雨宿り②
目が覚めた時、まだ夜中なのか。と錯覚するほど、カーテンの隙間は暗く濁っていた朝。窓には大粒の雫が垂れており、それで今日は雨なんだと気付く。他の生物にとってはもしかしたら大事のような天候かもしれないけれど、人間世界では、雨程度では生き方は変わらない。今日も着替えては、お気に入りの街並みを歩きバイト先へと向かう。
段ボールを開け新刊の香りを感じる。本を並べて、付録の点検をして、整理をしながら漫画コーナーに少し居座ったり。必ず同じ時間にやってくるおじいさんと天気の話をしたり、そんな変わらない日々を過ごしては、あっという間に来た休憩時間。僕は、いつもの公園へと向かう。
東屋の屋根に当たる雨音を聞くと、彼女と会った日のことを思い出す。
彼女と会う前、僕の生活はそんな変わらない行動の連続で、外に出かけるとすれば、バイト先と家を往復するだけ。あとは家でひたすらに机に向かう日々。
灰色。
と表現して仕舞えるほど、味のしないガムみたいな日常。
誰ともすれ違いたくなくて。人の目のない所に行きたくて。昼休み、いつものように公園へと足が向く。
生きる意味。とか
生き延びている意味。とか
生きたい意味。とか
そんな味のないガムよりも、もっと不毛な考えが頭に過る。意識が頭の中から屋根に雨粒が当たる音に変わった時。
「はぁー最悪。服びちゃびちゃだよ」
と、雨は朝から降っていたのにも関わらず、突然雨に打たれたような口調で一人の女性が目の前のベンチに座った。
「ごめんね一人で居るところ。ちょっと雨宿りさせて」
そうカバンからタオルを取り出し、後ろでくくっていた髪を解いては、丁寧に頭に当てる。
「・・・どうぞ」そう反射的に口にしては、突然現れた人に、思わず目線は足元の湿った枯葉へと移る。きっとこの辺りの会社に勤めているのだろう。一瞬視界に映ったブラウスと白いパンツ姿を見て勝手に判断する。
「ありがと」
声を聞くと少し幼い声にも聞こえた。顔を見ている余裕もなく、見たところでと思いつつ
「はい、僕はもう戻るので」
何に戻るのか。どこに戻るのか。内容の分からない主語と述語だけを告げ、足早に立ち去ろうと雨に濡れる覚悟を持った時。
「待って」とさっきよりも声のボリュームも上がり、勢いよく手首を掴まれる。
そんな状況に相手の顔を確認しない訳にもいかず、彼女の方へ視線を移す。
なぜだろうか。
初めて会った人なのにその表情から寂しさを感じた気がした。それか、悲しさか。それとも、苦しさか。
どれにしろ、雨が降ったくらいで。と僕の中に出てきたのはそんな感想で、そのまま伝える訳にもいかず。
「どうしました?」と引きつった口角で問いかける。
「え、いや・・」
自分の咄嗟の行動に驚きながら、えっとーとあからさまに今、思考を回転させているのがみてとれた。ヒーローの変身を待つ怪獣の気持ちってこんな感じなのかと同情しながらも、言葉を待っていると、すぐに、ピコンっ。と音まで聞こえて来そうなまでに思いついた表情を浮かべ、口を開いた。
「そう、缶コーヒー。間違えて二個買っちゃったからどうかなと思って」
と、掴んでいた手を離し、バッグの横にあるビニール袋からよく見るラベルのブラックコーヒーを二本取り出した。
「間違えて?コンビニで?」
「・・コンビニじゃないよ。自販機だよ」
「自販機でも二本は変だけど・・それコンビニの袋ですよね」
「あ、そう。七百円買うと一回クジができるんだよ。それで、もらったの」
「いつの時代のコンビニですか」
当たり前のように二転三転する言い訳に、もはや嘘ついてますと自白しているようなもの。
「とにかく、一人の空間を邪魔しちゃったし、これどうぞ」
「あ、いらないです」
「え、断るの?」
結果断ることに驚いたようで、缶コーヒーを手元に引き、俯き顔でじっと見つめていた。
「僕コーヒー苦手なので」
至極真っ当な、きっとそんな人どこにでもいるだろう返答に、彼女は人一倍目を見開いた。そんなリアクションに僕自身も驚き思わず
「変ですか?」と聞き返す。
「ごめんなさい。こんな美味しいものが苦手だなんて、人生もったいないなと思いまして」
大きく見開いた目を戻しては、僕が一番嫌いな言葉を急な敬語で話すものだから、思わずカッとなってしまう。
「人生もったいない・・あなただって苦手なものたくさんあるでしょうに。たかが、コーヒーで人生・・・」
「なに?たかがコーヒー?あんた今、コーヒーのことバカにした?貶した?」
