母として叔母として
娘には戻ってくるまで部屋に入らないでとは言われていた。
でも入ってしまった。人生で一番ひどい目にあった気がする。
苦手な物は虫類全般な私が、最も苦手としている黒いアレを目にしたのは久しぶりで。玄関を入ってすぐの廊下にも数匹いたが、リビングとキッチンにはその比ではないほどいたのだ。厚い玄関のドアを通して、可愛い甥っ子の悲鳴が聞こえたからには、勇み混んで飛び込むとそこには。
「ひっ……」
悲鳴をあげそうになるのを、どうにかこらえる。
「埜蘇が悲鳴をあげるのもムリもない。伊都大丈夫かえ?」
母の声がすると同時に、私の周囲に結界が張られて守られる。
目には見えない結界ではるが、確かに守られているのを感じた。
おかしなもので結界があるというだけで、私の心構えが違ってくる。
周囲を視線を巡らして、じっくりとみる。
廊下の数匹がいっそかわいく思えるほどに、そいつらはひしめきあっていた。
これは集合体恐怖症の人が見たら気絶するレベルではないのか。と考えてしまほどすさまじかったわ。私は集合体恐怖症ではないけど、苦手なのがこれだけ集まると本当に気持ち悪い。
壁はもちろん上を見上げると天井にもびっしりと。母が張ってくれた結界のおかげで考える時間ができた。
見たくないけど、部屋を見渡す。
キッチンの近く小柄な人間の影があった。
顔につけている仮面は何かしら?戦隊ヒーロー?とにかくあれでアレから顔を守っているのね?
「埜蘇っ」
思わず一歩を踏み出すと、足下にいたそれらを踏んでしまったようだ。
結界ごしでも非常に気持ち悪くて飛び上がりそうだが、なんとか埜蘇のそばまでいく。
母の結界が守ってくれていたのが、埜蘇に近づくにつれ薄まっていくのを実感する。こうなると飛び込んできそうで嫌だ。
そんなことを考えるから、フラグになったのだろうか。
今まさにこっちに向かって飛んでくるのが数匹いた。
薄まった結界で大丈夫だろうかと焦っていたら、埜蘇が何かを持たせてくれる。
「これ、つかって」
料理に使う透明なボウルとフライ返し?ああ、顔を守れってこと、でもってフライ返しでたたき落とすのね。
母や娘と違い、能力値は高くないけど能力の制御には自信があるわ。
「埜蘇、ありがとう。おばさん、がんばるわ」
結界を張るのは苦手だが、身体能力の強化ならば自信がある。動体視力を上昇させ、素早い動きについていけるように腕と足の筋肉をこわばらないようにしておく。
伊緒は夫に買い物を頼んでいた。多分だけど殺虫剤を買ってくるよう頼まれたのかもしれない。伊緒の戻ってくるまで『部屋に入らないでは』、私がこの黒くてキモいこいつらが苦手なせいだろう。
でも埜蘇を守るためにも、そんなことはいっていられないと覚悟を決める。
「埜蘇、シャンプーを流すから目をつぶって」
「お、ばさん、ぼくひとりであらえます」
「普段はできるでしょうが、今日はダメ。君は疲れているし、普通の時よりも何かと汚れがひどいわよ」
「う、てまをかけてもうしわけないです」
「小さな子供が何言ってんの、伊緒だって去年までは私と一緒に入っていたのよ。今年になってから急に一人で入るようになったけど……」
髪の毛や体の状態は、それほどではないが爪が異常に伸びている。それにあの部屋の状況。棗さんとは、出禁宣言されたこともあってあまり関係とはいえないし、彼女自身のことはあまり知らない。
それでも弟と愛し合って結婚した相手だし。可愛い甥の埜蘇を生んで育ててくれた女性。弟亡き後は、息子を大切に育てているはずなのだが。
「埜蘇、聞かせて。棗さんはいつからいないの?」
お風呂場で、湯船につかりながら甥が教えてくれたのだが。
棗さんが出て行ったのは、約二週間前。
「どうりで、散らかっていると思ったわ」
