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真鍮の探偵ロイス・アッシュウォーカー/宿命の解体屋と鋼の守護者  作者: 弌黑流人
灰色の美学

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死神の影

 六日目、正午を目前に控えた時刻。かつて「不沈の移動宮殿」と謳われ、蒸気文明の極致を象徴した豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号は、今やその巨躯の半分以上を、貪欲な紺碧の海中へと沈めていた。


 海面上には、重苦しく湿った灰色の霧と、ボイラーの破裂によって生じたどす黒い油煙が混じり合い、天頂に位置するはずの太陽を白くぼやけた不気味な円盤へと変えている。歪んだ真鍮の船体には、沈みゆく巨獣が放つ最後の断末魔のような軋み音が響き、崩落したマストの影が不吉な葬列の旗印のように海面へ落ちていた。


 特別車両格納庫の状況は、まさに地獄の様相を呈していた。


 船体の傾斜はすでに限界角を超えつつあり、床には海水と、破損した配管から溢れ出した潤滑油が混じり合って、黒光りする死の沼を作っている。船が大きく波に揺られるたび、数トンにも及ぶ真鍮製の予備部品や重厚な工具箱が、凶器となって滑り落ち、壁に激突して火花を散らす。


 その混沌とした破壊の中心で、アッシュウォーカー家の誇りであり、彼らの旅の拠点そのものである蒸気自動車「アッシュキャリアー」だけが、冷たい海水に足を浸しながらも、その真鍮の心臓を激しく震わせていた。


 「ベル、システム強制起動! 予熱は省いていい、全圧力を後部スラスターへ回して! ジェミニ、車体を固定している電磁クランプを、多機能工具で引きちぎって!」


 ロイスは、ドレスの裾が油で汚れるのも構わずアッシュキャリアーの助手席へと飛び込んだ。彼女は、ヴィクトルの血が乾き始めた右腕の装具を、ダッシュボードの中央にある真鍮製のインターフェースへ力強く叩きつける。


 装具のプラグから放たれた高電圧の蒸気パルスが、アッシュキャリアーの複雑怪奇な深層演算回路と直結し、眠れる巨獣の意識を覚醒させる。


 「全システム、緊急起動オーバーライド。アッシュキャリアー、ホバークラフト形態への変形シークエンス、最終段階へ移行します。……ロイス様、警告。外部の熱源が、周辺の空気密度を変化させるほどの臨界点に達しました。現出力での回避、および防御は、理論上不可能です」


 ベルが運転席で、白銀の指先を鍵盤のように並んだレバー群の上で踊らせながら、冷静だが切迫した声を上げる。


 ジェミニは車外の激しい揺れに耐えながら、多機能工具を巨大なバールへと変形させ、船体に食い込んだ固定ボルトを次々と粉砕していった。その作業は決死の覚悟を伴うもので、一度のミスが即座に死を意味する。


 ジェミニの額には冷や汗が滲み、呼吸は極限まで抑え込まれていた。船体が大きくきしむたびに、天井から剥がれ落ちた真鍮の破片が彼のかたわらを突き抜ける。


 しかし、彼は決して手を止めない。アッシュウォーカー家の誇りを賭けた脱出劇が、いまこの瞬間に幕を開けようとしていた。


 周囲に響く断末魔のような軋み音は、まるで沈みゆく船が彼らに告げる呪いのようにも聞こえる。それでも、ロイスは一切の迷いなくインターフェースを操り続けている。彼女の瞳には、かつて見た空の青さと、この先に待つはずの希望が揺るぎなく焼き付いていた。


 「……ナァァァア!!!(来やがったぞ! あの死神の『紅いシャッター』が降りる寸前だ! 逃げ場なんてどこにもねえぜ!)」


 後部座席で四肢を突っ張っていたススが、逆立った毛を震わせながら窓の外を指し示した。


 その視線の先には、格納庫の入り口を塞ぐ暗闇と、それを切り裂くような異様な気配が漂っている。死神の影は、彼らの本能に警鐘を鳴らし続けていた。


 ロイスは唇を強く噛み締め、これから対峙する運命に対して、全身全霊を込めて準備を整える。運命の歯車が軋み、終わりを告げるその瞬間まで、彼女たちは決して歩みを止めない。


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