「コーヒーのことバカにしたんじゃないです、そんなもので人生左右されないって言っているんです」
「その要所要所で出る言葉がコーヒーを軽んじているって言ってんの」
「そもそもなぜわざわざ動物的味覚の悪である苦味を好むのか、気が知れません。甘みを引き立たせるんだったらそもそも甘いものを楽しんだ方がいいんですよ」
甘いもの。と言葉が出た瞬間、彼女の鼻から息が漏れた。気のせいかとも思った時、彼女の顔は明らかに冷笑している様子だった。
「あ、もしかして甘いものを貶している人ですか?」
「貶してなどいませんよ。ただ、苦味の良さを知らず、ただ甘いものが好きだって言うのは、お子ちゃまっぽいなと思いまして」
おほほ。と口元を手で隠しわざとらしく笑う。敬語でくるのかタメ口でくるのかはっきりしろよ。と論点の違う方に引っ掛かる脳内を抑える。
「苦味を美徳として大人ぶるのも大概ですけどね。『苦味が美味しいと思える私』『大人な私』に浸って高みの見物気取ってる人が本当に大人なんですかね。よっぽどそっちの方が大人ぶってる子どもに見えますけどね」
雨のせいで下がる気温にも負けず、互いにヒートアップする。埒が開かない言い合いが続きながら、互いの正義をぶつけること数分。
「そもそも、あなたがコーヒー嫌いをバカにしたがためにこうなっているのに」
「コーヒーを軽んじたあなたが悪い」
「はぁ・・もうこうなったらじゃんけんで片をつけましょう」
「そうね」
なぜ、じゃんけん。そう疑問に思ったのは発言した僕の方で、彼女は当たり前のように、最初のグーを突き出していた。
「なんで?」と僕が問うと。
「なんで?」と彼女も驚いた様子で返答する。
「なんかふと、じゃんけんって発想が出てきて」
さっきまでの熱さがどんどん冷めるように僕の頭は混乱する中、彼女の方がもっと混乱してもいいはずなのに。ふとその表情を確認すると、これまたさっきまでの言い合いが無かったかのような、無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
「知らないわよ」と一言呟き。「じゃあ行くよ!」と声をかかげ「じゃんけん」とその拳を振りかぶった。『最初』の合図はないままに急に始めるものだから、僕は彼女の開いた小さな手の平に敗北を喫することとなった。
「そんなこともあったっけ?」
彼女を待っている間に思い出していた記憶を伝えるも、もはや彼女の記憶には残っていないらしく、そんなことよりたまごサンドに夢中らしい。
「さいですか」
会話が止まったタイミングで、僕もシュークリームの封を開けては、一口頬張る。
彼女の目線はいつも不思議で、会話が区切られるとじっと僕に目を合わせると、次の瞬間には池の方をじっと見つめる。猫のような気ままに目に映るものを凝視している。
今もこうして興味のない会話があれば、ぼーっと、不規則に波打つ池の水面を眺めている。
苦味と甘味の論争から数週間が経ったが、未だにこうして互いの休憩時間に集まっている。
初めて遭った時から彼女は距離が近かった。コミュニケーション能力が高く、人懐っこい人だなと会話を続けていると、たまに敬語の中にタメ口が混ざったりとただ失礼な人なのかも知れないと思ったりもした。
ただ僕自身、人との関わりが苦手な分、相手から距離を詰めてくれるのはありがたいので、その失礼さに肖るように会話を続けていった。
なんのために。
と問いただせばそれまでで、なんのためでもなく、ただお互いに持て余す九十分間を潰すため、会話する相手という利害関係だけで十分な気がしていた。
「外国人って本当に雨の日傘ささないのかな」
こんな風に頭に思い浮かんだ瞬間口を開いたような話題で、僕たちの時間は構築されていくのだ。
「ささないみたいだね」
「降ったらずぶ濡れってこと?」
「まぁ、ささないからそうなのかもね。それにこんな日本みたいに降るのも珍しいし、あとはフード付きの服が多いのも雨除けで使っているとかなんとか」
「へぇー」
気の抜けた返事が彼女の十八番。
「気候だって濡れてもすぐ乾くらしい。濡れること自体抵抗がないらしい」
「よく知ってるね」
「僕も昔気になって調べてみたから」
「おなじー」とたまごサンドをこちらに突き出してきたので、シュークリームで乾杯する。
機嫌を損ねていたのかと思っていたが、案外ご機嫌な様子。