「ごめんなさい、ぼくかたづけがじょうずにできなくて。ゴミもわけないといけないでしょ?ぶんべつってわからなくて」
まあ、六歳の男児にゴミの分別は難易度が高いわ。
片付けられていない部屋、冷蔵庫にいれられていない弁当やパンの残り物がテーブルに。結果があの衛生害虫大発生の状況というわけか。
「ぼく、おべんとうのりょうが多すぎて……あとでまたたべようとおもってたの」
「コンビニ弁当は、大人の胃袋にあわせているものね」
マンションの一室が汚部屋になってしまった経緯はわかったけど、棗さんが出て行ったのはどうしてかって聞いていいものか悩むわ。
「埜蘇、あのね……」
埜蘇の話に驚き怒りながら涙して聞いている内に、長風呂になってしまった。
私と埜蘇が入れ代わりに風呂に直行していた娘の伊緒も、お風呂から出た直後らしく赤らんだ顔で今は隣にいる。
私の頭の中は、お風呂場で聞いた話で混乱していたが、私の体を挟む形で座っている二人の天使が可愛いので幸福も感じている。
「ああ、しあわせ」
そして娘と入れ違いのように、お風呂に入りにいった夫にどう説明すべきかを考えていた。あまり考えはまとまらなかったけど、しかたない。
「石鹸のいい匂いがしてくるし、可愛い」
眠いのを我慢してなんとか目を覚ましてようと頑張っている埜蘇がひたすら可愛い。
お風呂から出てきたばかりの娘も可愛い。どうしよう、今私の両手が可愛いで埋まっている。
「お腹すいたよ、お母さん」
「……」
空腹を訴える娘、甥も眠そうな目で訴えてくる。可愛い腹ぺこ怪獣に、冷蔵庫の残り物で簡単なサンドイッチを食べさせた。
「ごちそうさまでした」
「……でした」
小さな手をあわせて、二人とも食後の挨拶をしてくれた。
「はい、おそまつさまでした。歯を磨いて今日はもう寝なさい」
「えー、歯磨きめんどくさーい」
「……うん」
面倒くさがる娘と、それにのっかる埜蘇。まあ、眠い時には面倒くさいのはわかるし、私だってできることならこのまま寝せてあげたい。が、それは駄目である。なぜなら、虫歯になると治療が必要になるかもしれない。
そのときに、傷みと恐怖から泣きをみるのは子供達だから。そして理不尽なことに、歯医者に連行した親が恨まれる。つまり私ね。
だからここは心を鬼にしよう。
「だめ、さっさと磨いて」
私は母親の威厳を発動した。二人がビクッとし、洗面所へ逃げ出す。
その後は、予備の枕とタオルケットを持って、娘の部屋にいく。
「伊緒、埜蘇をとめてあげて?お客様用の布団を持ってくるからちょっと待って」
「ええっ一緒のベッドで眠ればいーんじゃない?枕は私のを貸してあげるし。私はクッションでいーし」
七歳の女の子にしては、大人びているというべきか。それとも漢気があるのだろうか、娘はわずかにも逡巡をみせずに物事を一気に解決する。
「うん、そうね。じゃーおやすみなさい。ふたりともぐっすり寝てね」
私が言うまでもなく、二人とも目を閉じかけていたので、今夜は本当に爆睡だろう。静かに部屋の電気を消してリビングへと戻る。
ちょうど髪の毛をタオルで拭きながらリビングに入ろうとしている夫にでくわす。
「あら、あなた。タイミングいいこと、お腹すいてない?サンドイッチあるわよ」
子供達の余り物だが、詳細は省いて夫に勧めると。
「子供達が残したのか?二人とも小食なのかね。美味そうだ、いただきます」
子供達の残り物だと見破りながらも、気にすることなく食べ始める夫の優しさと食いっぷりの良さが私は好きである。
「コーヒーいれるわね」
「おお、ありがとう」
大ぶりなマグカップにたっぷりと注いで、隣に座った。
お風呂で聞いた埜蘇の話を、夫にも共有しなければと考えたからである。
顔を見ながら話していると、感情が高ぶり泣いてしまいそうだから。
「あなた、埜蘇のことなんだけど……。お風呂場で聞いたことを包み隠さずに話すわね。冷静でいてほしいんだけど」
