幸福の解析
三日目の朝、豪華客船の贅を尽くしたカジノフロアの特別室は、死を運ぶ神経ガス、レッド・デューの臭気に満たされていた。ベッドの上で重なり合うようにして冷たくなっていたエリックとメイ。私は防護マスクを装着し、単眼を波長解析モードに切り替えて室内に残留する粒子の動きを追った。
(ロイス、足元を見てみな。絨毯の隙間に、妙な真鍮の粉が落ちている。昨夜の機関室での対決の時と同じ、高周波で切断された跡だ。犯人は空調の通気口をこじ開けたんじゃない、文字通り、真鍮の壁を溶かしてガスを注入したのさ)
肩の上に乗ったススが不快そうに耳を伏せる。私はベッドの脚に付着した銀色の残留物へ顔を近づけ、単眼の解像度を極限まで上げた。
「……そのようね。ジェミニ、この穴を見て。犯人は空調システム全体を汚染したんじゃないわ。この部屋の壁の裏を通る蒸気配管の余熱を利用して、特定の温度に達した時だけ気化するカプセルを、この微細な穴から射ち込んだのね。ターゲットが眠りに落ち、体温が安定する深夜二時。まさに精密機械のような殺し方だわ」
「なるほどな。……だとすれば、犯人は隣の部屋、あるいは壁一枚隔てたサービス通路にいたことになる。だがロイス、隣の部屋は空室だったはずだが……」
ジェミニが壁の穴に内視鏡カメラを差し込み、裏側の構造を確認する。
「なんてことだ。ここを見てくれ。サービス通路の壁に、巨大な三脚を固定した跡がある。やっぱりあの撮影技師だ。あいつは重いカメラを担いで移動しているフリをしながら、実は船の骨格そのものに自分の機材を連結して、どこからでも狙撃やガス注入ができるバイパスを作っているんだ」
犯人ヴィクトルは、この船を巨大な義体のように利用している。その事実に怒りが湧いた。
「ベル、リストは完成した? この船の中で、いま最も幸福の絶頂にあり、かつヴィクトルの歪んだ美学が標的にしそうな人物は誰?」
「生存している乗客の中で、幸福指数のピークに達していると思われるのは……。カジノで三日連続のジャックポットを出し、今夜、全乗客にシャンパンを振る舞うと宣言している老夫婦、ハワード夫妻です。夫のハワード氏は元時計職人で、自身の最高傑作である永遠の歯車を妻に贈るための金婚式を、この船で祝っています」
「時計職人か。ジェミニと気が合っていたあの爺さんだな。幸せの絶頂で、最愛の妻と共に眠る。ヴィクトルが最も好みそうな、最悪のシャッターチャンスだね」
「行きましょう。今度は一歩も引かないわ。ベル、あなたはハワード夫妻を直接ガードして。ジェミニ、あなたは空調と蒸気配管のバイパスを物理的に切断するの。私は……あの記録者のレンズを、正面から解体してあげる」
昼食会の最中、メインマストの頂上に真鍮のきらめきを捉えた。
「見つけたわ、ヴィクトル。あんな高い場所から、船全体を俯瞰しているつもりなのね」
私はブースターを起動し、垂直の壁を駆け上がる。頂上で背を向けたヴィクトルが静かにシャッターを切った。
「間に合ったわよ、暗殺者さん。ハワード夫妻への毒ガスは、すでにジェミニが配管ごと封鎖したわ。あなたのフィルムは、これ以上黒く染まることはない!」




