追跡者
錆びたピストン亭の重い扉が、油の切れた蝶番から悲鳴のような金属音を上げた。その隙間から、全身を夜の闇に塗り潰したような黒ずくめの男が店の外へと滑り出した。
男は周囲を警戒するように一度立ち止まると、無機質な視線を左右に走らせ、外套の襟を深く立てた。その身体からは、現像液特有のツンと鼻を突く酸っぱい臭いが漂い、冷たい夜風に乗ってロイスの鼻腔を掠める。男は音もなく歩き出し、第五ドックの入り組んだ路地、迷宮のようなコンテナの影へと消えていった。
「アニキ、獲物が動いた。合図があるまで、地上は任せたよ」
ロイスは喉元の超小型マイクに囁くと、少年ロイとしての身軽さを活かし、酒場の脇にある錆びついた蒸気配管をスルスルと登り始めた。これまでの探偵ドレスであれば、裾の重みやコルセットの束縛に阻まれてできなかった動きだ。今の彼女は、かつての数倍の速度で垂直方向の移動をこなしていく。
屋根の上に到達したロイスの隣には、黄金色の瞳を三日月のように細めたススが、爪の音一つ立てずに並んだ。
「ナァッ(最高の夜だ。獲物の足音を、脳の裏側まで響かせてやるぜ。あの酸っぱい臭いの野郎、逃がしはしねえ)」
ロイスとススは、高さ二十メートルを超える港湾クレーンの巨大なレールへと飛び移った。
セント・ジュード港の夜は、頭上こそが幽霊たちの独壇場だ。眼下に広がる港は、蒸気の煙が霧のように滞留し、視界を遮る迷宮となっている。その霧の上を走る彼女たちにとって、標的の頭頂部は月の光に照らされた格好の目印だった。
だが、その軽やかな動きの裏側で、ロイスの指先は高所の強風に冷やされ、心臓は早鐘のように跳ねていた。一歩間違えれば、真鍮の海へ真っ逆さまだ。少年ロイを演じるという高揚感が、その死の恐怖を辛うじて研ぎ澄まされた集中力へと変換させているに過ぎない。
ロイスはクレーンの鉄骨を、重力さえも欺くようなパルクールで駆け抜け、張り巡らされた真鍮のパイプラインの上を綱渡りのように進む。
地上では、ジェミニが重い足取りを装った用心棒として、ベルはわざと軋む音を立てるガラクタの旧式アンドロイドを完璧に演じながら、一定の距離を保って標的を追い詰めていた。ベルが足を引きずるたびに鳴るキィ、キィという音は、港のありふれたノイズとして完全に周囲に溶け込んでいる。
「ベル、標的の歩幅と心音を記録して。決して逃がさないわよ」
「了解しました、ロイス様。標的、歩率一分間に百二十。体温は一定。警戒心は極めて高く、角を曲がるたびに特殊なレンズで影の形を光学的に解析し、追跡者の有無を確認しています」
標的の男は、廃墟となった製材所の角で唐突に足を止めた。
男が懐から小さなスプレー缶を取り出し、自分たちが通り過ぎた後の地面へ無造作に透明な液体を吹き付けるのを、ロイスはクレーンの上から鋭く見咎めた。男の口元には、追跡者を嘲笑うような笑みが浮かんでいるように見えた。
「待って親方、止まって! その先、地面に銀塩の罠を仕掛けられた!」
ロイスの声と同時に、ジェミニが磁石に吸い寄せられたかのように足を止める。
彼は工具袋から、本来はボイラーの煤を吹き飛ばすための強力な圧縮空気缶を取り出すと、地上へ向かって鋭く噴射した。さらに、袋の中から中和用の炭酸粉末を指先で弾き飛ばす。
見えない霧が晴れるように、地面に撒かれた粉末が露わになり、シュウシュウと音を立てて無力化されていく。それは光の刺激、あるいは物理的な接触に反応して強烈な閃光と数千度の熱を発し、踏んだ者の網膜と脚を同時に焼き切る、掃除屋特有の非人道的な罠だった。
「危ないところだった。でも、この程度の仕掛け、整備士の知恵を舐めないでほしいな。おじさん、もっと面白いものを見せてちょうだいよ!」
ロイは不敵に笑うと、今度は工具袋から小さな真鍮製のネジを取り出した。ただのネジではない。マダムの倉庫で掘り出した、音を拾うための超小型集音振動板を組み込んだ特製の物理式発信機だ。
彼女はそれを、かつて練習したデコピンの要領で、指先で弾いた。
ネジは夜の空気を鋭く切り裂き、正確に、男が錆びたピストン亭にいた時から持参していた、手提げのトランクカバンの革の継ぎ目へと音もなく吸い込まれた。
「デコード完了。これで、あいつが地下に潜ろうと、厚い鉄の扉を閉めようと、振動で居場所を逆探知できるって寸法よ。整備士の耳からは逃げられないわ」




