影の合図
「よう、おじさん! ここのビール、真鍮の味がするって評判だけど本当? あ、ビールはいいや。オレみたいな子供が飲むと、脳内の精巧な歯車が錆び付いちゃうからね。代わりに、最近この港に現れたっていう『黒い服を着た、笑わない連中』の話を聞かせてくれない? ほら、変なカメラを持ってたり、妙に現像液の匂いがするような奴ら。あ、もちろんタダでとは言わないぜ。この最新型のラチェットレンチ、少し触らせてあげてもいいよ。これ、トルクの戻りが最高なんだ。まるで初恋の思い出みたいに、一度噛んだら離さない!ってな具合でさ」
「……あ、あ? 何だこのガキは……。鼻につきやがる。あっちへ行ってろ、ミルクでも飲んでな」
巨漢の男が、鬱陶しそうにロイスを払いのけようとした。しかし、ロイスの瞳が「探偵」の、あるいは「狂信的な機械愛好家」のそれに変わった。彼女は男が手元のテーブルに置いていた、蒸気が漏れて動かなくなった古いポータブル圧搾機をひったくるように奪い取った。
「ちょっとおじさん、これ、バルブの締め方が甘いね。まるで昨日の残り物のシチューみたいにドロドロの組み方。見てな、このシリンダーの位相を三度ずらして、ここのスプリングに活を入れてあげれば……ほら!」
ロイスの手の中で、カチカチと小気味よい金属音が響いた。次の瞬間、死んでいたはずの機械がシュンッという澄んだ排気音と共に力強く駆動を始めた。周囲の男たちが、一斉に動きを止めてロイスの手元を凝視する。
「さあ、おじさん。オレの腕前は証明したよね? 喋った喋った! あんたが昨日見たっていう、あの不気味な黒い船の話。ボルトの数から煙突の傾き、排出される蒸気の色調まで、一ミリ残さず現像してあげるよ!」
「……驚いたな。このガキ、天才か? ……ああ、黒い船か。確かに三日前の夜、灯台の光さえ避けるように入港してきた気味の悪い連中がいたな。船体に名前も書いてねえ、真っ黒な蒸気船だ」
男たちのガードが、ロイスの圧倒的な技術と、リミッターの外れた弾丸トークによって次々と崩壊していく。ロイスは酒場の喧騒の中心で、まるで舞台の主役を演じるかのように、男たちから情報を引き出していく。ジェミニは背後で壁に背を預け、誰にも見えないように深く、深く溜息をついた。彼の右手は、無意識のうちに愛用の多機能装具を探すが、今はそれも隠さなければならない。
「……ナァ(……親方、あいつの『解体癖』は、変装しても治らねえどころか、リミッターが完全に吹き飛んでやがる。……あれじゃ掃除屋を誘い出す前に、セント・ジュード中の情報を喋り尽くして、街の地図を書き換えちまうぜ)」
ススがジェミニの足元で、同じように呆れたような鳴き声を上げた。ススもまた、わざと毛並みを汚して野良猫を演じているが、その鋭い黄金色の瞳だけは、酒場の影に潜む「何か」を監視し続けている。
「なるほどね、その黒い船は第五ドックの裏、封鎖されたはずの水門の方へ消えたってわけ? おじさん、いい情報だよ! お礼にこのレンチ、あと五分だけ貸してあげる。ここのナット、少し緩んでるから締め直しときなよ。じゃないと、明日の朝にはあんたの自慢の圧搾機は、ただの真鍮の文鎮になっちゃうからさ!」
ロイスはカウンターを叩いて笑い、男たちの肩を叩きながら、さらなる情報を求めて言葉の網を広げていく。店内に満ちる蒸気の熱気の中、ロイスの瞳が一瞬だけ、カウンターの隅で静かに安酒を飲む「全身黒ずくめの男」へと向けられた。彼女の笑顔は崩れない。しかし、脳内の計算回路はすでに、その男が纏う独特の「薬品の匂い」……現像液の臭いを、逃さず捉えていた。
「(……ロイ。あそこの隅だ。時計の五時の方向に座っている男、現像液の匂いが強すぎる)」
ジェミニが唇をほとんど動かさず、極小の声で伝達する。
「(……分かってるますって、親方。あいつ、この喧騒の中でも視線が全く泳がない。本物のプロだね。……お喋りはこれからが本番。……親方、スス。ベル、工具箱の準備を。『ネズミ』の尻尾、見つけたり)」
ロイスは上機嫌な少年「ロイ」の仮面を被ったまま、心の中で獲物を解体する手順を組み立て始めた。セント・ジュードの港に差す夕闇が、幽霊たちの活動を告げるための舞台照明のように、じわじわと酒場の中へと忍び寄っていた。