「いやいや、いつだって冷静でしょ?伊都、話して」
「あなたも一度くらいは、見たことあるんじゃないかしら?超能力に目覚めた少年が主人公のアニメ作品があるの」
「ああ、知っているよ?タイトルは忘れたけど、同僚の息子がファンらしくてさ。なんだか事故にあったショックで覚醒するとか……」
超能力をテーマにした作品は多々あり、埜蘇がみていたアニメもその一つ。少年がある日事故にあうが、回避できたことで超能力があることに気づくという設定。幼児から小学生くらいの男児を虜にしている人気アニメだそう。
多くの子供達が自分にも超能力があるかもと、ためしちゃっているらしい。
埜蘇もためしたのである。結果は能力持ちであることを自覚、そして母親に報告となったのだ。
最初本気にしなかった棗さんに、自身の超能力を披露したのは、決して自慢したかったわけではなかろうが。
「お母さん、ぼくね超能力が使えるのかもしれない」
棗さんは、自分の見たものしか信じないという頑固なところがあるのだそうだ。だから大好きな母親に、自分の能力を使ってみせたのだ。
「見て、ママ。ぼくこれ浮かせられるの」
言うだけでは信じてもらえなかったので、やってみせただけなのに。
「化け物って……ママがぼくのことを……」
埜蘇の悲しげな声は今でも忘れられないよ。
「いわれたんじゃないんだよ、でもわかっちゃったの」
どうやら埜蘇は、物体を浮かせるのと思考を読みとる能力も覚醒させてしまったようだ。可愛い息子の突然の覚醒をなんと思ったものか。
悲鳴をあげて、飛び出していったんだそうである。
「おばあちゃんか、おばちゃんにでんわしようかとおもったんだ」
そうすると自分の母親が責められるのではないか?
「ママがかえってくるのまつことにしたの」
六歳の子供が、一人きりで生活するのは難しい。
しかし、同じ建物内にコンビニがあれば、食料調達は容易になる。
「おかねはもってたから」
六歳にして堅実な埜蘇は、お年玉やお小遣いを貯金していたのだ。
親族に可愛がられていたので埜蘇の貯金額は中々のものだった。
好都合なことにマンション内には併設されたコンビニがある。
お風呂も一人で入り、ドラム式洗濯乾燥機で洗濯と乾燥もできた。
ただ、ゴミの分別はできなかった。まあ、幼児にはちょっとねムリでしょう。
食べきれなかった弁当やパンは、テーブルに放置したままだったことにより、例の黒い衛生害虫が大量発生してしまったようである。
うーん、夢に出てきそうでやだ。それと、棗さんはどうしているんだろう。
棗さんにも愛されて大事にされていたんだ埜蘇は。
「計算してみると、大体二週間前に飛び出していったようなのよ。おそらくだけど、実家にいるんじゃないかと思うの。確か、都内にあったはずだから」
「うーん、でも二週間も六歳の子供を放置したままって、もしかしたら事故か事件にでも巻き込まれているんじゃないか」
「可能性は低い……と思うけど。調べてみましょう」
「うん、とりあえずマンションの防犯カメラを確認してみようと思うんだ。あそこは管轄外だし、事件ということでないので刑事としていくわけにはいかないけど、親戚として心配だからといえばなんとかなるだろう」
「そうね、あなた。私も一緒にいくわよ。義妹を心配する義姉の役をやらせてちょうだい」
「うーん、大丈夫かい?多分まだ君の苦手なアレがいると……」
「そうだったわね、でも大丈夫よ。防犯カメラを確認するなら管理人室だろうし」
「一応お義母さんにも連絡しておこう。あれからどうなったかも気になるし」
夫はあの部屋に一人きりで残してきた母のことを気にしているが、私よりは苦手ではないので大丈夫なはず。それに多分スズキさんを呼んで片付けを手伝わせたろうしね。




