呪われた左腕
机の向こう側に座るジェミニは、その騒々しい熱意に対する、静かなるアンチテーゼだった。
彼はロイスの年上の兄であり、この探偵事務所の技術的脳を司る天才的な機械技師にして解析担当だ。長い黒髪を後ろで一本にまとめ、真鍮製の工具や小型の精密クロノメーターが几帳面な秩序で並んだ作業机に向かっている。
その端正な顔立ちは常に凪のように静かで、感情を露わにすることは滅多にない。彼は、ロイスの過剰な蒸気圧を制御するための、世界で唯一の安全弁だった。
ジェミニは妹から押し付けられた依頼書に直接触れることなく、手元の『アッシュ・スキャナー』を淡々と起動させた。機器が微かな駆動音を上げ、依頼書に鋭いレーザーを照射し、構成物質の解析を開始する。
「ロイス。感情的な推測はエネルギーの無駄だ。我々のデータベースによれば、過去五ヶ月間の上層階級からの依頼はすべて、飼い犬のオートマタの修理か、愛人の身辺調査に集約されている。君の言う美学とやらは、データ上では一切検出されていない」
彼はロイスの陽気な無駄話を、常に論理とデータによって射抜く。その声は、事務所のパイプから漏れ出す蒸気よりも低く、落ち着いていた。
「そして、この依頼書には……、微量だが黒い残滓の付着が確認された。表面的な豪華さと裏腹に、検出された数値は極めて危険な閾値にある。君は自分自身の負荷限界を、もっと真剣に考慮すべきだ。いいな、妹よ」
彼の鋭い視線は、ロイスの左腕へと向けられた。真鍮の鎧に覆い隠された彼女の左腕は、十年前の未解決事件『灰色の朝』において、漆黒の膜のような『黒い残滓の皮膚』に侵食されていた。
それはロイスにとって消えない傷跡であり、同時に彼女が事件の核心へと手を伸ばすための感知器でもあった。ジェミニにとって、その左腕は常に排除すべきエラー・コードであり続けている。
ロイスは兄の過剰なまでの心配を、わざと気付かないふりをして受け流した。彼女は手元の紅茶に角砂糖を二つ、これ見よがしに大きな音を立てて放り込んだ。
「あらあら、ジェミニ。あなたときたら、私の華麗な左腕をすぐに心配するんだから。これはね、私だけの特別なタトゥーのようなものよ!それに、残滓の匂いがするからこそ、この私がわざわざ依頼を受ける価値があるというものじゃない」




