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真鍮の探偵ロイス・アッシュウォーカー/宿命の解体屋と鋼の守護者  作者: 弌黑流人
灰色の美学

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剥がれゆく嘘のインク

セント・ジュード港の片隅、マダム・ヴェイルの「第零号倉庫」。


重厚な真鍮の扉が閉ざされると、外の喧騒は嘘のように途絶えた。薄暗い室内を満たしているのは、使い込まれた機械油の香りと、数十年前から止まったままの時計の刻む規則的な音だけだ。


「ベル、解析の結果はどう? あの時計塔から持ってきた『燃えカス』、読み取れそう?」


ロイスは作業台に寄りかかり、焦げ付いた写真の欠片を指先で弄んでいた。彼女の横では、ジェミニが護身用の火器を丹念に手入れし、ススが部屋の隅で毛繕いをしながら、鋭い眼光で入口を監視している。


「現在、並行演算中です。あの時計塔の負の現像工場は、物理的な破壊だけでなく、記録の化学的な中和にも特化していました。……ですが、私の演算回路を接続すれば、インクの成分と紙の繊維に残された微細な圧痕から、元の情報を逆現像リバース・デコードすることが可能です」


ベルの銀色の肌が、データの演算に伴って鈍い青色に明滅する。彼女の頭脳は、世界で最も過酷なパズルを解くように、断片化した真実を紡ぎ上げていた。

数分間の沈黙の後、ベルの瞳がパッと開いた。


「解析、終了いたしました。復元されたデータは、クイーン・スチーム・エリザベス号に同乗していた乗客名簿の『裏』リストです」


ベルが指先からホログラムを投影する。そこには、ヴィクトルが語っていた音楽家や元暗殺者の名が並んでいた。しかし、驚くべきことに、その横には赤く点滅する「処刑予定日」というタグがぶら下がっていた。


「……これ、見てください、ロイス様。これは乗客名簿ではありません。彼らはあの大惨事の中で、組織によって『整理』されたのです。……そして、重要なのはここからです」


ベルがリストをスクロールすると、さらに別の名簿が浮かび上がる。そこには、今回沈没をまぬがれたはずの人物や、現在このセント・ジュード港で活動している労働者、さらには治安維持局の下級役人たちの名が連なっていた。


「……あいつら、まだ殺し足りないってわけ?」


ロイスが身を乗り出す。リストの最下部には、不吉な『次期清掃対象ターゲット』という項目があった。そこには、かつてクイーン・スチーム・エリザベス号の厨房で働いていた料理人や、夜の港で密輸の荷運びをしている老人など、一見何の変哲もない市井しせいの人々の名が記載されている。


「彼らに共通するのは、あの豪華客船が沈む際、裏口の貨物室で『本来見てはいけないもの』を目撃していたという点です。……組織は、船が沈んだ後も、生存者の口を封じるために、徹底的な『後始末』を行っているのです」


「なんてことだ……。客船はただの火種に過ぎなかったのか」


ジェミニが言葉を詰まらせた。彼は戦場の現場に何度も立ち会ってきたが、これほどまでに執拗で、事務的な殺意に満ちた組織を見たことがない。掃除屋にとって、命とは真実を隠蔽するための調整弁に過ぎないのだ。


「ベル、次の標的はどこ?」


ロイスが問いかけると、ベルは即座に地図を重ね合わせた。


「標的の一人、元船員のアントニオ氏は、ここから三街区離れた『浮き橋の屋台街』に潜伏しています。……組織の先行班が、あと一時間以内に接触する予測です」


「……あのアントニオって男、あの夜、機関室の隅で私にスープを運んでくれた人だわ。あんなに優しそうに笑う人が、抹消対象に組み込まれていたなんて……」


ロイスは、少年ロイとしての作業着のポケットから、ヴィクトルの血が染みたレンズの破片を取り出した。砕けたガラスの中に、アントニオの怯えた表情が重なって見える。


「掃除屋の奴ら、客船を沈めて全てを闇に葬ったつもりだったんだろうけど、甘いね。その『燃えカス』が、今こうして俺たちの手元にあるんだから。ベル、アントニオさんの居場所へ急行する。……親方、行こう。今度は、ただの解体じゃ済まないよ。あいつらの鼻先で、最高の『証拠』を救い出すのさ」


ジェミニが深く頷き、隠していた補助装具を装着する。ガチャン、という金属音が倉庫内に響き渡る。それは、騎士としての誇りを捨てたはずの彼が、妹と共に「影」の戦場へ踏み出す合図だった。


「ロイ、忘れるな。俺たちは死者だ。派手にやる必要はないが、アントニオを救うためなら、どんな手段も選ばないぞ」


「分かってるよ、親方! さあ、行こう! ベル、演算ルートを最適化して。スス、影の中を進むよ!」


彼らは第零号倉庫の秘密通路へ飛び込んだ。

セント・ジュードの港に降り注ぐ、霧を含んだ夜の帳。その裏側で、血塗られたリストを巡る追跡劇が幕を開けた。


剥がれゆく嘘のインクの下から現れたのは、あまりに脆く、しかしあまりに尊い命の重みだった。


「……待っててよ、アントニオ。今すぐ、その不吉な死のタグを引き剥がしてあげるから」


「ベル、その紙面に書き起こした詳細をマダム宛に、地下の専用ポストに投げ込んでおいてくれ。」


ジェミニの指示でベルが専用ポストへ資料を投函したのを見て、ススが号令のような鳴き声を上げる。


「ナオーーーーン!(さぁ、仕事の時間だ!)」


ロイスの瞳が暗闇の中で鋭く光る。彼女の心の中で、真鍮の歯車が再び冷酷なまでに正確な回転を始めていた。もはや迷いはない。探偵から「修繕屋」へと変貌した彼女たちの、最初の本格的な救出戦が、今始まろうとしていた。


霧の中を突き進む一行の影は、まるで街の闇に溶け込む幽霊のように静かで、それでいて鋼のような意志を秘めて。アントニオの命を狙う「掃除屋」という名の巨大な機械仕掛けに対し、アッシュウォーカー家の幽霊たちが、最初の楔を打ち込もうとしていた。


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