偽聖域からの逃走
豪華客船クイーン・エリザベス・スチーム号が沈んだ海域から数海里。アッシュキャリアーの後部スラスターが放つ青白い火花は、執拗な追っ手を振り切ったという確信とともに、穏やかな巡航の輝きへと変わっていた。
ホバー形態特有の、波を滑るような微細な振動。そして、車体中央に位置するメインボイラーから規則正しく刻まれる蒸気ピストンの駆動音。かつては騒々しく感じたはずのその音が、今の彼女たちにとっては、唯一の安らぎと日常を告げる子守唄のように響いていた。
「ロイス、少し痛むぞ。我慢してくれ」
アッシュキャリアーの広々とした中央デッキ。ジェミニは、ロイスの左腕を覆っていた、焼け付いて歪な形になった真鍮の装具を慎重に取り外していた。
三段式蒸気噴射加速機構の超高圧と、処刑執行人が放った熱線との激突に耐え抜いた装具は、所々が赤茶色に変色し、独特の焦げた匂いを放っている。装具が外されたロイスの白い肌には、継ぎ目から漏れ出した過熱蒸気が残した痛々しい火傷の跡が、網目状に広がっていた。
「……っ、大丈夫よ、ジェミニ。これくらい……あの船と一緒に沈んでいった数え切れない真実に比べれば、なんてことないわ」
ロイスは痛みに唇を噛み締めながらも、毅然とした瞳で兄を見つめ返した。
ジェミニは無言で、救急キットから取り出した特製の冷却ジェルを丁寧に塗り込み、清潔な包帯で手際よく丁寧に巻いていく。かつて騎士団の最前線で、数多くの負傷した戦友たちを治療してきた彼の手つきは、驚くほど正確で、なにより妹への慈しみに満ちていた。
「幸い、腕の骨には異常はない。だが、神経が酷く昂ぶっている状態だ。……ロイス、今は考えるのを止めて眠るんだ。情報を整理するのは、この火傷の熱が引いてからでも決して遅くはない」
ジェミニはロイスの手当てを終えると、今度は床に置かれた彼女の装具に向き合った。小型の鑢と専用の洗浄液を使い、焦げ付いた歯車の隙間を一つずつ清掃していく。彼の指先からは、妹の武器であり守りであるその機械への、深い敬意と祈りにも似た感情が伝わってくるようだった。
自分の多機能装具の手入れを終える頃には、ジェミニの端正な顔立ちにも、抗いようのない濃い疲労の色が浮かんでいた。彼は愛用の工具を大切に抱えるようにして、壁のクッションに背を預け、吸い込まれるように深い眠りへと落ちた。
「……ナァン(……周囲、異常なしだぜ。海の上には、カモメの一羽もいやしねえ。掃除屋どもも、今頃は海の底で鉄屑の仲間入りでもしているさ)」
後部ハッチの監視窓に貼り付き、ずっと外海を睨みつけていたススが、ようやく緊張の糸を解いてロイスの方へ歩み寄ってきた。
ススはロイスの足元に丸まると、彼女の無事な方の右手を、自分の柔らかく温かい毛並みに誘うように、そっと頭を擦りつけた。
「……ありがとう、スス。あなたもおやすみなさい」
ロイスはススの鼓動を感じながら、ゆっくりと重い瞼を閉じた。
脳裏には、ヴィクトルの最期の穏やかな笑顔、ハワード夫妻が浮かべた絶望的な恐怖、そして音楽家の青年が奏でていた悲しげな旋律が、壊れた走馬灯のように浮かんでは消えていく。今はそのすべてを、アッシュキャリアーの心地よい揺れが、深い、泥のような闇へと沈めてくれた。
「……ロイス様、ジェミニ様、ススさん。どうぞ安心してお休みください。これより、目的地までの航行管理および周辺警戒は、このベルが責任を持って継続いたします。皆様に、穏やかな眠りが訪れますように」
運転席では、ベルが微動だにせずハンドルを握り続けていた。
彼女には休息は必要ない。彼女の銀色の瞳は、水平線の彼方に沈みゆく夕日のその先に待つ寄港地の灯火だけを、ただ真っ直ぐに見据えていた。




