談話室の残響
豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号の二日目の朝。抜けるような青空と、宝石を散りばめたように輝く紺碧の海という絶景は、談話室に漂う死の静寂によって無残に塗り潰されていた。
若き音楽家の遺体は、椅子に座ったまま首を大きくのけぞらせ、その細い喉にはピアノの真鍮線が食い込んでいた。苦悶の表情すら浮かべる暇がなかったのか、その死顔は驚くほどに平穏で、それゆえに常軌を逸した手際の良さを物語っている。
ロイス・アッシュウォーカーは、現場を保存しようともたつく船内警備員たちを鋭い一瞥で退けると、膝を折って死体の視線と同じ高さまで腰を落とした。彼女の右目に埋め込まれた機械式単眼が、カチカチと微細な駆動音を立てながら焦点を絞り込んでいく。青い光が網膜の上でデータを走らせ、死体の体温、死後硬直の進み具合、そして真鍮線が残した解体の跡を瞬時に分析した。
「ふーん、これはまた、ひどく熱のこもった殺し方だこと。憎しみではなく、純粋な機能美としての死。この船に乗っている連中の、浮ついた欲望の匂いとは根源的に違う。火薬と、硝石、そして……古い機械油の臭い……」
ロイスはそう呟き、目の前の凄惨な光景にむしろ知的な興奮を覚えていた。
黒猫のススは、ロイスの足元を音もなくすり抜け、談話室の隅にある開いたままの窓へと歩み寄った。彼はその鋭い鼻をひくつかせ、潮風の中に混じった不純な残留思念を嗅ぎ取る。彼の思考は、人間が推理と呼ぶ論理構築を飛び越え、本能で犯人の残した不快な違和感を捉えていた。
ロイスは立ち上がる前に、傍らに控える男へと声をかけた。
「ジェミニ、被害者の背後にあるピアノの内部構造を調べて。弦を一本抜き取るのに、どれほどのトルクが必要か、そしてこの切り口を作るためにどんな工具が必要か、あなたの指なら解るはずよ」
声をかけられた男は、肩をすくめて応じる。
「了解だ、ロイス。……やれやれ、バカンスだっていうから一張羅のジャケットを着てきたのに、さっそく油まみれになる運命らしいな」
ジェミニはぼやきながらも、指先に仕込まれた微細なセンサーを起動させ、ピアノの鍵盤を外した。彼の目は、美しい楽器の表面ではなく、その奥にある力学の連鎖を見つめている。ピアノの弦をこれほど正確に引き抜き、武器に転用するには、単なる腕力ではなく、張力と真鍮の性質を知り尽くした解体屋の技術が必要だ。
作業を進めていたジェミニが、ある異変に気づいて視線を鋭くした。
「ロイス、これを見ろ。弦を外した跡に、妙な真鍮の粉が落ちている。ただ引きちぎったんじゃない。高周波の振動で、原子結合を解体するようにして切り離されている。こんなことができる携帯用デバイスなんて、最新の工学研究所か、あるいは……軍の特殊工作員くらいしか持ってないはずんだが……」
その報告を聞いたロイスの頭脳は、即座に次の布石へと動いた。




