深淵への疾走
ネオ・ロンドニウムの下層、そのさらに深淵。華やかな上層の蒸気文明を支えるために切り捨てられた、光の届かぬ地下数千メートルの領域だ。そこに、都市の負の遺産を飲み込み、肥大化し続ける巨大な機械の墓場――『忘却の工廠』が広がっている。
轟音を立てて地下道を疾走するのは、重装甲蒸気自動車『アッシュ・キャリアー』。剥き出しの真鍮パイプから過剰な蒸気が噴出し、車内には鉄錆と油の混じり合った重苦しい緊張が立ち込めていた。
「……っ、う、あ……」
後部座席でロイスが自身の左腕を抱え込み、荒い呼吸を繰り返す。厚手の革手袋の上からでも判別できるほど、その下の皮膚は醜悪に波打っていた。
「ねえ、ジェミニ。この先の感覚、なんだか嫌な感じがするわ。ただの残滓じゃない……。私の腕を内側から引きちぎって、無理やり外へ引きずり出そうとするような、重くて悍ましい何かが、そこにある」
運転席でハンドルを握るジェミニの横顔は、精密な彫刻のように硬く、無機質だ。彼は前方を見据えたまま、氷のように鋭い声で答えた。
「当然だ。忘却の工廠は、都市の排泄孔そのものだからな。そこにあるのは数十年の時を経て濃縮された、純粋な悪意の結晶だよ、ロイス」
突如、視界が爆発的に開けた。アッシュ・キャリアーが狭隘なトンネルを抜け、巨大な地下空洞へと躍り出る。
空洞の中央には、乳白色の淡い光を放つ巨大な円筒状の施設『クレイドル』が鎮座していた。だがその周囲を、漆黒の汚泥が意志を持つ生き物のように蠢き、飲み込もうと波打っている。
「……見つけた。あそこに、ベルの魂を書き換えた、オリジナルの記録媒体があるはずよ!」
ロイスが身を乗り出した瞬間、工廠の暗がりに無数の不気味な赤い光が灯った。黒い残滓に浸食され、自我を失い暴走した旧型の警備用オートマタたちだ。
「客人を歓迎するつもりはないらしいな」
ジェミニが思い切りブレーキペダルを踏み抜く。車体が真横に滑り、凄まじい白煙を上げて急停止した。
「ロイス、行け。ここは俺が食い止める。お前は中枢へ向かえ」
「でも、ジェミニ一人じゃ……! 数が多すぎるわ!」
「忘れるな、俺は『解体屋』だ。効率的にバラバラにする技術に関しては、騎士団のどこの馬鹿よりも俺の方が上だ。さっさと行け! ベルを救えるのは、その左腕を持つお前だけだ!」
「……わかったわ! 死なないでよ、ジェミニ!」
ロイスは車を飛び降り、黒い残滓が波打つ海へと駆け出した。
立ちはだかる重厚な真鍮の扉。その前に辿り着いたロイスを待ち構えていたのは、気品を失わない白いマントに身を包んだ男だった。顔の右半分を精密な機械の仮面で覆い、残された左目でロイスを見下ろす。
騎士団第零部隊、現総督――ヴィクター。
「久しぶりだね、ロイス。いや、我が工廠の『被検体08番』と呼ぶべきかな」
「ヴィクター……! あなたが、私をこんな目にした張本人なのね……!」
「おや、記憶が戻り始めているのか。だが、それもここまでだ。その左腕、そろそろ正規の持ち主の元へ回収させてもらおうか」
ヴィクターが指を鳴らすと、背後の影からカチリ、カチリと聞き覚えのある駆動音が響いた。現れたのは、ベルと全く同じ姿をした少女型の機械兵。だがその装甲は、光を一切反射しない漆黒へと塗り潰されていた。
「……嘘、でしょ……? ベル……なの?」
かつての親友と同じ姿をした『ベル・オルタ』が、一切の迷いなく剣を抜く。
「……こんなの、正義じゃない。こんなの……」
ロイスは震える右腕で、特製の蒸気ピストルを引き抜いた。銃口が、かつての親友に向けられる。
「ナァーーーーン!!」
ススの鋭い鳴き声が天井に木霊した。
漆黒の偽物と、真鍮の探偵。世界の真実を解体するための、最も残酷な再会の火蓋が、今切って落とされた。




