訣別
マダム・ヴェイルの館の地下。そこには、かつての古い下水道を改造し、情報の運び屋たちが夜な夜な行き交う「秘密の血管」が張り巡らされていた。
ロイスたちは、湿ったレンガの壁から染み出す水の音と、時折響く蒸気ポンプの脈動を頼りに、暗い通路を数キロメートルにわたって歩き続けた。
やがて、セント・ジュード港の最東端……かつて大規模な火災に見舞われ、今では打ち捨てられた巨大な蒸気クレーンが錆びた骨格を晒している立ち入り禁止区域の地下に、その場所はあった。
「……ここよ。地図上では二十年前に焼失したことになっているけれど、実はマダムがこっそり私財を投じて補強し続けていた『第零号倉庫』。彼女が表に出せない、けれど捨てるには忍びない過去を閉じ込めた宝箱よ」
ロイスが、苔むしたコンクリートの壁に隠された重厚な真鍮のハンドルを回すと、空気が抜けるような重低音と共に扉が開いた。
一歩足を踏み入れた瞬間、一行を包み込んだのは、数十年前の空気が凍結したような、不思議な静寂だった。
天井は眩暈がするほど高く、むき出しの真鍮配管が網の目のように走り、そこから漏れる蒸気が微かな黄金色の霧となって空間を漂っている。倉庫内には、マダムが長年収集してきた「歴史の異端児」たちが、防塵布を被せられたまま、静かな葬列のように並んでいた。
「……これは、すごいな。ただの倉庫じゃない、ここは真鍮時代の博物誌だ」
ジェミニが驚嘆の声を漏らす。
布の隙間からは、戦時中に試作され、あまりの凶悪さに廃棄された多脚歩行戦車の脚部や、音を記録するためではなく「遠く離れた人の囁き声を盗み聞く」ために作られた巨大な拡声器のような集音装置が顔を覗かせている。
さらに奥には、実験段階で放棄されたという巨大な蒸気式差分機関……いわゆる初期の計算機が、壁一面を占拠して沈黙していた。
居住スペースには、かつて王族が使っていたという擦り切れた革張りのソファ、小型の蒸気式キッチン、そして何より重要な、アッシュキャリアーを丸ごと収容して整備できる大型の油圧式昇降機が備わっていた。
「……申し分ない環境ね。厚い鉛の壁が外部からの電磁波を完全に遮断しているし、緊急用の脱出路は海中の秘密ドックへ直結している。……まさに、死んだはずの幽霊が住むには最高の城だわ」
ロイスは、鏡の前に立った。
そこには、昨夜までの誇り高い「アッシュウォーカー家の探偵」の姿があった。しかし、彼女は迷うことなく、マダムが用意した煤けた機械工の作業着に袖を通した。
あの灰色の朝が訪れる以前、まだ私が幼かった頃に父から贈られた青い宝石たち。それをボタンの表面にあつらえた探偵ドレス。彼女はその編み上げの紐を、多機能工具のナイフで自ら切り裂いた。それは、過去の自分との訣別の儀式だった。
美しい金髪を地味なハンチング帽の中に押し込み、白い頬にわざと黒いオイルと煤を塗りつける。指先に残る、ヴィクトルの冷たくなった肌の感触が、彼女の覚悟をより鋭く、より強固なものへと変えていく。
「お兄様、手伝って。……ベルを『汚さなきゃ』」
ジェミニは、苦渋の表情で頷いた。
彼は、自らの騎士としての誇りである補助装具を、使い古されたボイラーマンの重厚な外套の下に隠した。そして、完璧な美しさと輝きを持つベルの銀色の肌に、わざと「錆」や「凹み」を模した特殊な塗料を塗布していく。
家族のように愛しているベルを、自らの手で「型落ちのガラクタ」に見せかける作業は、ジェミニにとってどんな戦いよりも辛いものだった。
「……問題ありません、ジェミニ様。表面の塗装が変わろうとも、私の内部回路にある皆様との記録は、一ビットたりとも損なわれることはありません。……今の私は、皆様を守るための『影』として、最適化されています」
ベルが、その錆びた肌を少しだけ動かして告げる。
アッシュキャリアーもまた、その象徴的な真鍮のエンブレムを削り落とされ、わざと耐熱塗装を剥がして、港に転がっている「野ざらしの廃車」のような姿へと変えられていた。




