錆びたピストン亭
「ねえ見てお兄様! このダボダボの作業着、意外と動きやすくて最高じゃない? ドレスのコルセットから解放されて、私の肺が『自由だー!』って叫んでるわ。あ、今は『お兄様』じゃなくて『アニキ』って呼ぶんだったわね? いえ、いっそ『親方』はどうかしら? それとも『無口な鉄屑拾い』?」
セント・ジュード港の片隅、潮風と安酒、そして重油の匂いが分厚く層を成す裏通り。少年整備士「ロイ」に扮したロイスは、鼻歌まじりにステップを踏みながら、上機嫌で街を闊歩していた。
彼女が纏っているのは、マダム・ヴェイルの第零号倉庫に眠っていた、誰のものとも知れぬ古びた整備士用のツナギだ。肩幅は大きく余り、袖は無造作に捲り上げられ、腰には使い込まれた真鍮の工具袋が重たげに揺れている。顔にはわざとらしくオイルの汚れを塗りたくっているが、その瞳はかつてないほど爛々と輝いていた。
これまでの彼女は、アッシュウォーカー家の令嬢として、そして「探偵ロイス」として、常に背筋を伸ばし、社会の規範という見えないコルセットに締め付けられていた。しかし今、彼女は「死者」だ。誰にも知られず、何者でもないという解放感。それが彼女の饒舌さに、かつてないほどのブーストをかけていた。
「ロイス……いや、ロイ。少し声を落とせ。影として動くという規範を決めたばかりだろう。そんなに喋り倒していたら、隠れるどころか街中の注目を集めてしまう。……俺の胃が、ボイラーの破裂寸前みたいな不穏な音を立てているのが聞こえないのか?」
ボイラーマンの重厚な外套を深く被り、不自然なほど立派な付け髭を蓄えて「強面の用心棒」を装ったジェミニが、眉間を指で押さえながら小声で窘める。
その後ろでは、錆びた塗装をわざと施され、関節が動くたびに「キィ、キィ」と不気味な金属摩擦音を立てる設定にされたベルが、律儀に重い工具箱を抱えて追従していた。ベルの完璧な銀の肌は今やオイルと煤にまみれ、旧式の労働用アンドロイドそのものに見える。
「おっと、失礼。でも聞いてよ親方、この変装用のオイル、マダムが言ってたほど悪くないわ。むしろピスタチオのような香ばしさと、年代物のワインのようなコクがあるっていうか、機械の気持ちになれる素敵な香りよ。あ、見て! あそこの酒場、『錆びたピストン亭』! いかにもネズミが好みそうな名前じゃない? 潜入捜査の第一歩は、やっぱり地元の油っこい噂話からってのが定番だよね!」
ロイスは止まらない。彼女は酒場の重い木製のドアを勢いよく蹴り開けようとして、自分の足が意外と短いことを直前で思い出した。一瞬だけ空を蹴ってよろめいたがすぐに何事もなかったかのように体勢を立て直すと、手で慎重に、しかし勢いよくドアを押し開けた。
店内の空気は、地上の霧よりも濃い煤煙と、安物の合成ビール、そして何日も洗われていない労働者たちの汗の匂いで満ちていた。壁には剥き出しの真鍮製蒸気配管が血管のように這い、奥にある旧式のボイラーがドクンドクンと不規則な鼓動を刻んでいる。カウンターには、港の重労働で指先が真鍮色に染まった荒くれ者たちが、濁った液体が入ったグラスを傾けていた。
「……黒い連中……なんだってあんなところによぉ、ほんと気味が悪いぜ……」
ベルがカウンターに座る大柄な男の独り言を拾い、ロイスの腕まくりした袖を引き、対象を指で指し示すと、言葉を発さずに頷いてみせた。
ロイスは迷うことなく、店内で最も巨大な背中を見せている男……カウンターに座る熊のような体格をした荷揚げ人足の隣に、ひょいと軽やかな動作で腰掛けた。




