深淵の振り子
特区零番の深淵へと続く、目も眩むような巨大な竪穴が口を開けていた。その直径は優に五十メートルを超え、壁面には都市の呼吸を司る巨大なピストンや、高圧蒸気を吐き出す排気ダクトが無数に突き出している。それらは猛烈な勢いで赤熱した風を噴き上げ、空気そのものを歪ませていた。底は見えない。ただ、地の底深くで脈打つ都市の心臓、プロメテウス・エンジンの熱源が、立ち昇る煤煙を赤黒く不気味に染め上げている。
「ここからは一歩間違えれば、文字通り都市の燃料になるわね。あるいは、高圧蒸気のグリル料理か」
ロイスが竪穴の縁から深淵を覗き込むと、遥か下方で不規則に往復する巨大な鋼鉄の足場が見えた。かつて資材搬入に使われていた貨物用リフトの残骸が、錆びついたレールを軋ませながら水平に移動している。正規の昇降ルートが完全に封鎖された今、あの不安定な足場を、重力と風を味方につけて飛び移りながら下る以外に道はない。
「ベル、私たちの命、あなたに預けるわよ。失敗したら、地獄の三等客室行きね」
「……シュウゥ」
ベルが短く、しかし決意の籠もった排気音を鳴らす。彼女は自らの真鍮の胸部ハッチを、内部の圧力を逃がしながら開放した。内部のリールから、自身の骨格の一部を成す極太の特製鉄鎖を三本、まるで獲物を狙う触手のようにしなやかに繰り出した。一本はロイスの細い腰へ、もう一本はジェミニの重厚な背甲へ。そして最後の一本は、自身の身体を竪穴の堅牢な壁面に固定するために。
「鉄鎖の強度は私の再設計により計算済みだ。だが、ダクトからの気流が極めて不安定だ。ロイス、跳躍のタイミングは私が指示する。感覚ではなく、私の演算に従え」
ジェミニが解析器の波形を睨みつけながら指示を飛ばす。だが、その声には先ほどまでの冴えが欠けていた。幻影ガスの残毒が完全に抜けていないのか、あるいは、深淵の底から響き渡るプロメテウスの重低音が、彼の繊細な神経を絶え間なく逆撫でしているのか。
「今だ、跳べ! 重力加速度三・二秒、着地点は右前方三十五メートル!」
ジェミニの号令と同時に、三人は漆黒の暗闇へとその身を投げ出した。ヒュン、という鋭い風切り音。ベルが壁に打ち込んだ鉄鎖を支点にして、三人は巨大な振り子のように弧を描き、高圧蒸気の噴出を紙一重で回避しながら落下していく。重力に引かれる肉体と、それを繋ぎ止める冷たい鎖の感触。死と隣り合わせの跳躍は、永遠にも似た一瞬だった。




