灰色の記憶、その先へ
戦闘の余韻が残る中、三人はさらに深部へと歩を進めた。だが、ロイスが鼻を突く妙に甘ったるい香りに眉をひそめた。それは、エフィメラが迷宮の深層に仕掛けた、最も陰険で精神を蝕む罠――向精神性の薬物を含んだ幻影ガスの予兆だった。迷宮の深部へと進むにつれ、蒸気の色は純白から忌まわしい灰色へと変わり、周囲の景色が滲み始めた。
「……これは、幻覚……?」
ロイスは自分の左腕を見つめた。そこにあるはずの最新のガントレットが視界から消え、代わりに腕を覆う黒い残滓が、まるで生きている蛇のようにドロドロと蠢き、彼女の全身を飲み込もうとしているように見える。
『ルイーズ、助けて……熱いよ、お姉様……置いていかないで……』
「!?」
耳元で、死んだはずの幼い従姉妹たちの、あの日の悲鳴が鮮明に響く。視界の端で、燃え盛るアッシュウォーカー邸の廊下が、今歩いている真鍮の通路と重なり合い、空間が歪む。十年前の『灰色の朝』。黒い煤が雪のように静かに、しかし残酷に降り積もり、愛する人々が叫びながら溶けていった、あの地獄の光景が眼前に再現される。
「……ロイス、惑わされるな。これはエフィメラが……脳の海馬を直接……刺激して……」
隣を歩くジェミニの声も、ひどく掠れている。ジェミニもまた、自身の地獄の中にいた。彼の足元からは、騎士団時代に彼が「無力化」し、二度と再起できぬ身体にしたかつての部下や、法の名の下に処刑した反逆者たちが、無数の青白い手となって石畳から這い上がり、彼の足首を強く掴んでいた。
『筆頭騎士様……なぜ、我々を殺さなかった……? なぜ、生き恥を晒させた……? 貴公のそのレンチは、我々の絶望でできているのだ……』
「……シュウゥ、シュウゥゥ!!」
その時、迷宮の重苦しい静寂を切り裂いたのは、ベルの鋭い排気音だった。完全な機械体であるベルには、人間の主観的な記憶を揺さぶるガスは一切通用しない。彼女は立ち止まり、震え始めたロイスとジェミニの間に入ると、四肢から鉄鎖を射出。二人を抱きかかえるようにして固定し、強引に前方の換気ファンが回る区画へと引きずっていった。
ファンの強風が、停滞していたガスを力強く吹き飛ばすと、ロイスは激しく咳き込みながら正気を取り戻した。仮面の奥の瞳が、現実の光を捉え直す。
「助かったわ、ベル。危うく、あの朝の灰の中に永遠に閉じ込められるところだった」
ジェミニもまた、蒼白な顔の汗を拭い、震える手で重厚なレンチを握り直す。
「エフィメラ……。奴は人の心までも、ただの計算可能なプログラムの一つとして書き換え、弄ぼうとしているのか」
正気に戻った彼らの前で、迷宮はさらにその複雑さを剥き出しにした。前方の巨大な竪穴が、三人の行く手を完全に遮っている。底の見えない深い暗闇の下からは、エンジンの暴力的なまでの重低音の鼓動が地鳴りのように響いてきていた。
「ここを下りれば、もう二度と引き返せないわね」
ロイスはベルの冷たい真鍮の肩を叩き、深淵を見下ろした。
「行きましょう。私たちの未来を、私たちの意志を、あの狂った時計仕掛けの男に渡すわけにはいかないから!」
三人の影は、ネオ・ロンドニウムの心臓部へと繋がる、底なしの暗闇へと身を投じた。




