新たなる誘い
ネオ・ロンドニウムの空に本物の青が戻り、灰色の激闘が伝説へと変わり始めたあの日から三日が経過した。
かつては分厚い煤煙のカーテンに閉ざされ、真鍮の歯車が軋む音さえも霧に吸い込まれていた街並みは、いまや眩いばかりの陽光を反射し、黄金色に輝いている。
路地裏で必死に肺を鳴らしていた子供たちも、いまや咳き込むことなく、ただ純粋に、どこまでも高く、どこまでも深い青という未知の概念に酔い痴れていた。
アッシュウォーカー探偵事務所のテラスには、心地よい海風が吹き込んでいた。
ロイス・アッシュウォーカーは、皇帝陛下から直々に届けられた、絢爛豪華な装飾が施された親書を、まるでポストに投げ込まれた退屈な広告チラシでも眺めるような無頓着な目で見つめていた。
親書には、アッシュウォーカー家の家訓に基づいたお家再興の全面的な許しと、没収されていた広大な領地、さらには貴族としての爵位をすべて返還するという、並の人間であれば感極まって地に伏し、咽び泣くほどの栄誉が記されていた。
「ねえ、ジェミニ。これ、どう思う?」
ロイスは、最高級の羊皮紙に刻まれた重厚な皇帝の印章を、細長くしなやかな指先で無造作に弾いた。
その隣で、アッシュ・キャリアーのメンテナンスツールを一本ずつ丁寧に磨き上げていたジェミニは、顔を上げることなく鼻で笑った。
「どうもこうもないさ。今さら窮屈な礼服に身を包んで、中身のない夜会で中身のない社交辞令を並べる生活に戻れっていうのか? 俺には無理だ。俺の指先はもう、油と真鍮の匂いが染み付いた、誇り高き解体屋の指なんだからな。シルクの手袋なんて嵌めたら、感覚が鈍っちまう」
ロイスは満足そうに頷き、身を乗り出した。
「まったく同感よ。大金を積まれても、あんな堅苦しい生活はごめんね。私たちは、この煤けた街の隅々で、自由な風に吹かれながら、世に蔓延る醜い謎を解体している方がずっと美学に合っているもの」
ロイスは愉快そうに笑い、親書の隣に置かれた名誉市民証書を手に取った。
これこそが、彼女たちが唯一、実利として受け取ることを決めた証だった。
「でも、この証書だけは有り難く頂戴しておきましょう。皇帝陛下のお墨付き、これさえあれば、私たちにちょっかいを出そうとするおバカな役人や、落ちぶれた貴族共も、少しは大人しくなってくれるでしょうからね。最高の魔除けだわ」
彼女たちの意思が固まったそのとき、背後から静かな気配が近づいた。
「お嬢様、お話中に失礼いたします。新しい朝、そして新しい世界に相応しい、とっておきのダージリンが入りました」
ベルが、一切の足音を立てずに背後に現れ、完璧な角度と所差で、透き通った琥珀色の液体をカップに注ぐ。
ロイスは、ベルが淹れた口当たりの良い紅茶を一口含み、その芳醇な香りと、計算し尽くされた温度に目を細めた。
「ああ、美味しい。やっぱりベルの紅茶が一番だわ。これさえあれば、爵位なんて宝石の付いたただの重石よ」
満面の笑みを浮かべるロイスの膝の上で、黒猫のススが、微かに喉を鳴らした。
ススは、シニカルな思考を脳内で巡らせる。
(ふん、ようやく静かになったと思えば、今度は鼻が曲がるような甘い匂いでテラスが満たされる)
――辞退の旨を伝えてから数日後の朝。
(あの金色の紙切れの代わりに、もっと面白いものを運んできた二本足が門の前まで来ているぞ。退屈な日々は、これでおしまいらしい)
ススは、思考を現実に示すように尾の先をぴくりと動かし、事務所の入り口を指し示した。
ススの視線の先には、事務所の門扉に立つ、一人の初老の紳士がいた。
彼は皇帝陛下の特使であり、お家再興を辞退されたことへの、せめてもの誠意としての贈り物を持参していた。
それは、ネオ・ロンドニウム島を時計回りに一周する、帝国の威信を懸けた最新鋭の豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号の、七日間にわたる処女航海チケットであった。
手渡された乗船券を眺めながら、ロイスはニヤリと笑った。
「豪華客船の旅、ね。ジェミニ、これもしばらく休業のご案内を出した方が良さそうよ」
ジェミニは工具を置くと、不敵な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「海か。エンジンの冷却には困らなそうだな。たまには潮風を吸うのも悪くない。ベル、荷造りをしろ。ススの分の最高級の餌も忘れるなよ。忘れたら、この毛玉が航海中に俺の工具箱を海へ落としかねないからな」
こうして、英雄たちの束の間の休日は、紺碧の海へと誘われる予感と共に、華やかに幕を開けたのである。




