第64話 ボス戦:ダイナマイト練馬 vs. 蚊竜ムスティガ①
「…………」
爆炎の中から現れた蚊の怪物は、ゆっくりとこちらへ歩いてくると、初めて組んでいた腕を解いた。
そのまま、爆発によって抉れた壁へ視線を向ける。
そこにいたはずの蝗の怪物は、もう跡形もない。
【一撃必死】によって爆発四散した以上、当然だ。
すると──
「ギ……」
蚊の怪物の身体が、僅かに震えた。
次の瞬間。
「ギャアアアアアアアアァァァァァッ!!」
耳をつんざくような雄叫びが、地下四十階層のボスフロアを震わせた。
「うっ……!?」
思わず耳を押さえる。
怒っている……のだろうか。
相棒らしき怪物を殺されたんだから、そう考えるのが普通だ。
でも……何だろう。
怒りだけじゃない。
悲しんでいるようにも聞こえるし、それとは真逆に、何かを喜んでいるようにも聞こえる。
まるで──ようやく待ち望んでいた何かを見つけたみたいに。
「…………」
背後から、息を呑む気配がした。
江戸川会長たちだけじゃない。
壁際へ避難している探索者たちも、全員が声を失っている。
さっきの蝗の怪物が立っていた時とは、明らかに空気が違う。
こいつが叫んだだけで、ボスフロア全体に見えない重しでも載せられたみたいだった。
『……「双子座は、凶兆を告げる二ツ星」』
不意に、フランの声が頭の中へ響いた。
『「弟は実りを喰らい、兄は血ある命を啜る。弟は脆く、兄は剛し。されど双星は離れず、ひとつ墜ちれば、残る星は天を哭かす」──』
「…………」
えっ、何それ。
急に古代の予言みたいなの始まったんだけど。
(フラン……それって、どういう……?)
『──マズったにゃ』
フランの声には、はっきりと後悔が滲んでいた。
『ニャーは、でけぇ方が兄だと思ってたにゃ。見た目で力関係の判断を誤ったにゃ……先にあの小せぇ方を先に爆破するべきだったにゃ』
(……え?)
俺は蚊の怪物から目を離さないまま、喉を鳴らした。
ということは……
さっき倒した蝗の怪物が弟で、目の前にいるこいつが兄ということなんだろうか。
『──ロミオ』
フランが、何とも言いにくそうな声で呼びかけてくる。
いつもとは違った意味で、嫌な予感がした。
『【一撃必死】は……』
(……今日の分は、もう打ち止めだよ)
俺が先回りして答えると、念話の向こうで少しだけ沈黙が流れた。
『……だよにゃ』
やめてほしい。
そんな「ですよね」みたいなテンションで、絶望的な事実を再確認しないで。
今日使える五回分の【一撃必死】は、さっきの蝗の怪物を倒した時点で完全に使い切っている。
つまり、今目の前にいるこいつには、俺の確殺スキルが使えない。
「…………」
そんな俺たちのやり取りなど知るはずもなく、蚊の怪物がゆっくりとこちらへ一歩踏み出した。
その大きな複眼は、さっきから一度も俺を外していない。
さらにもう一歩。
まるでこちらの反応を楽しむように距離を詰めてくる。
そして次の瞬間──
ドンッ!!
足元の石床が爆ぜた。
「──ッ!?」
視界から、怪物の姿が消える。
『気張れにゃ!! ロミオ!!』
(速い……!?)
反射的に意識を集中させた。
頭の奥がすっと冷え、視界の解像度が一気に高まる。
それと同時に周囲の時間が急激に引き延ばされ、宙を舞っていた砂埃さえ空中へ貼り付けられたように、ほとんど動かなくなった。
背後では江戸川会長がこちらへ手を伸ばそうとしている。
牧島先輩も、神先輩も、トリッシュ先輩も、藤宮先輩も。
全員が超低速再生された映像の中にいるように、ゆっくりとしか動いていない。
なのに──
「……えぇっ!?」
その中で、蚊と竜のあいのこの怪物だけが、普通に動いていた。
背中の半透明な翅を細かく震わせながら地面を蹴り、こちらへ向かって凄まじい勢いで距離を詰めてくる。
(う、ウソだろ……!? こんなにゆっくりな世界の中なのに、それでも速い!?)
