沈黙の真珠
ネオ・ロンドニウムの空は、厚い煤煙に塗り潰されていた。降り注ぐのは慈悲の雨ではなく、不浄な灰の雪。そんな都市の片隅にあるロイス・アッシュウォーカー探偵事務所は、いま死を待つ工場のような静寂に支配されている。
「……返事をしてよ、ベル。私の新しい帽子、まだ見せてないじゃない」
所長のロイスは、作業台に横たわる少女型オートマタ、ベルの手を握りしめていた。かつて美しかった真鍮の肌は煤け、装甲は焼け焦げている。大時計塔の暴走を止めるため、彼女は自らを焼き切って一秒を繋ぎ止めたのだ。
「ロイス。感情による熱量の無駄遣いはやめろと言ったはずだ。……彼女のメインメモリは物理的に溶解している。解析可能な領域は、もうどこにも存在しない」
兄であり技師のジェミニが、突き放すような声を出した。だが、大型レンチを握る彼の指先は微かに震えている。
「嘘よ! ジェミニなら直せるでしょう!? あなたは死んだ機械にさえ命を吹き込む天才技師じゃない! ねえ、ベルがいなきゃ、誰が私たちの安全弁になってくれるっていうのよ!」
ロイスの絶叫が、真鍮のパイプに跳ね返り、虚しく消えた。彼女の左腕を覆う黒い残滓の皮膚が、主の絶望に呼応するように不気味な脈動を繰り返していた。
ジェミニは無言で、血の匂いのする一束の書類をロイスへ差し出した。それは、彼らが信じてきた世界の残酷な裏側、騎士団第零部隊の極秘報告書だった。
「ロイス。ベルを直す前にこれを見ろ。……これが、俺たちが守り、君が愛してきたこの都市の、本当の設計図だ」
ロイスは震える手でページを捲る。そこには、都市の出力を維持するため、下層住民を実験体にして黒い残滓を放流してきた凄惨な記録が綴られていた。
「……嘘よ……。私が信じていた正義も、全部……誰かの悲鳴の上に塗り固められたものだっていうの?」
彼女の誇りが音を立てて崩れ去る。その時、ジェミニの肩にいた黒猫のススが、作業台のベルの元へ飛び降りた。ススは黄金の瞳を光らせ、焼け焦げた装甲の隙間に器用に前足を差し込む。
カチリ。
止まっていた時計が動き出すような音が響き、ベルの胸部から乳白色の輝きを放つ球体、沈黙の真珠が現れた。
ロイスはそのひと粒大の真珠を落とさないように、慎重に取る。瞬時に左腕の灰色の残滓が呼応しだし、ベルの深層回路に残された祈りのような意志が、光と共にロイスの脳内へ流れ込んだ。
「コレハ……超高純度ニ圧縮サレタ、記憶ノ化石デス。……私ハ、コノ嘘ニ塗り固メラレタ世界ヲ、解体デキル者ガ現レルマデ……時間ヲ繋ギ止メル楔トナル」
真珠の光に触れたロイスの瞳には、以前の楽天主義ではない、激しい復讐者の炎が宿っていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、重厚な真鍮の鎧を鳴らす。
「ジェミニ。解体屋の仕事、受注内容を更新するわよ」
ジェミニもまた、妹と同じ業火をその瞳に灯して応じた。
「……内容を聞こう、探偵」
「依頼人は私。対象はこのネオ・ロンドニウムの全システム。壊れた機械を修理するごっこ遊びは、もう終わりよ。この腐った都市の皮を剥ぎ取って、真実の骨組みまで完膚なきまでに解体してやるわ」
ロイスは不敵に、そして残酷な決意を込めて口角を上げた。
「正常な歯車を回す! ――これこそが、新生アッシュウォーカー探偵事務所の、真の美学よ!」
「了解だ。……ベルの意識を連れ戻すための解析を開始する。目的地は騎士団最深部、忘却の工廠エリア。……蒸気圧を上げろ、ロイス。ここからは、一秒の遅れも死に直結するぞ」
ススが力強く一度だけ床を叩いた。事務所の地下から蒸気自動車アッシュ・キャリアーが咆哮を上げ、灰色の闇を切り裂いて発進する。
偽りの平和を解体し、真実を掴むための第二の物語が、いま幕を開けた。




