち?』
「友達」
『じゃあ、こわくない!』
ダンダンがエルツの鼻先に自分の鼻先を押し付けた。
エルツが固まった。
数百年を生きた神の眷属が、手のひらサイズのモスリンの子供に鼻先を押し付けられて、固まっている。あんまりにもシュールだ。
『…………何をしておる、この小さき者は』
「挨拶だよ。モスリンの挨拶」
『……そうか』
エルツの金色の目が、ダンダンを見ている。困惑している。でも、嫌がってはいない。
ダンダンが満足したのか、エルツの鼻先から離れて、俺の肩に戻った。そして首筋にまた鼻先を押し付けた。
『フリッツ、あったかい。ここ、いい。いる。ここ、いる』
「……お前、帰らないのか」
『かえらない!』
尻尾がぱたんと俺の肩を叩いた。駄々をこねている。こいつ、怒ると尻尾を打ちつけるのか。ムックは子供を叩くときに尻尾を使っていたが、この子は自分の気持ちを主張するときに使うらしい。
「——ダンダン」
『?』
「お前の名前。ダンダン。尻尾で叩くから」
『ダンダン? なまえ? ダンダン! ダンダン!』
嬉しいのか、肩の上で跳ねている。跳ねるたびに耳がぱたぱた動く。大きい耳が。
エルツが俺を見た。
『……匂いで名をつけたのかと思えば、今度は音か。汝の命名はいつも即興だな』
「文句あるか」
『ない。エルツよりはまともだ』
「エルツもまともだろ」
『鉱石だぞ』
「いい名前だろ」
エルツが鼻から息を吐いた。呆れているのか、笑っているのか。たぶん両方だ。
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居住区に着いた。
柵の中に入って、庭を見た。広い。草が生えている。走り回れる。
倉庫棟の扉を開けた。エルツが入った。中で一周して、角が天井に当たらないことを確認した。
『十分だ。厩舎よりは格段によい』
居住棟に入った。部屋。竈。台所。窓から庭が見える。庭の向こうに倉庫棟が見える。エルツの銀灰色の体が窓枠の向こうに見えている。
ダンダンが肩から降りて、部屋の中を走り回った。角を嗅いで、窓枠を嗅いで、竈を嗅いで、寝台を嗅いだ。
『ここ、いい! あったかい! フリッツ、の、におい、まだ、ない。でも、すぐ、する!』
まだ俺の匂いがしない。でもすぐにするだろう。住めば匂いがつく。
窓を開けた。エルツが首を伸ばしてきた。倉庫棟から首だけ出している。
『落ち着いたか』
「落ち着いた。……なんか、大所帯になったな」
『大所帯とは贅沢な。人の子一人と、獣二匹であろう』
「十分だよ」
ダンダンが窓枠に飛び乗って、エルツの鼻先にまた鼻を押し付けた。エルツがまた固まった。
『……この子は、距離というものを知らぬのか』
「モスリンはそういう生き物なんだよ」
『……そうか』
金色の目がダンダンを見ている。困惑の中に、何か別のものが混じっている。
数百年、一人だったエルツ。鼻先を押し付けられるのは、たぶんフリッツとダンダンが初めてだ。
帳面を出した。新しいページ。
ダンダン(モスリン・ムックの子供)。耳が大きい。鼻先を押し付ける癖。怒ると尻尾を打ちつける。
名前の由来:ダンダンという音。村から一人で追いかけてきた。こいつはたぶん、帰らない
その下に、小さく描いた。耳の大きいモスリンと、その横に大きな角の影。
相変わらず絵は下手だが、今日はちょっとだけ、モスリンに見える気がした。