「雨にも負けず自然の中で生きてるって感じだね」
「そうかもね」
「わざわざ傘をささずに自然に受け止める。強い文化だね」
大雨の中、ポツポツと呟く彼女。その素直な発言には他意はないように思える。不運だとしても受け止める強さに魅力を感じるのだろうか。と、彼女の言葉の真意を考察していると、彼女は続けて口を開いた。
「でもやっぱり、傘をさしのべる優しさは日本人独特の文化なのかもね」とその言葉の意味でやっと真意がわかった。
「あ、嫌なことでもあった?」
彼女は静かに目を瞑り、腕を組んでは、静かに二回頷いた。
「わかるかね。そうか、聞いてくれるのか」
「あーうん」
こうなってしまってはいつも通り聞くしかない。こうしたらいいんじゃない?は火に油を注ぐだけ。ただ、僕は聞き役に回る。それだけを念頭に置き、ただ聞くのみ。
「上司のプライオリティがひどくて。何?私たちを暇だと思っているわけ?」
僕は文節ごとに、目を瞑り、三回頷く。声も大事。「うんうん」と合わせる。
「どう思う?」というトラップにも「そうだね」と大した相槌を打たないのが秘訣。彼女は冷静ではないからこれで十分だった。
これがこの数週間の間に身につけた受け流しという技。でもたまに、「ちゃんと聞いてる?」と抜き打ちテストが行われるので、意識を逸らしてはいけない。
「はぁ、なんか思い出してイライラしてきたけど、スッキリしたわ」
フリスクをガリガリと噛み砕くのも彼女の十八番。これだけは、いつも怖い。
「ははは・・」怖いから愛想笑いが精一杯。
「ごめんね。私ばっかり。そっちはどう?嫌なこととかない?」
「僕はそんなに感情が起伏することはないよ」
「ん?」
ごめんなさい。
心の中で謝罪が浮かぶも彼女に主導権を渡さぬようすぐさま口を開く。
「バイト先の人もいい人だし。困ってないよ」
「よかった」そう自分のことのように安堵し、微笑む彼女。これも十八番。
「漫画は?順調?」
漫画。という単語に対し、順調かどうかという問いは、不思議な文章だなと関係ない考えがよぎり、意識を慌てて彼女の質問の方へと戻す。
「順調・・と言えば順調。詰まることはなく書き進められているよ」
「なんか浮かなそうだね。やっと担当付いたんでしょ?」
「うーん・・今書いている話は書いていて楽しいんだけど、担当さんの反応が微妙なんだよね」
「そっか。なんか悩みがプロだね。部外者の私は頷いて見守るだけだよ」
そんな大層なものでもない。ただ、気付いた時には、自分のできることが絵を描くことだけだったから、こうしてバイトをしながら漫画家の端くれをしているだけ。きっと、いつ途切れてもしょうがない綱渡りを、日々繰り返しているだけ。
誰も知らない僕の夢を彼女には打ち明けていて、彼女も笑わず応援してくれる。僕が心地よくここに通い続けるのは、そのことが大きかったのかも知れない。
「担当の人に何言われようと、描くの楽しいんでしょ?」
「まぁね」
「それはよかった」
彼女の笑顔はどこかぎこちなく見えたが続けて「素敵な時間だね」と明るい笑顔が見えたので気のせいか。そう済ませた。
「そうだね」
彼女のその素敵な表現に、改めて実感する。
「漫画を書いている時が一番活き活きしている感じがする。僕の全てって感じ」
そんなことを恥ずかしげもなく言えてしまえるのは、きっと彼女の前だけなんだろう。
「そっか」と言葉だけ見ればそっけない返答も、深い息と共に吐き出し、身体を滑り台のように傾けベンチに背中をつけては、まだらな木目の屋根を見上げる。僕の言葉を受け止めてくれているのがよく分かる。
彼女は一拍空け、呼吸のリズム。息を吐き出すタイミングで優しく呟いた。
「なんだか遠くの存在になってしまうような感覚」
そんなことはない。
と、真っ先に頭に浮かんだ自分の言葉にも疑問を持つ。
彼女にとって、僕は近い存在なのだろうか。
そんな不思議な疑問も浮かぶ。
だって彼女は、たった九十分間だけの関係だったから。互いの暇つぶし。一日のなんでもない時間を潰すための相手だったから。
彼女が呟いたその言葉は決して僕をからかった言葉ではなく、自然にでた本心だと分かる。
屋根にぶつかる音。水面に波紋を作る音。葉の軽さが分かる音。空から降ってくる雨粒がいろんな音を奏で、この屋根の下の空間に鳴り響く。
彼女が口を開いたような気がしたけれど、僕の耳には、この世界の音を支配したかのような、重なり合う雨の音しか届かなかった。




