真鍮の福音
血生臭い埃を被った解剖台の脚の隙間に、ロイスは一冊の分厚い、異様な重厚感を持つ革張りの手記を発見した。
その表紙には、真鍮の針で「エフィメラ」の名が刻まれている。それは、一人の天才が狂気に堕ちていく過程を克明に記録した、呪われた福音書と呼べるものだった。
手記を開くと、そこには驚くべき仮説が書き連ねられていた。
――黒い残滓とは、単なる石炭の燃えカスではない。それは、失われた古代錬金術がプロメテウス・エンジンの高熱によって再構成された産物であり、人類を脆弱な肉体から解き放ち、鋼鉄の神へと昇華させるための進化の触媒である、と。
そして、ページの中ほどに記された最も重要な一節に、ロイスの目は釘付けになった。
――黒い残滓の皮膚は、人間が蒸気駆動の機械へと完全変異するための設計図である。これこそが、都市の父たるプロメテウス・エンジンが、進化の袋小路に陥った人類に遺した唯一の救済。私は、その設計図を自らの肉体で完成させ、都市の最深部――機関の心臓へとアクセスするのだ。
ロイスは、震える手でその手記を強く握りしめた。
「ジェミニ。これよ、全てが繋がったわ。エフィメラは、私たちが追っていた単なる犯罪を超えた、とんでもないことを企んでいる。彼は、プロメテウス・エンジンの機関の心臓へ、自分自身を機械として統合して乗り込もうとしているのよ」
ジェミニの声が、これまでにない緊迫感を持って響いた。
「その手記を、一文字も逃さず転写しろ。機関の心臓という言葉は、聖油騎士団の機密文書の中でも、特級禁忌にのみ登場する最上位のエラー・コードだ。エフィメラが追っているのは、我々が当初想定していた技術の悪用というレベルではない。この都市の根幹を揺るがし、ひっくり返すような真実への鍵だ」
ロイスは、動悸を抑えながら手記を読み進めた。そして、最後のページに殴り書きされた、不気味な言葉を見つけた。
私は、最初の被験者――あの煤煙の芸術家たちの崩れゆく体内で、確かに聞こえたのだ。黄金に輝く真鍮の心臓の脈動を。それは、人間と機械の境界を完全に消し去り、永遠の生命をもたらす究極の延命装置。これさえあれば、私はプロメテウスの炎に焼かれることなく、神の座へと至れるだろう。
ロイスの思考が、一瞬、完全に停止した。
「真鍮の心臓。ジェミニ、これってまさか、あの噂の」
記憶盗難から始まった事件は、煤煙の芸術家の失踪を経て、今、エフィメラの手記に記された真鍮の心臓という、さらなる深淵へと繋がった。それは、これから発生するであろう、別の不可解な事件への不吉な招待状だった。
ロイスは、自分の左腕を抱きしめた。手記に記された設計図という言葉が、皮膚の下で疼いている。
「面白くなってきたじゃない。エフィメラ、あなたが神様になりたいっていうなら、私はそれを解剖して、真鍮の屑に変えてやるわ」
霧の向こうで、巨大な蒸気ポンプの鼓動が、まるで巨大な怪物の心音のように地下迷宮を揺らし続けていた。