もっとも、今の俺から見れば避けられないほどではない。
感覚としては、普通の人間が全力疾走で向かってくる程度だ。
それでも、周囲のすべてが止まりかけて見えるこの状態で、これほどの速度で動く相手を見るのは初めてだった。
「ギィッ!」
蚊の怪物が鋭く鳴き、右腕を大きく振りかぶる。
狙いは真っ直ぐ俺の顔面だ。
「危なっ!?」
咄嗟に左腕を上げる。
ドガッ!!
拳を受け止めた瞬間、ずしりと重い衝撃が腕全体へ走った。
思ったより重い。
そう感じた時には、すでに反対側から二発目の拳が飛んできている。
今度は右腕で受け、そのまま左右から間髪入れずに繰り出される拳を二発、三発と受け流しながら、俺もどうにか反撃へ転じた。
(確か……こんな感じだったよな!)
頭に浮かんだのは、以前動画で見た探索者の格闘シーンだった。
左を打って、そのまま右。
基本のワンツーってやつだ。
「この……っ!」
まず左拳を叩き込む。
だが蚊の怪物は、それを右腕で難なく受け止めた。
続けて放った右ストレートも、ほんの僅かに頭を沈めただけで綺麗に躱される。
「えっ」
次の瞬間──
ドゴォッ!!
「ぐぇ……っ……!」
鋭い膝蹴りが鳩尾へめり込んだ。
腹の奥から何かが迫り上がってくるような痛みに、思わず身体が前へ折れる。
死ぬほど痛いわけじゃないし、骨が折れた感じもしない。
……それでも普通にかなり痛かった。
感覚としては、喧嘩慣れしたヤンキーに腹を思い切りどつかれたくらいだろうか。
(これ……何発も貰うのは普通に嫌だぞ……!)
そう思った瞬間、視界の端で細長い何かが動いた。
「──っ!?」
蚊の怪物の腰から伸びた尾が、鞭のようにしなりながら俺の首元へ襲いかかってくる。
その先端にあるのは、鋭く尖った一本の針。
これは……流石に当たっちゃダメだと分かる。
「くっ……!」
上体を大きく捻る。
ヒュンッ!!
針先が首のすぐ横を通り過ぎた。
ギリギリ避けた。
そう思った直後、首元に熱い痛みが走る。
「……痛っ」
指先で触れてみると、赤い血が付いていた。
どうやら針そのものは躱したものの、その根元にある硬い尾の表面が皮膚を掠めていったらしい。
「…………」
これは、まずい。
改めてそう思った。
今の俺とこいつの戦いは、感覚的にはスキルへ目覚める前の一般人の俺が、ナイフを持った喧嘩慣れした暴漢に襲われているようなものだ。
攻撃は見えるし、躱すこともできる。
反撃だって不可能じゃない。
でも、一度でも油断すれば、あの針をまともに喰らう。
(しかも今日、ネオライト鋼の双剣持ってきてないんだけど……!)
双剣を使うのは門田露澪としての戦闘スタイル。
今の俺はダイナマイト練馬だ。
あの双剣を使うわけにはいかない。
そう考えて、ロッカーにしまったまま来てしまった。
完全に素手。
頼みの【一撃必死】も、もう残っていない。
このまま一人でやるしかないのか。
それとも、誰かと一緒に──。
(誰か……一緒に戦ってくれる人は……!? フランは……!?)
俺はほんの一瞬だけ、周囲へ視線を向けた。
──だが、そこで改めて理解してしまった。
空中にいるフランですら、今の俺にはほとんど止まって見える。
江戸川会長も、牧島先輩も、神先輩も、トリッシュ先輩も、藤宮先輩も。
その後ろにいる大勢の探索者たちまで、全員が超低速再生された映像の中へ取り残されたように、ゆっくりとしか動いていない。
その光景を見た瞬間……
俺はようやく、自分が置かれている状況を理解した。
誰かに助けてもらうとか、一緒に戦ってもらうとか、そういう話ではないのだ。
(この『スローモーションの世界』でまともに動けるのは……俺と、こいつだけだ)
蚊の怪物が再び腰を落とす。
俺もそれに合わせるように拳を構えた。
正直、怖い。
今までのように一発攻撃を当てれば終わる相手ではないし、頼みの【一撃必死】も今日はもう使えない。
今回は、本当に俺自身の力だけでこいつに勝たなければならない。
それでも──
ここまで来たのは、誰かに無理やり連れてこられたからじゃない。
スキルのノルマでもなければ、フランに命令されたわけでもない。
むしろフランは『行くな』と止めてくれていた。
それを振り切って、危険だと分かった上で、それでも助けに行くと決めたのは俺自身だ。
(俺が選んだ戦いだろ……!)
