深淵の予感と偽りの安息
五日目の夜。表面上の最大の惨劇は回避されたはずだったが、船を包む夜霧は、これまで以上に深く、重く、すべてを飲み込もうとする獣のように濃くなっていた。一行は一度自室へと戻り、数時間だけの短い、しかし切実な安息を得ることにした。
ベルが丁寧に淹れたハーブティーの香りが室内に広がる。その温かさは強張った身体をほぐしてくれたが、ロイスの胸の奥深くに巣食う、不安の核を拭い去るには至らなかった。ロイスは窓の外、黒いインクをぶちまけたような、底の見えない海を見つめた。
「……ベル。さっきから、船内の乗客名簿に不自然な動きはないかしら? あるいは、通信傍受の結果でもいいわ。何かが、まだこの船の中に潜んでいる気がしてならないの」
「現在、暗号化された外部通信の解析を進めております。いくつか不可解な通信ログが浮上しており、ヴィクトルが狙撃、あるいは毒殺を試みた人物たちの過去の経歴に、共通する古い公文書の痕跡が……。ですが、それはあまりに衝撃的な仮説を含んでおり、まだ推測の域を出ません」
ロイスはハーブティーのカップを握りしめた。
(この先には、ヴィクトル以上の何かが待ち受けているのね)
「……そう。……ねぇ、ジェミニ、明日の朝、もう一度ヴィクトルを問い詰めましょう。彼が本当は何を現像しようとしていたのか。この航海という名の劇に隠された、真実の脚本をね」
「ああ。私も同感だ。……だが、今は少しでも休め、ロイス。六日目は、この旅で最も長い、そして最も過酷な一日になる予感がする。……私も、ベルと共に周辺の警戒を続けるよ」
ジェミニの、兄としての包容力に満ちた言葉に、ロイスは静かに目を閉じた。ススはロイスの膝の上で丸まり、時折耳をぴくりと動かしては、船底から響く金属的な不協和音を聴いていた。それは、ヴィクトルを閉じ込めた牢獄の扉が軋む音なのか、それとも、船の骨格そのものが、さらに巨大な悪意の重みに耐えかねて悲鳴を上げている音なのか。
五日目の夜が、まるで永遠のように長く、静かに更けていく。豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号は、その優雅な外観の裏で、破滅へと向かう真鍮の鼓動を刻み続けながら、運命の六日目……剥き出しの真実が血の匂いと共に牙を剥く、凄惨な夜明けへと突き進んでいた。
そして、ロイスの夢の中では、まだ現像されていない真っ黒なフィルムたちが、音もなく回り続けていた。彼女の脳裏で、未来の断片が不気味な予兆となって明滅を繰り返していた。




