海中時計塔の断末魔
セント・ジュードの港、最東端。
海面から半分姿を消しかけていた海中蒸気時計塔は、月の光を浴びて不気味な青白い輝きを放っていた。それはもはや時の刻み手ではなく、過去という名の亡霊を飲み込む鉄の墓標だった。
「ロイ、ここがその『ネズミの巣』だ」
強面の用心棒に変装したジェミニが、低い声で告げる。彼の背後には、ボロを纏った旧式アンドロイドのベルが、油汚れにまみれた工具箱を抱えて立っていた。
「上等じゃないの。親方、ベル。今夜は最高のオーバーホール日和になりそうだね」
少年整備士「ロイ」に扮したロイスは、鼻歌まじりに懐から小さな真鍮製の音叉を取り出した。彼女の瞳は、オイルの煤で汚れていながらも、獲物を狙う鷹のように鋭く輝いている。彼女は壁に耳を当て、時計塔内部から漏れ出す規則的な振動を聴き取った。
「五時の方向、歯車の噛み合わせが不自然。……地下から来てる。この塔の心臓部、そこが『現像工場』で間違いないよ」
三人は音もなく時計塔の隠し扉を潜り抜けた。内部は地獄の釜のような熱気と、鼻を突く現像液の異臭に満ちていた。薄暗い吹き抜けの空間には、巨大な時計の歯車と、それとは対照的な青い光を放つ最新式の蒸気機関が複雑に接続されている。
「あれを見てください、……ロイ様。あの蒸気槽の中で、膨大な紙片が処理されています。……この国の、いえ、この国が関わる歴史の記録です」
ベルが指差した先では、クイーン・スチーム・エリザベス号から持ち出されたのであろう機密書類や、軍事データが次々と溶かされ、黒いインクの奔流へと変えられていた。
「許せないね。過去を溶かして、なかったことにするなんて。他人の人生を冒涜するにも程がある」
ロイスは工具袋から、父から譲り受けた最後の切り札、三段式蒸気噴射加速機構の調整に使ったレンチを引き抜いた。彼女の脳内では、すでにこの複雑な現像工場の「解体手順」が構築されていた。
「親方、掃除屋の作業員は二名。……ベル、あの機関の圧力バルブを閉じて。あいつらが気づく前に、塔の心臓を止めるよ」
「了解いたしました」
ベルは壁を這うようにして、迷いのない足取りで蒸気配管のバルブへと向かう。ジェミニは、持ち前の騎士の身のこなしで、周囲の警戒を怠らない。だが、その時だった。
「誰だ!」
闇の中から、黒ずくめの作業員が真鍮製の連射銃を構えて現れた。しかし、ロイスは動じない。彼女は手近にあったボルトを床に滑らせ、男の足を滑らせる。同時に、空中に浮いた作業員の手首を、レンチの鋭い一撃で正確に打ち抜いた。
「あぁぁぁっ!」
男が叫びを上げるのも束の間、ロイスは彼を組み伏せ、工具箱から取り出した手錠で拘束する。彼女の動きは、かつての探偵の洗練さと、整備士の粗野な効率性が混ざり合った、全く新しい凶暴さを帯びていた。
「お喋りは後だ。今は、この『歴史を消す機械』に休んでもらう時間だよ」
ロイスは機関の最重要部であるメイン・プリズムに近づくと、その中心に小さなネジを一つ、打ち込んだ。ただのネジではない。それは、機関の振動を逆位相で増幅させる「共振装置」だ。
カチリ、という小さな音と共に、時計塔全体が激しく震え始めた。
「ベル、バルブを回して!」
ベルが力強くバルブを解放すると、内部に蓄積されていた高圧の蒸気が、本来の排出口ではなく機関の内部へと逆流した。
ドォォォンッ!
鈍い爆発音が塔内に響き渡る。機関の青い光は瞬時に消え去り、高速回転していた歯車はひしゃげた音を立てて停止した。立ち込める蒸気の中で、ロイスは不敵に笑う。
「さあ、見せてごらんよ。あなたたちが必死に隠そうとしていた、その黒インクまみれの真実の正体を」
吹き出していた黒い液体の中から、一枚の燃え残った写真が舞い落ちてくる。ロイスがそれを拾い上げると、そこには豪華客船の甲板で笑う、宰相クロノスベインの若き日の姿と、見知らぬ記号が刻まれた紋章が写っていた。
「これは……序章に過ぎないわね。お兄……、いや親方。この歯車を狂わせたんだ、これから先はもっと面白くなるに違いない!」
時計塔の外では、霧の中から警備の掃除屋たちが何人も駆けつけてくる足音が響いていた。ロイスたちは、自分たちの「幽霊としての宣戦布告」が完了したことを確信し、闇の中へと溶け込んでいく。
時計塔の崩落は、セント・ジュードの街の夜を震撼させた。街中の人々が何事かと空を見上げる中、三人と一匹の「解体者たち」は、既に次の標的へと歩みを進めていた。
「ロイ、次へ行くぞ。証拠は手に入れた。マダムに繋ぐ必要がある」
ジェミニが短く促す。
「分かってるよ、親方。……ここからが、幽霊探偵団が行う『現像』の始まりさ」
ロイスは手の中の写真を見つめ、決意を固める。ヴィクトルから託された断片は、今や大きな渦の一部となって、彼女たちを王侯貴族街の深淵へと誘っていく。灰の港の幽霊たちは、今夜、確実に巨大なシステムの歯車に砂を噛ませたのだ。
時計塔を去った後には、ただ静かな潮騒だけが残されていた。だが、彼女たちが残した傷跡は、もう二度と塞がることはない。




