嘆きの井戸
「ドクター・エフィメラの研究所は、都市の全エネルギーを司る巨大なポンプ群に囲まれた廃墟。通称『嘆きの井戸』にあるわ」
夜気を切り裂いて疾走する蒸気自動車。その激しい揺れの中で、ジェミニは膝の上で携帯型の解析盤『モバイル・クロノメーター』を操作しながら告げた。
精密機械のような淀みない指先が空間に触れると、微細な蒸気の粒子に光が投影され、ネオ・ロンドニウムの複雑怪奇な地下構造図が青白く浮かび上がる。
「マダム・ヴェイルから得た情報と、あの記憶盗難の現場で犯人が残した残滓の変質度を演算回路で照合した。結果、嘆きの井戸周辺の残滓濃度が、他の区画に比べて異常に高いことが判明した。エフィメラは騎士団の目を盗み、そこで今もなお『黒い皮膚の実験』を継続している可能性が極めて高い」
「嘆きの井戸ですって? あら、相変わらずこの街の連中はネーミングセンスが悪いのね。陰気臭くて、私の磨き抜かれた鎧が曇ってしまいそうだわ。私なら『美少女探偵の優雅なる秘密基地』と名付けるのに!」
助手席に座るロイスは、不敵な笑みを浮かべながら自分の真鍮の胸甲を軽く拳で叩いた。澄んだ金属音が狭い車内に響き渡る。
「でも、そのエフィメラという男。なぜわざわざ『煤煙の芸術家』たちを誘拐して、何を企んでいるのかしら? 単なる記憶盗難が目的なら、もっと効率的な方法があるはずよ。わざわざ残滓に耐性を持つ変異者を集めるなんて、まるで何かの儀式みたいじゃない?」
ジェミニは解析盤から目を離さず、氷のような静徹さで警告を発した。
「彼の実験の最終目的は、残滓を『進化の触媒』として、人間の皮膚や臓器そのものに高圧で融合させることだ。我々が今追っているのは、その人体実験における素材集めの最終段階だろう。ロイス、いいか。そこは君の左腕――あの忌まわしき『黒い残滓の皮膚』に最も近接した、危険な領域だ。不用意な接触は、君の負荷限界を瞬時に突破させるぞ」
「大丈夫よ、ジェミニ。心配性ね。私の左腕は、彼の安っぽい実験のお手本になるには、あまりにも華麗で、気高く、美しすぎるわ!」
ロイスはそう言い放ちながらも、密かに機械式単眼を起動させ、自身の心拍数と左腕の熱量をモニターした。彼女もまた、自覚していた。自分の左腕に張り付いた漆黒の痣は、エフィメラの実験の完成形に近いのではないか。
そして、それが十年前の未解決事件『灰色の朝』の真実に繋がっているのではないかという、喉の奥を焼くような予感を。