強く拳を握り込む。
(覚悟を決めろ、門田露澪……いや)
今、この瞬間の俺は──
(──ダイナマイト練馬!!)
意識を目の前の怪物だけへ向ける。
この場でこいつとまともに戦えるのが俺しかいないのなら、俺がやるしかない。
そう腹を括ったはずだった。
それでも、胸の奥にはどうしても拭いきれない感覚が残っている。
周りにはこれだけ大勢の人がいる。
フランもいるし、江戸川会長たちもいる。
なのに──
今の俺と同じ速さで、この怪物の前に立てる人間は誰もいない。
そう考えた瞬間……
まるで大勢の人がいる戦場で、自分だけが別の時間へ取り残されてしまったような──
今まで味わったことのない、どうしようもない孤独が胸の奥へ静かに広がっていった。
─────────────────
ドガガガガガガガガッ!!
凄まじい衝突音が地下四十階層を震わせる。
ダイナマイト練馬と蚊竜。
二つの影は、もはや大半の探索者の目では追い切れない速度でボスフロアを駆け回っていた。
つい先ほどまでそこにいたはずの姿が消えたかと思えば、数メートル離れた場所から激しい衝突音が響く。
拳と拳がぶつかり、蹴りと腕が激突するたびに石床が弾け、強烈な風圧が周囲を駆け抜ける。
探索者たちの目に届く頃にはすでに二人の姿は別の場所へ移っており、遅れて轟音だけが耳へ届いた。
「な……なんなの……この戦い……」
トリッシュが呆然と呟く。
神も杖を握ったまま、目の前で繰り広げられる光景を信じられないように見つめていた。
「戦いの次元が……違いすぎる……!」
「……何も、見えない」
藤宮も額に汗を浮かべながらゲーム機へ視線を落とす。
画面上には二つの光点が表示されているものの、それらは常識外れの速度で位置を変え続け、まともに追跡することすら難しい。
「僕達が手を出す余地なんて……どこにもない……」
周囲にいる探索者たちも同じだった。
誰一人として前へ出られない。
いや──
仮に飛び込んだところで、何をすればいいのかすら分からない。
それほどまでに、目の前で行われている戦いは彼らの理解を超えていた。
そんな中──
「ダイナマイト練馬様が……」
朱里が震える声を漏らし、長剣を握る手へ力を込めた。
「押されてる……!?」
信じたくはない。
完全に一方的な戦いというわけでもなかった。
ダイナマイト練馬も何度も拳を返し、蚊竜の攻撃を躱しながら、時にはその身体を大きく弾き飛ばしている。
それでも──
二人が攻撃を受ける回数を比べれば、明らかにダイナマイト練馬の方が多かった。
「…………」
牧島もまた、その戦いを黙ったまま見つめていた。
ダイナマイト練馬による蝗竜爆殺時、戦闘貢献度に応じて分配された経験値によって、牧島のレベルはLV二十三からLV二十七まで上昇していた
つい先ほどまでの自分から考えれば、途方もない成長だった。
身体能力も明らかに上がっている。
それでも──
今、目の前で繰り広げられている戦いを見ていると、その四つのレベル差にどれほどの意味があるのか分からなくなった。
(……次元が違ェ)
牧島は無意識に拳を握る。
今の自分があの戦いへ割って入ったところで、足手まといになる可能性の方が遥かに高い。
下手に手を出せば、ダイナマイト練馬の邪魔をするだけかもしれない。
だったら、ここはあいつ一人に任せた方が──。
──そう考えかけた、その時。
高速で交錯していた二つの影が、一瞬だけ離れた、ほんの刹那。
覆面の隙間から、ダイナマイト練馬の目が見えた。
「…………!」
その瞳に浮かんでいたものを見て、牧島の胸が、僅かにざわつく。
──怯えている。
本当に一瞬だった。
それでも牧島には、そう見えた。
次の瞬間。
「──だらァッ!!」
ゴッ!!
牧島は自分の頬を拳で殴りつけた。
「マッキー!?」
驚いたトリッシュが振り返る。
だが牧島は答えない。
自分自身へ腹を立てるように歯を食いしばり、拳をもう一度強く握り込んだ。
「違ェだろォ……」
低い声が漏れる。
「アイツが自分より強ェからって……全部任せて眺めてるだけかよ……!?」
ガチンッ!!
牧島は両拳を強く打ち合わせた。
そして、自分自身を叱り飛ばすように、腹の底から怒鳴る。
「お前は……そうじゃねェだろ!! なァ!! 牧島丑雄ォ!!」




