沈黙のルール
ジェミニは深く、静かにため息をついた。その呼気は、事務所内の蒸気圧が限界に近いことを示す警告音のように聞こえた。
「やれやれ、早急に蒸気抜きが必要なようだな。だがロイス、君が現場に飛び出す前に、この依頼書の内容を精査する。差出人はブリストル伯爵。この都市の蒸気神経技術における権威的な発明家だ」
ジェミニは、手元の小型端末を操作し、依頼書の内容を読み上げ始めた。『蒸気神経』とは、極小の歯車と水銀記録媒体によって構成された、この時代における最高精度の演算処理を可能にする技術の総称だ。
「依頼内容はこうだ。最近開発した高性能なSNから、特定の記憶部分のみが何者かによって抜き取られた。犯人は、私の最新発明に隠された機密を狙っているに違いない。……ロイス、これは単なる物盗りではない。前代未聞の『記憶の盗難事件』だ」
ロイスは依頼書を指先で軽快にひらひらと弄んだ。彼女の機械式単眼が、焦点を合わせるようにカチリと音を立てる。
「記憶の盗難ですって?あら、なんてロマンチックな響き!さあ、ジェミニ、現場へ急ぎましょう。場所は上層階級居住区の端、煤煙がとりわけ濃いエリアね。私は直接赴いて、伯爵に私の華麗なる推理をたっぷりとお披露目してあげるわ!」
ジェミニは妹の無駄話が沸点に達する前に、いつもの自己抑制装置を稼働させることにした。
彼は椅子から音もなく立ち上がると、窓辺の暗い影に丸まっていた一匹の長い黒毛の猫を、愛おしそうに抱き上げた。その猫の名はスス。ネオ・ロンドニウムの深い煤煙に紛れてしまいそうな、漆黒の毛並みを持つ長毛種だ。
ジェミニは、抱きかかえられたまま微動だにしないススを、先に蒸気自動車の後部座席へと陣取ったロイスの膝の上に、そっと置いた。その瞬間、ロイスの口から溢れ出していた騒音の奔流は、まるでバルブが強制的に閉鎖されたかのように、ピタリと止まった。
「……」
彼女はただ無言でススの背をなで、静寂を享受し始めた。これが、兄ジェミニが考案した唯一の制御方法だ。
「現場での不必要な発言は、私の解析結果が出るまで、すべてそのススに預けておけ。いくぞ、ロイス」
二人の探偵は、最初の黒い残滓の香りが漂う事件の真相へと向けて、永遠の薄暮が支配する街へと蒸気自動車を発進させた。




