海に消える名家
七日目の朝、午前六時。
セント・ジュードの港は、夜明け前の深い群青色の闇と、海面から這い上がる湿った霧に包まれていた。
この港は、表向きは健全な蒸気貿易の拠点だが、その裏では法の手が届かない密輸品や情報の売り買いが日常的に行われる、真鍮と硝煙の匂いが染み付いた場所だ。
立ち並ぶ巨大なクレーンや、潮風に晒されて赤錆びた真鍮製の倉庫群は、霧の中で巨大な鉄の墓標のようにぼんやりと霞んでいる。港湾労働者たちの低い話し声と、蒸気ウインチが吐き出す重苦しい排気音。その日常的な喧騒に紛れるようにして、一隻の「奇妙な影」が、地図に載っていない秘密の荷揚げドックへと滑り込んだ。
「ベル、メインエンジン停止。慣性だけで接岸させて。ジェミニ、スス、絶対に外から姿を見られないように」
ロイスは、アッシュキャリアーのキャビンの中で、残った僅かな蒸気が抜けるヒューッという排気音に耳を澄ませていた。
彼女の指先は、まだ僅かに震えている。それは寒さのせいではなく、この数時間で行った命懸けの芝居の余韻だった。
彼らがこの数時間で行ったのは、徹底的なまでの死の偽装だ。
あの凄惨な沈没の際、ジェミニはアッシュキャリアーが海へ飛び込む直前の阿鼻叫喚の中、冷静に準備を進めていた。あらかじめ中身を空にし、アッシュウォーカー家の紋章が刻まれたスペアのトランク。ロイスがかつて愛用していた予備のハット。そして、ヴィクトルの残光によって半ば融解した、わざと壊した古い補助装具のパーツ。
ジェミニはそれらを、燃え盛る重油の海面へと派手にばらまいたのだ。
不沈の宮殿から逃げ遅れ、絶望的な状況で遺していったアッシュウォーカーの残骸。
世間にとって、そして何より「掃除屋」という冷酷な組織にとって、ロイス・アッシュウォーカーはこの海で鉄の屑と共に消えた死者でなければならない。
一行は、厚い霧を外套代わりにし、ドックの裏口から入り組んだ街路へと滑り出した。
目的地は、華やかなガス灯が並ぶ大通りから三つ角を折れた先。歴史の澱みが溜まったような、古びた骨董通りだ。
そこには、表向きは高級アンティーク・ショップ、その実体はこの街の情報の半分を握るマダム・ヴェイルの館があった。
隠し扉を抜け、琥珀色のランプが幻想的に灯るサロンへと足を踏み入れれば、そこには場違いなほど軽やかなシャンソンの調べが流れていた。空気中には、最高級の葉巻と、誰のものとも知れぬ秘密が混じり合った独特の香りが漂っている。
豪奢なベルベットの長椅子に身を預け、朝からクリスタルのシャンパングラスを傾けていたマダム・ヴェイルが、計算高い瞳を宝石のように輝かせて彼らを迎えた。
「あら、アッシュウォーカーさん。情報なんて、最新型の帽子と同じで、誰かの頭に乗せてみないと価値がわからないでしょう? さあ、代わりにあの騎士団長の悲惨な私生活について教えて? 昨夜、愛人との情事で補助装具がロックしちゃったって噂、本当かしら?」
「マダム……。冗談を言っている余裕はないわ。私たちは、豪華客船と海に沈んだことになっているの。しばらくの間、表の探偵事務所を捨てて、身を隠す場所が必要なのよ」
ロイスが詰め寄ると、マダムは「おほほ」と贅沢な刺繍が施された扇子で口元を隠し、鈴を転がすような声で笑った。
「まあ、そんな物騒な。海に沈むなんて、去年の流行遅れのドレスみたいな言い草ね。それより見て、この最新のオートマタの指先。真鍮の磨き方が甘いと思わない?」
その言葉を遮るように、ジェミニが一歩前へ出て、騎士の礼節を保ったまま深々と頭を下げた。
「マダム・ヴェイル。突然の不作法、お許しください。妹の言う通り、現在我々は国家規模の清掃に巻き込まれております。貴女の審美眼に叶わぬような無様な姿で現れたこと、騎士として、そしてアッシュウォーカーの一員として恥じ入るばかりです」
「あら、ジェミニ様。相変わらず堅苦しいこと。その真面目さが服を着て歩いているような姿、いつ見ても最高級の退屈を味わえるわ。でも、そんな貴方が私のサロンの絨毯を泥で汚すなんて、相当な事態なのでしょうね」
マダムの視線が、ロイスの背後に控えていた白銀のアンドロイドへと移る。
ベルは一歩前に出ると、かつて自分を深い暗渠のガラクタの山から見出し、アッシュウォーカー家へと繋いでくれた大恩人に対し、完璧な角度で膝を折った。
「お久しぶりでございます、マダム・ヴェイル。かつて貴女が私を掘り出し物として見出してくださったおかげで、今の私はアッシュウォーカー家にて、毎日が演算回路の限界を試されるような、充実した日々を送っております。貴女の審美眼に狂いがなかったことを、この場を借りて改めて証明できたなら幸いです」
ベルの無機質ながらも温かみのある言葉に、マダムは目を細めた。
「ふふ、あんなに煤けて動かなかった銀の人形が、今やこんなに口達者になって。ロイス、貴女の教育というより、彼女自身の意思が磨かれたようね。ええ、いいわ。私の最高のコレクションがそう言うのなら、無下にはできないわね」
マダムは立ち上がり、シャンパングラスを置くと、急に表情から遊びを消した。




