灼熱の迷宮へ
見えない弾丸を完璧に防ぎきったベルは、侵入者に向けて告げた。
「ターゲットへの干渉を検知。排除行動へ移行します」
ベルの声は、冷たく、しかし絶対的な拒絶を伴ってデッキに響いた。老騎士バルトロメウスは、何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くしていた。だが、ベルは彼を保護するように一歩前へ出し、視線だけで上層の煙突を見据えた。そこへ、甲高い怒声が夜空を震わせる。
「逃がさないわよ、レンズの裏の臆病者さん!」
デッキの下から、ロイスの声が突き刺さる。彼女はすでにアッシュ・キャリアーから射出された移動用ワイヤーを右腕の義手に接続し、驚異的な速度でヴィクトルの潜む高所へと駆け上がっていた。ヴィクトルは舌打ちし、瞬時にカメラを分解、バッグへと詰め込むと、煙突の保守用ハッチへと飛び込んだ。その動きには一切の無駄がなく、流れるような動作で姿を消す。その迅速な逃走劇に、ススが即座に牙を剥いた。
(……追いな、ロイス! 奴はこの船の配管を通って、地下の機関部へ逃げるつもりだ。あそこはジェミニの庭だが、今は奴のほうが一歩早い!)
ススはロイスの肩に飛び乗り、風を切る音の中で叫ぶ。ロイスは煙突の頂上に着地したが、そこには微かな機械油の匂いと、弾き飛ばされた蒸気弾の真鍮の破片だけが残されていた。ロイスは義手の通信機を叩く。
「ジェミニ、犯人が地下へ降りたわ! 機関室の隔壁をすべて閉じて、奴をネズミ捕りに追い込んで!」
直後、ジェミニの余裕のない声が返ってきた。
「無茶言うな! 今、この海域を抜けるためにボイラーはフル稼働中なんだ。勝手に扉を閉めたら、蒸気の逃げ場がなくなって、船自体が爆発しちまう!」
ジェミニの悲鳴のような通信が入る。犯人ヴィクトルは、それを見越して機関室へと逃げ込んだのだ。船の安全を人質に取った、最悪の逃走経路。ロイスは単眼を紅く発光させ、船の構造図を脳内に直接投影した。
「……いいわ。それなら、船を壊さずに奴だけを『解体』してあげる。ベル、老騎士を安全な場所へ。ジェミニ、あなたは予備の蒸気バルブを監視して。私はこのまま、垂直落下で地下へ向かう!」
ロイスは躊躇することなく、煙突の内部、熱風が吹き荒れる排気ダクトへと身を投げ出した。断崖の影に隠れた月が、雲間から一瞬だけ顔を覗かせる。紺碧の海は、いまや深い闇へと沈み、豪華客船という巨大な真鍮の塊だけが、命の火花を散らしながら夜を駆け抜けていく。
(……さあ、ここからは、俺たちの美学と奴の技術、どちらが上かという泥仕合だ。ロイス, しっかり捕まってな。このダクトの先は、地獄よりも熱いぜ)
ススの言葉通り、落下するロイスを待っていたのは、数千度の熱を帯びた、真鍮の迷宮だった。第二の事件は、犯人の逃走という形で、さらに深い闇へと、船の深淵へと引きずり込まれていく。バルトロメウス卿は、ベルに守られながら、震える手で自身の胸の勲章を握りしめていた。彼が守ってきた帝国の光、その裏側に潜む「沈黙の天秤」という闇の存在を、彼はまだ知らない。だが、ロイスは知っている。この事件の解体こそが、街に青空を取り戻した自分たちの、真の第二章の始まりであることを。
「歯車は正常かしら。けれど……この熱さ、嫌いじゃないわ。私の解体魂が、さらに激しく燃え上がるのを感じるもの!」
暗闇の中で、ロイスの笑い声が真鍮の壁に反射し、幾重にも重なって響き渡った。それは、姿なき暗殺者への、最大級の挑発であった。
その頃、地下五階のボイラー室。ヴィクトルは、灼熱の蒸気に包まれながら、予備のレンズをカメラに装着していた。彼の指先は、火傷を負っているにもかかわらず、一切の震えを見せていない。不敵な笑みを浮かべ、闇の奥を見据える。
「……名誉市民、ロイス・アッシュウォーカー。君は、自分の『死』を撮られる瞬間の顔を、鏡で見たことはあるかな?」
彼は静かに、ボイラーの圧力計の針を見つめた。限界値まで残り、わずか数メモリ。船の鼓動が、悲鳴へと変わるその瞬間を、彼は待ち望んでいた。豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号は、断崖の島を越え、さらに深い、時計回りの航路へと突き進んでいく。




